帰り道
詩織は洗面所に駆け込み、水で湿らせたハンカチを頬に当てる。
2年の先輩サキに平手打ちされた頬はまだ赤くなっている。
鏡でその様子を確かめながら、
「翔太には黙っておこう。これ以上彼に心配はかけられないもの……」
鏡の中の自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
桜木翔太は詩織の幼馴染みである。彼女が泣きそうになる出来事に遭うと、必ずと言っていいほど助けに来てくれる頼もしい存在だ。
「私が強くならなくちゃ、いつまでも翔太は自由になれないから…… 自分のことは自分で解決できるようになるんだ!」
詩織はきゅっと拳を握り、教室へ戻った。
1年1組の教室では騒ぎが起きていた。
「あっ!」
教室に入るなり詩織の目に飛び込んできたのは翔太がクラスメートを殴っている光景だった。
殴られた男子生徒は、周りの机やイスを巻き込んで床に倒れた。
翔太は倒れた男子生徒に馬乗りになり、更に殴りつけようとする。
「翔太やめて――!」
詩織が叫びながら彼の振り上げられた腕を押さえる。
間もなく女性の担任教師が騒ぎを聞きつけて、当事者たちを職員室へ『連行』していった。
「どうして暴力を振るうの? このままじゃ翔太の居場所が無くなっちゃうじゃない……」
倒れたイスを起こしながら詩織は涙ぐむ。
「あの男子、詩織の巫女の仕事について陰口をたたいていたの。それを翔太がやめさせようとしてトラブルになっちゃったのよ。翔太の言い方もきつかったかもしれないけど、殴られた奴も自業自得だわ!」
一緒に片付けていた親友、大空三咲が言った。
「詩織、顔が腫れているように見えるけど、大丈夫?」
「えっ? まだ腫れている? ……大丈夫だから。なんでもないよ」
詩織は無理矢理笑顔を作った。
涙目の引きつった笑顔を向けてくる親友に三咲はため息をつく。
「1人で抱え込まないでよ…… 私も詩織の力になりたいと思っているよ……」
三咲は詩織を後ろからそっと抱きしめた。
放課後の教室で、桜木翔太は帰り支度を済ませ、詩織の様子をうかがっていた。
詩織があの一件以来、口をきいてくれない。きっと自分がまた喧嘩をしたことに怒っているんだろう…… 彼はそう考えていた。
翔太は意を決して詩織に声をかける。
「今日は園芸部の活動はないんだろ? 帰ろうぜ」
「…………」
詩織からの返答はなかった。
無言の圧力に屈した翔太は、
「ごめん、もう暴力を振るわないから!」
深く頭を下げた。
「翔太が思っているほど弱くないから私……」
「でもお前すぐ泣くだろ?」
「うっ…… も、もう泣かないから。悪口言われたって我慢するから」
「悪口言われて我慢する必要があるか? 力でねじ伏せてやればいい!」
桜木翔太という男は、身体は小さいくせに力は強い。
すばしっこさもある。
同学年で喧嘩で彼に敵う者はいなかった。
「でも暴力はだめだから、もう喧嘩はしないと約束して!」
「……わかった」
「ほ、本当に?」
「うん…… わかった!」
あっさりと彼との約束を取り付けることに成功した。
詩織は思わず感動の涙を流しそうになるが堪えた。
いそいそとバッグのチャックを閉め、
「じゃ、帰ろう!」
笑顔でそう言った。
学校の門を出ると、幅6メートルの片側一車線の県道が走っている。
県道を30分も下ると辺りは田んぼ一色の風景に変わる。
2人は県道から農道に入る。
2人が住む山ノ神村地区はコメ栽培が盛んで、住民の多くは農業で生計を立てている。
今の時期は田植え前の水を引いたり、苗の準備をしたりで大忙しである。
あちらこちらで農作業中の農民に出会う。
彼らは皆、詩織の姿を見るなり深々と頭を下げた。
それに合わせて詩織も丁寧に頭を下げる。
農道を抜けて、雑木林の入口にさしかかる。
右へ曲がり、10分程歩くと翔太の家に着くのだが……
「うちで勉強会する? 英語の単語プリントの宿題出ているし……」
詩織が上目遣いで誘った。
翔太は少し迷ったふりをしてから、
「俺1人じゃ絶対やる気にならないからな。寄っていこうかな……」
と、恥ずかしそうに答えた。
小学生の頃は当たり前のように一緒に遊んでいたのだが…… 最近は少し互いを異性として意識し始めている、思春期真っ只中の二人である。