階段は一段ずつ
関東地方に梅雨入り宣言が発表された6月のとある日曜日のこと。下賀美神社の社務所兼住居では、神主の一人娘、神崎詩織が同級生の大空三咲と桜木翔太とともに、英語の勉強をしていた。彼女は5教科のなかでは英語が特に不得手である。その話をしたら、三咲が先生役になってくれることになったのだが……
「ねえ、アンタたちあれから何かあった? さっきから妙にぎこちなく見えるんだけど」
三咲が頬杖をつき、ジト目で2人を見ながら言った。
「えっ!? 私たち別に何もないけど…… ねえ?」
詩織は翔太に同意を求めた。
「あっ? 俺はべつに何もないけどさ……」
翔太は意味深な返答をした。
「やっぱり何かあるでしょう? ねえ、白状しなさい!」
三咲は屋上での一件から、自身が目の前にいる2人に対して嫉妬していることを明らかにした。だからもう2人に気を遣わずにズカズカと踏み込んでいくのである。
2人がぎこちないのは、担任の大橋先生とのキス事件が関係している。
あの出来事を『犬に咬まれたと思う』ほど柔軟性はなかった。
翔太は大橋先生のくちびるの感触を思い返して唇に指をあてた。
詩織も初めてのキスが大人の女性相手だったことのショックを引きずっている。女同士だからノーカウントなどという考え方はできない。
2人は中学1年生。純真なのだ。
「……アンタたち、キスした?」
三咲は2人の様子から勘を働かせた。ギクッとする2人をみて想像は確信に変わる。
「はーっ、とうとうしちゃったのね…… 詩織、大人の階段は一段ずつ上るのよ。急いじゃだめだからね!」
詩織の肩をポンと叩き、三咲がため息交じりに言った。
詩織は顔を真っ赤にして、肩を震わせて、叫ぶ――
「してないからー、私たちしてないからねー!」
「ん? 何をしていないんだって?」
詩織の父、下賀美神社の神主、神崎登が和室に入ってきた。
「あっ、詩織ちゃんのお父さん、お邪魔してますー!」
三咲は態度を一転、さわやかにあいさつした。
翔太も『あ、どうも……』という感じに会釈する。
「お、お父さん。わたし勉強ちゃんとしてるから大丈夫よ!」
詩織はあたふたした様子で先程の叫び声を誤魔化した。
「いや-、出来の悪い娘のために勉強を付き合ってくれてありがとう、2人とも!」
「いえいえ、こちらこそカフェ代わりにいつも寄らせていただいて助かっています!」
「……『出来の悪い』という所は否定しないんだね。さすが容赦ないね翔太君! はっはっはっ……」
「はっはっはっ……」
笑い合うも目は笑っていない詩織の父と翔太を見て、三咲が、
「この2人、いつもこうなの?」
詩織に耳打ちする。
「そうなの。とても仲が良いのよ」
と真顔で答える彼女を見て三咲は改めて詩織の『天然ぶり』を再確認した。
「それで、お父さん…… 何の用事なの?」
「おお、そうだ忘れていた! 京都の白加美神社を覚えているよな。ほら、一つ上の従姉妹の一華ちゃんと何度か遊んだろう?」
「うん。私がまだ小学校入学前の頃よね。イチカちゃんがどうかしたの?」
「そのお父さんから私に相談があってね。なんでも来週の日曜日に大切な式典があるのだが、頼りにしていた巫女さんが急病で出られなくなったらしい。それで母さんに依頼が来たんだが無理だろ?」
「当たり前じゃない。断わったよね…… ねえ、ちゃんと断ったのよね?」
「そこで詩織に相談なんだが……」
「ちょっと待ってー!」
詩織は広げた手の平を父に向けて制した。
彼女には嫌な予感しかなかった。
「じつはすでに大橋先生には金曜日はお休みしますと連絡済みなのだが…… ああ、桜木君のご両親にも話を通してあるから心配しなくていいよ」
「はあーっ? 俺もですか?」
「私はここを離れるわけにはいかない。かといって詩織を魑魅魍魎の闊歩する京都に一人で行かすわけにもいかんだろう。桜木君、キミを護衛役に任命する!」
「お父さん! 話を勝手に進めないでよ! 私行くなんて一言も言っていないよ」
「桜木君と二人で京都旅行だぞ? しかも双方の親公認だぞ? 嬉しくないのか?」
「うっ…………」
言い返さない詩織の様子を見て、三咲はため息を吐く。
「京都は外国人観光客が多いから、英語の勉強にもなるしね。行ってらっしゃい。」
詩織の肩をポンと叩く。そして耳打ちをする。
「大人の階段は一段ずつだからね。二段とばしに上っちゃダメよ!」