三話
眠りから目覚めたラグは父の執務室に呼び出された。そこで自分に起こったこと、術式のこと、将来のことを聞かされ、最後に一冊の古い本が渡された。
渡された本には、ドーレス家初代当主が書き記した術式を使うための鍛錬の方法や考察、初代が出会った術士の能力や術士相手の戦い方など様々なことが書かれていた。
この頃のラグの生活は午前中は兄二人と共に剣の稽古。午後からは母の下で学業や家事全般について教わり夕食後の自由な時間を使って初代の本を読み、室内で行える術式の鍛錬に励んでいた。
初代の本によると術式を使用するための第一歩は自身の内に存在する魔紋と呼ばれる幾何学模様の紋章を知覚することから始まる。
魔紋は術士によってその模様は違い一つとして同じ紋章はないのだという。
その違い故に、熟練の術士であっても他人にどのように教えていいかはわからず自分で知覚するしかないのだという。
代表的な知覚方法としては、術式の発現時に無意識の内に術式を発動させた時のことを思い浮かべ、記憶を遡り自分がどのように術式を発動させのかを意識するのだという。
しかし、これが難しく、そもそも無意識の内に行ったことをどうやって意識して行うのだとラグは頭を悩ませることになる。
悩んだラグは少しでも情報はないかと屋敷の書斎に足繁く通い、そこにある本を読み漁る。
それでもなかなか成果が出ることはなかった。
当然であろう。
この世界では本は決して高価なものではない。ドーレス家の屋敷にもそれなりの量の本がある。
これは、魔導機の存在が大きく関わっており、簡単に写本できるためにそれなりの規模の都市に行けば簡単に手に入るのである。
しかし、術式に関わる本は必要とする人間が極わずかであり、売ろうにも売れないので一般に出回ることがない。
もう一つの理由として、戦闘に関わる術士は自分の能力を他人に教えるのを嫌い、生産系の能力を持つ術士は同系統の術士に自分の技術を他人に真似されることを嫌うために仮に本を書いたとしても自分の弟子か、もしくは子孫が術式を発現させた時のためにと世に出すことをしないのである。
書斎で見つけた本の中では術士大全というクロース皇国に過去にいた術士をまとめたものだけであった。
結局ラグは魔紋を知覚するまでに一年の月日を要することとなった。
魔紋を知覚することで分かったのは、魔紋とは術士にとって設計図であり説明書であることだ。
術士は魔紋を知覚し、そこから複雑な陣を己の内に構築。構築した陣に魔力を流すことで術式を発動する。魔紋を知覚すると、自分がどういった能力を持っていて、どのようにして使うかが理解できる。また、陣を構築する術もすべて魔紋を知覚した時点で詳細に理解できる。
ラグが魔紋を知覚し分かったことは、人や物体に対して己の内に構築した陣を刻み込み様々な効果を付与することのできる付与術士であることだ。
初代の本によると、術士の中でもこの能力を発現するものは非常に稀なことであり、初代の時代には皇国に一人だけ存在していたという。
また、屋敷の書斎にある術士大全の中にも皇国にいた付与術士は一人だけしか確認できなかった。これは初代の本に書いてあったものと同一人物だと思われる。
ラグが魔紋の知覚の次に行った鍛錬は魔力制御であった。これは付与術が本来己の内に構築した陣に魔力を流すという術式とは違い、人や物体に陣を刻み込み使用することで緻密な魔力制御の技術が要求されるためである。
ラグが行った鍛錬法は初代の本に書いてあった通りで、最初は自然に存在する魔素と呼ばれる粒子を身体の中に取り込み魔力に変換、変換した魔力を全身に循環させるといったものである。
この世界の人々は誰もが無意識の内に魔素を身体に取り込んでおり、ほとんどの人は知らない内に魔素を魔力に変換している。
この魔力を使って魔導機を作動させ、日常の生活に使用している。
ラグが行っている鍛錬は普段無意識下で行っていることを意識的に行い大量の魔力を作り出し、それを意のままに操るといったものである。
