雨が降りそうだった。
雨が降りそうだった。
一つの書類を提出するためだけにその地を訪れたわたしは、朗々とした演説が繰り広げられたその会場を、足早に後にすることにした。雨に濡れるのが嫌なのと、なんだかその場にいつまでもいることに嫌悪感を持ちそうだったからだ。
目的が書類を提出することだけだというのは、本当は嘘だ。その書類が選考を突破しなければ、何の意味も無かった。目的は、その企業への就職、それがすべてだった。
建物からわらわらと出て行く黒ずくめたちが、塚から出発する蟻のように見える。だけど、わたしたちはまだ蟻ではなかった。蟻に成りたい存在だった。兵隊として、命じられたタスクを掘削していく、そういうものに成りたかった。いや、本当に成りたいのだろうか。しかし今、その疑問に意義など無かった。
あいにく傘を持って来ていなかった。外に出ると一層増した大地の匂いに、わたしは歩幅を大きくした。駅までの少しの道程を、わざわざ地図アプリを開きながら進む。この歩道を歩くのは、人生で二度目だ。一度目は今日の午前中だった。
先程まで中にいた建物が視界から消えると、わたしは鞄からイヤホンを取り出した。そしてテーマ曲を流す。この一ヶ月間で死ぬほど聴いた。聴きすぎて死にそうだった。死にそうなのは聴きすぎたせいじゃないかもしれない。その可能性を心臓のあたりが否定した。死にそうなのは音楽の聴きすぎに違いない、そう結論付けた。
案の定、雨は降り出した。知らない匂いだった。その匂いは、目に付いた工場や大きな川、馴染みの無い食べ物の店のせいじゃないかとわたしは推察したが、そんなことを考える余裕のある自分に、なんだか破顔しそうになった。「いいから早く帰ろうよ」その通りだった。今の声はもちろん脳内で鳴ったものだ。
幸いだったのは、その日訪問する場所が、先程までいたところで最後だったことだ。だからどれだけ濡れても良かった。普段より少ないヘアワックスが雨粒を弾かなくても、上着の色がどんどん変わっていっても――いや、これはあまり良くないか――、構うことなんてなかった。構うことなんてなかった、顔がどれだけ濡れても、目がどれだけ赤くなっても。
目が赤くなる理由は自分でもよくわからなかった。別に落選が決まったわけじゃない。まだまだ途中なのだ。これからなのだ。もしかしたらそれが理由かもしれなかったけれど、そのときは気付かなかった。
駅には濡れた人と濡れてない人がいた。わたしは濡れた人だった。雨に濡れるのが嫌だというのは、本当は嘘だ。濡れた方が良かった。顔だけ濡れた人なんて、そこには一人もいなかったからだ。