黒龍現る
『ガシャン――――』
廊下の板の間に落下した木箱は、中で陶器が割れる音と共に転がる。
紺色の編み紐はほどけ、貼られていたお札は破れた。
一華はとっさに後ろを振り返る。
父の大切なコレクションを壊してしまい、叱られるのではないかと思ったのだ。
――しかし、事態は一華の想像を遙かに超えていく――
空気が抜けるような音と共に、木箱の隙間から白い煙が吹き出しはじめる。
それが廊下の天井まで達すると、突然雷のような閃光。
直後に何かが爆発する。まるでガス爆発のように。
爆風は一華のいる部屋と廊下を隔てるふすまを吹き飛ばし、彼女は降りかかるふすまとともに壁際に吹き飛ばされる。
一華は必死の思いで覆い被さるふすまから抜け出し、部屋の状況を確認する。
部屋の中には爆風で吹き飛ばされた骨董品の破片のほか、天井からはがれ落ちた木片が散乱し、爆風のすさまじさを物語っていた。
「ええっ……!?」
部屋の中の惨状よりも彼女が驚いたのは、廊下の外側一面にあったはずの雨戸やガラス戸がすべて吹き飛んでいたこと。『ガサッ』という音とともに雨樋が垂れ下がる。廊下側の屋根は半壊状態である。
完全に吹きさらしとなった部屋からは、本殿をはじめとする境内の様子が一望できる状態だ。
今宵は満月。
月明かりで境内の様子はうっすらと見えている……
はずなのに……
視界を妨げるように黒い何かがそこにある。
いや、目の錯覚だろうか?
一華はそれが何かを確かめるべく、そろりそろりと近寄っていく。
『ズシン、ズシン……』
外の境内から地響きのような振動が伝わってくる。これまでに経験したことのない音と振動に一華は恐怖を感じて足を止める。
「翔太君、無事なの――? 返事してお願い――!」
母の叫び声が聞こえる。自分が翔太と寝床を交代したことは母は知らない。
「翔君はうちの部屋で寝ているよ! 翔君と入れ替わってうちがこっちへ来ているのー!」
一華がそう答えると、ガタゴトとけたたましい音をさせながら母が近づいてくる。
隣の部屋に続くふすまが開き、母の姿が見えた。
「よかった、無事だったのね」
「何よたいそうに…… ちょっと何かが爆発しただけちゃうん……」
安堵の表情を浮かべる母に、つい反抗的な態度をとってしまう一華。
しかし母はいつになく強引に、一華の腕を引き外へ連れ出そうとする。
「なによ、引っ張らんといてや。何焦ってんの?」
「いいから早く逃るの! ここにいては危ないの!」
「何が危ないの? 訳わからへん!」
「龍がいるのよ! お父さんが気を引いている間に早く!」
「龍!?」
部屋からお堂の境内の庭に出ると、先ほどの黒い物体の正体の全貌が分かった。
ワニのような顔に長いひげ、頭にはキリンのような角が生えている龍だ。
体長はおそらく20メートル近く。短い後ろ足から尾の先まではヘビのように地面を這い、足からはS字型に体を反らせて短い前足を含めた上半身を空中にもたげている。頭までの高さは10メートルはあるだろうか。
そして、全身を覆う鱗は真っ黒で、月明かりに照らされて黒光りしている。
「な、なんであないな化け物がうちにおるの?」
「お父さんが魔物を封印した壺を旅の人に預かったのよ! それを木箱に入れていたんだけれど……」
「あの木箱に? うそやろう!?」
つまり、一華が木箱の中の壺を割ってしまったことが原因である。
部屋から見えた黒い物体は、龍の体の一部。
一華の間近にあの巨体が居座っていたということだ。
父は伝家の宝刀を構え、黒龍に立ち向かっている
父が本殿の方へ黒龍を誘導してくれたお陰で一華は襲われずに済んだのだ。
「お父さん――!」
一華には父がすでに死を覚悟しているように思えた。
自分たちを守るために身を犠牲にして……
父は頼りないが、そういう人なのだ。
武道のたしなみもない父が、あんな巨大な化け物に敵うはずはない。
そうなると、自分はいよいよひとりぼっちになってしまう。
そう考えた瞬間に、一華はたまらず父の元へ向かって走り出していた。
「神様お願い、お父さんを助けて――」
幼い頃は神社の土地神と話をしたこともある。
助けてもらったことも幾度もある。
これが本当に最後のお願いだからと神に祈る。
しかし……
長らく神のとの交わりを自ら絶っていた一華の祈りは通じない。
黒龍は父の姿に狙いを定め、頭から突っ込んでいく。
伝家の宝刀ははじき飛ばされ、龍の鼻っ柱でずんと突き上げられた父の身体はぼろ切れのように宙を舞った。
「いやぁぁぁぁ……」
一華の悲鳴が深夜の白加美神社に響き渡る――