この鍛錬を行うことで扱える魔力の最大容量が増え、制御する能力も増すのである。
術士が初めての術式の発現時に意識を失い倒れるのは、無意識下に作り出されている魔力だけでは足りずに一時的に魔力を枯渇してしまうことで起こる現象であった。
ラグはこの鍛錬意外にも、魔力を視認できるほどの濃度で体外に放出、文字や数字、さらには魔力で絵を描くといったオリジナルの鍛錬法まで行った。
これらの鍛錬を毎日欠かさずに行うことで、ラグはようやく付与術を発動することができるようになった。
術式の発現から二年、魔紋の知覚から一年が過ぎた頃のことであった。
十歳となったラグは両親の許可を得て、二人の兄と共に森に狩猟へと来ていた。
ディアックは弓を手に持ち矢筒は腰の後ろに、長さ一メートル程の片手で使える長剣を腰に差し、背に獲った獲物や森で採取したものを入れるための鞄を背負っている。
ケルンは自分の身長程もある巨大な両手剣を背負い、ディアックのものよりも大きい弓を手に、腰にはディアック同様に矢筒と鞄の代わりに袋をぶらさげている。
そしてラグはというと、腰に父から貰ったばかりの小振りのナイフを差し、これまた小さ目な子供用の弓を手に、そして背中には三人分の昼食の入った鞄を背負うという、なんとも可愛らしい恰好である。
三人は皆、森で目立たぬようにと緑を基調とした魔物の素材で作られている服を着ている。
これまでラグは森へ来たことはあっても、それは森の入口付近までで動物を狩るための簡単な罠の作り方や、野草や木の実、キノコなどの採集の仕方を教わるためのもので、本格的に狩猟のために森に入るのはこれが初めてとなる。
「ディー兄上!この森では何が獲れるんですか?」
三人が訪れていたのはドーレス士爵領にある比較的安全な森で、野兎や野鳥、草食の魔物が生息している。
この日のラグは、初めて本格的な狩猟に行けることに前日の晩から浮かれており、そんなラグの様子を見た両親や兄弟、屋敷で働く使用人たちは苦笑していた。
森に入ってからもその様子は変わらず、ラグに質問されたディアックは少し落ち着かせようとラグに注意を促す。
「ラグ、嬉しいのはわかるがもう少し落ち着け。森でそんな大声を出していては獲物の獣たちも逃げてしまうぞ。」
「う、ごめんなさい。」
ディアックに注意されるもラグはそわそわと落ち着かない様子で辺りを見ている。
「まぁ、しょうがないさ。ラグは本格的な猟はこれが初めてで、今までは森の入口近辺での採取や罠の設置の練習ばかりだったからな。」
ケルンは苦笑しつつラグの頭を豪快に撫でる。
「む、痛いよケルン兄上…」
こうして獲物を探して森の奥へ足を進める三人。しばらくすると一頭の鹿型の魔物、フォレストディアが泉で水を飲んでいる姿が目に入る。三人は草木に身を隠し様子を見る。
「いたな。ラグは私とここで待機。ケルン頼む。」
「おうよ。ラグよく見ておくんだぞ。」
「はい!」
獲物を発見しディアックが素早く指示を出す。ラグは初めての狩猟ということもあり今回は見学のみとなっている。
ケルンは草木に身を隠しながら獲物に気付かれないよう静かに近づいていく。弓の届く範囲まで距離を詰めたケルンは獲物に気付かれていないことを確認し、弓を構え射る。
ケルンの放った矢は狙い通り首に命中。首に矢の刺さったフォレストディアは慌てて逃げようとするが、矢は急所に命中しており十メートル程走ったところで力尽き倒れる。
「すごいよ!ケルン兄上!!!」
初めて見る魔物。初めて見る本物の狩猟にラグは興奮した面持ちでケルンに走り寄る。
「どうだ俺の華麗な弓捌きは!」
「ケルン兄上すごい!俺も早く狩りがしたいです!!!」
「うんうん。お前はまずは野兎や野鳥で練習だな!さぁ、早いとこ解体しちまおうか。」
「はい!」
可愛い弟に褒められ浮かれ気分のケルン。ディアックも追いつき三人は仕留めた獲物の解体を始める。
「ラグ、よく覚えておけよ?フォレストディアは角は調合して薬に、肉は食料に、皮は加工すると服や防寒具になる。」
「こいつの肉はしっかり臭みを取ってから焼くと美味いんだぞ。」
