04 いきてた 血ドバッ はぁ!
……──おやすみの次は、おはよう。
おはようの次は?
おは……あは、俺、寝ぼけてんだ。ぽりぽりと頭をかきたかったけど、身体のあちこちが錆びついたように重い。痛みを我慢しながら目を開ける。
「母さん?」
あれ。
背中が痛い。どうやら板張りで寝ているらしいぞ。
なるほど、やっと状況を把握した。なんだ、単純な夢オチだったのだ。濃霧も胸の谷間も、そしてこれこそ文字通り幻の右アッパーも。
母親は食器でも洗っているのか、背中を向けたままだし食器が重なる音がしないのはどうしてなんだ。音にしても痛みとかもにしても変だ。首を持ち上げるのも悲鳴をあげたくなるほどの苦痛に襲われているなんて、寝違えたのかなと自嘲したりもする。
あれ、母さん、どうして起こしてくれないの? 寝坊のバツで朝飯抜きは我慢するけど、俺を起こしてよ。そりゃ俺の噂のセイでパート職場変えたのは悪かったよ。
「か……」
白くてちっちゃい背中が遠くなる。もう誰の背中かなんて確認する猶予もなく、洋次は飛び跳ねる。
「母さ、ん?」
目の前にも、遠くにも母親はいなかった。ってか吐息が全身を巡ってしまいそうなゼロ距離に、エメラルドグリーンの瞳がうるうるしていた。
「あの?」
問いかけになるのかならないのか。洋次の唇が動いてもエメラルドグリーンは潤んでいる。
「泣かないでよ」
確か、メアリーって呼ばれていた女の子が気絶している洋次を介抱。厳密には濡れタオルすら施していないで膝をくっつけて覗き込んでいただけみたいだけど。
「いきてた!」
まだ涙はぽたぽたと瞳から生産されている。確か、涙って涙腺からってな指摘は野暮だからね。メアリーは細い指先で右左と涙を拭う。
「よか、た」
それって〝よかった〟かな。おかしいな、さっきはハッタと呼ばれていた男っぽい声と流暢にお喋りしていたけど。
「あなたまれびと。いきてる。わかります?」
涙で濡れている爪が鼻先に突き出されている。そして、話し方はやっぱり不自然だ。薔薇みたいな真っ赤な唇が動くとたまに目撃する八重歯は、こっそり洋次的にはポイントが高い。
それにしても、なんだよ。事故でも人をノックアウトしておいて、まれびとなんてさ。
「ん?」
マレビト。まれびと。稀人……。
「ああ」
思い出した。日本武尊とかヘラクレス伝の貴種流離譚や、異文化交流が少ない時代や地域での異邦人や旅人のことだ。娯楽や情報が少ない土地では吟遊詩人だけじゃなくて商人だって歓迎されたそうだし、乱暴だけど、ほらふき男爵もパーティジョーク的な稀人になる。
要は、この土地の住人じゃないって意味だ。
この土地の住人?
一瞬だけ首を傾げた洋次の疑問は、すぐにマッチポンプて自力鎮火。距離にして十センチ先に模範解答が示されていた。
エルフ。
絵本とかロープレ系のゲーム。最近ではマンガアニメの重要なキャラクターだ。
エメラルドグリーンの瞳と真っ白な肌、それに金髪は、まあ地球でもきっといるよな。でも、ニホンのエルフ界では外せない特徴を洋次は目撃してしまったのだ。洋次の脇腹とメアリー膝頭が密着する位置にで楽々と観察可能な、さらさらの金髪から飛び出て自己主張している尖った耳を。
あ、あんな耳の地球人なんて見たことない。もうエルフ確定だ。
「まれびと、したくする。おわび、おれ、あと」
ぽんぽんと叩かれる洋次の肩口。これは、ノリとしては上機嫌な赤ちゃんがお母さんをぴたぴたしてる印象だけど。
「え? なんのしたく? おわび? おれが詫びるの?」
インチキなニホン語を喋るエルフがいるセカイ。つまり、異世界とか、もしかしたら超未来か、物語の中だ。痛みが本物だからバーチャルは除外してもいいかな。
どっちにしても非日常がスクラムを組んで逃走を見逃さない状況での支度。
「あの? こちらにも都合があってさ」
まだ身体がダメージで軋んでいる。痛みのせいなんだろうか、スースーと冷寒も覚えている。
「すぐすむ」
スっと布切れが差し出された。これで、顔を拭いたり痛い場所を抑えろとでも言うのだろうか。
「ああそうなんだ」
風に揺れる薔薇色の唇が綺麗な弧を描いた。微笑んでくれたのかな。
「どばどばとちぃでる。すたらおわり」
メアリーはジャンプしたみたいに高速で立ち上がると、半回転。
「はぁはぁ。どばっ……?」
どばどばって流血だろか。そういえばその直後〝すたら〟と。すす、すすす、吸う、吸うなんてどんな支度だよっ。
「ドバっと流れる血を吸う?」
それって死んでしまうのと同じじゃないか。
「そ。すぐだから、いそぐ」
洋次が半身を起こした時には、メアリーの姿は木製扉を通過。扉は洋次のリアクションのスキもなく閉鎖中。
「おわび、おれ、あとで。したくしてね」
ひょん。メアリーが再確認で顔半分だけ覗いている。
「あ、あのぉ」
メアリーから説明も返事もないまま扉は締まり室内はぼ真っ暗になった。そして無音。どうやら部屋の内部にも外部にも、洋次とメアリー以外はいなかったらしい。パッと見四畳半くらいの全面が丸太で包囲された空間。洋次は自分が閉じ込められたのだと、やっと自覚した。
「なんだよどこの丸太小屋なんだ?」
この丸太小屋は飾りっけも居住性を高めるための漆喰などの加工処理もなく、家具類も見いだせない。せまい場所だから、これで充分なのか、物の本に印刷してあった写真とはイメージの違う小さな暖炉と、洋次が載っているゴザみたいな植物繊維と掛布のように充てがわれていた布が家具といえば家具になる。照明道具や灯りを保てる施設、現代人には空気レベルの必需品なソケット穴もない。
「これ、布団でもケットでもないし」
メアリーの姿が丸太小屋から消えてから数分。
ぎこちなさは残っているけど、立ち上がったり低速で歩く程度には回復した。
「血ドバッ? 心臓とか、手首、まさか首筋?」
ドバッと流血で正解ならフラグどころじゃない、死亡確定じゃないか。その後で出血を吸おうが塗ろうが無関係だ。
「ヤバい、ここからっ! はぁ!」
別に危険状況を回避するために呪文とか超念力を唱える予定ではない。
膝に掛かっていた布が身体から離れた。そして確認したから無意識に発していた叫びなのだ。
着衣ナシ。付属品ナシ。
即ち板橋洋次は全裸であると。