ディアックとケルンは手際よく解体しながらラグにフォレストディアの特徴を説明していく。
ケルンの仕留めたフォレストディアの体は大きく、持ってきていた袋は一頭分の素材で一杯になってしまう。これ以上は狩っても仕方がないとのディアックの判断でこの日の狩猟はここまでとし三人は来た道を引き返していく。
「ディー兄上、兎がいる!」
「ん?ああ。野兎くらいなら大した荷物にもならないか。ラグやってみるか?」
「いいの!?やってみる!」
帰りの道中、ラグが野兎を発見するとディアックは練習に丁度いいと思いラグに狩りをやらせてみることにした。
持ってきていた小さめの弓を手にしたラグにケルンが狩りのコツを教える。
「いいかラグ。まずは相手に気取られないように背後に回れ。この時、なるべく物音を立てないようにするんだぞ?──背後に回ったら、獲物がこちらに気付いていないことを確認しつつゆっくりと近づき弓の射程圏内に入ったら狙いを定めて一気に仕留めろ。少しでも躊躇したら気付かれて逃げられる。わかったな?」
「はい!」
「よし行ってこい!」
ラグはケルンに言われた通り静かに野兎の背後に回り、ゆっくと近付いていく。
弓の届くところまで近づいたラグは弓を構え、立ち上がろうとするが緊張からか足元にあった木の枝に気付かず踏み折ってしまい、その音に気付いた野兎は逃げ出してしまう。
「あっ!待てっ!」
ラグは逃げた野兎をなんとか仕留めようと走って追いかけ始める。
「ラグ!」
「あの方向はまずいぞ兄上!追いかけるぞ‼」
野兎の逃げた方向は、危険な熊型の魔物である大王熊の縄張りがある。それを知らず追いかけていくラグに、慌てて走り出すディアックとケルン。
「くそっ、どこに…」
野兎を追いかけていたラグは自分の背丈程もある草叢に野兎の姿を見失ってしまう。
辺りを必死に探すラグはすでに野兎のことで頭が一杯になっており、草叢を掻き分けどんどん奥へと進んで行ってしまう。
「あ…」
草叢を脱し、ラグの視界が開ける。その先に移ったものは濃い緑色の巨大な身体を持ち、大きな牙の生えた口に野兎を咥える大王熊であった。ラグは頭が真っ白になり放心状態のまま、只々、大王熊を見上げている。
新たな獲物の登場に大王熊は既に息を止めている野兎をその場に放り出し、牙を剥き出しにしてラグへと威嚇しながら近づいていく。
「あ、あ…」
大王熊の威嚇に放心状態だったラグは慌てて腰に差していた小振りなナイフを手に構えるも顔は真青になり、身体は震え一歩も動けずいた。大王熊は既に目の前まで迫っておりラグを見下ろす。
大王熊は目の前で震える矮小な存在に、無慈悲にもその大きな右腕を下から掬い上げるように振るう。
振り抜いた右腕は獲物の小さな身体に当たり、その一撃を受けた獲物は弧を描き、大きく弾き飛ばされてしまう。
「「ラグ!!!!!」」
ようやく追い付いた二人の兄が目にしたのは、大王熊に弾き飛ばされ森の樹に衝突し地面へと落下する最愛の弟であった。
「兄上はラグを!俺があいつを引き付けるっ!!!」
「頼む!」
ケルンは背負っていた剣を構え大王熊の方へ、ディアックは大王熊に弾き飛ばされ意識を失っているラグの方へと走っていく。
「獣ごときがよくも俺の弟を!!!」
大王熊と向き合うケルンは怒りを顕わにし、襲い掛かる大王熊の両腕を巧みに躱す。
「おおおおおおぉぉぉぉぉっ!!!!!」
頭上から振り下ろされた大王熊の左腕をケルンは後ろに下がって躱し、振り下ろされた左腕目掛けて剣を横薙ぎに振るい、大王熊の左腕を斬り飛ばす。
一方、弾き飛ばされたラグの下に駆け寄ったディアックは急ぎラグの怪我の状態を確認する。
「ラグ!」
大王熊に弾き飛ばされたラグは左腕を骨折し肋骨に罅が入っており、樹に衝突した時に頭をぶつけ額から出血していたが幸いにも命に関わる程の傷でもなかった。
「───よかった。治るまで時間は掛かるだろうが、これなら命を失うことはないな。」
ラグの容態を確認したディアックは命を落とす程の怪我ではないことに一安心し胸を撫で下ろす。
自分よりも遥かに巨大な大王熊の一撃を受けたラグの怪我がこの程度で済んでいるのは、当たったのが大王熊の手の平でありラグが着ていた服が魔物の素材で作られていたため衝撃を緩和してくれていたおかげある。
もしもこの時、大王熊の一撃が手の平ではなく爪であったならば服は破れ腹は内臓ごと抉られてラグは命を失っていたであろう。
ディアックは出血していたラグの額に持ってきていた傷薬を塗り包帯を巻き、骨折している腕に添木をあて固定する。
応急処置を終えたディアックはケルンの加勢のために弓を持ち振り返ると、ケルンが大王熊の左腕を斬り飛ばしていた。
しかし、大王熊は腕を一本失ってもなお怯むことはなく、残っいた右腕を振り下ろそうと持ち上げる。
それを見たディアックは素早く弓を構え矢を放つ。放たれた矢は吸い込まれるように大王熊の目に命中し、さすがの大王熊もこれは効いたようで唸り声を上げ後ずさる。
「兄上か!」
飛んできた矢がディアックの仕業だと瞬時に判断し、ケルンは後ずさった大王熊に追撃の一閃を放つと残っていたもう片方の腕も斬り落とされ、両腕と片目を失った大王熊は痛みに唸り、地面を転がるのみとなる。
「むん!」
ケルンは転がる大王熊に近づき、止めの一撃とばかりに全力で剣を頭上から振り下ろす。
振り下ろされた剣は大王熊の頭を身体から断ち切り大王熊は息の根を止めた。
止めを刺したケルンはすぐさまラグの方へと駆け寄りディアックに状態を確認する。
「兄上、ラグは!」
「大丈夫、命に別状はない。」
「そうか。良かった…」
「ケルン、私の弓と荷物を頼む。私がラグを背負って行く。」
「わかった。早いとこ帰って治療してやろう。」
「ああ。」
いまだ目を覚まさないラグをディアックが背負い二人は足早に帰途に着く。
「んん…」
ディアックとケルンが森から抜けた頃、ラグが目を覚ました。
「起きたかラグ。」
「…ディー兄上?俺はなんで背負われて……っ!」
「思い出したか?」
「───ッ!…そうか、俺は。」
何があったかを思い出すと同時に怪我も痛み出すラグ。
「まったく。あまり心配かけるなラグ。」
「ケルン兄上…ごめんなさい。」
初めての狩猟で何も知らないとは言え、馬鹿なことをしたラグをケルンが優しく諫める。
「───ディー兄上。ケルン兄上。あの時、俺は何もできなかった…。怖くて…。頭が真っ白になって…。俺は術士なのに。いっぱい鍛錬もしたのに何も…」
自分は術士なのに何もできなかったと、己の不甲斐無さに悔しくなり泣き始めるラグ。
「……なぁラグ。俺も兄上も最初からうまくできたわけじゃない。最初の頃は弓も当たらなければ、近づいた獲物にも気付かれて逃げられる。
初めて大王熊を見た時は泣きじゃくって小便ちびって縮こまってたな。父上や村の大人達も一緒にいたのにな…。
先を行く父上たちに付いていくのもやっとだった。」
「そうだな。私は漏らしてなどいないが、何もできなかったのは同じだ。」
「漏らしたんじゃない!ちびっただけだ!!!」
二人の兄は何もできなかったと涙を流す末の弟に自分達の時はこうだったと、自分達の経験を話しながら慰める。
「ラグ。お前は確かに術士で相当な努力をしてきたことも私達は知っている。術式を使われたら私達でもお前には苦戦せざるを得ない。そういう意味では私達がお前の年の頃よりも遥かに優秀なんだろうな。
───でも、お前はまだ十歳の子供だ。いくら術士であっても身体も精神もまだまだ未熟な子供なんだ。なんでもすぐにできるようになるわけじゃないさ。
お前は初めての狩りで私達に付いてくることができた。今はそれだけで十分なんだ。他のことは、これからゆっくりとできるようになっていけばいいさ。」
「────ゔん。」
ラグの初めての狩猟は、失敗して怪我を負い、兄達に諫められ、優しく慰められ、自分が子供なのだと悟らされという肉体的にも精神的にも痛い想い出となる。
それでもラグは優しくも厳しい大切な家族達に囲まれ、ゆっくりと、だが確実に人としても術士としても成長していくのであった。