02 プロローグ・フンダ
洋次の皮膚、網膜、そして脳髄に雷撃のように刻まれた光景は、予約した山小屋で寛ぐ先客たち。つまり登山を強行した部員たちが夕食に舌鼓している情景だった。
誰も、山小屋のスタッフすら洋次の到着を待たないで食事を楽しんでいた。
「お前の半端な知識と勝手な判断でどれだけ皆に迷惑かけたと思っているんだ」
もう少し洋次に体力があれば、山小屋をスルーして登山行。じゃなくて、この山から消えてしまいたかった。でもクタクタ、限界だった洋次は厚い木製扉をノックして入室した。
部外者。
目を細めて逸らされる視線。山形に噛み締められる唇。舌打ちの合唱。交差する鼻息。
その全ての感覚が紛れもない事実だった。
多分、僅かながら雨に濡れたかもしれないけど、全員何事もなく山小屋に到達していた。結果的には洋次の危惧と進言の方がかえって障害だったなんて。
「勝手な判断と行動をして申し訳ございませんでした」
一人一人。山小屋のスタッフにまで土下座をした。客商売のスタッフは、まぁまぁと流していたけど、誰も洋次をフォローも擁護もしない。濃霧に降雨に眉をひそめていた女子部員からも失笑が返って来た。部長先輩の判断が正しくて、洋次は意気地なしだと嘲笑した。
もちろん洋次も、場を繕うだけの言葉なんて期待していなかったけど。
ああ、あのまま霧が晴れなければよかったのに。
それからどんなに疲れていても山小屋の扉を板橋洋次は開けちゃいけなかったんだ。通過するべきだったんだ。この山小屋は羽休めの場所ですらなかったのに、なんてバカなんだろう。
洋次の居場所は山岳部内だけじゃなく校内では影も形も亡くなっていた。当たり前に学校内で地域で山岳部の同学年や先輩たちとも顔を合わせる。
通学帰宅路。校庭廊下、授業の移動、部外の委員会などの活動。
むしろ虐めてくれ。これはもう拷問だ。
不幸の連鎖で、山岳部々長は生徒会役員、トドメは親もPTA副会長だった。部長と役員権限を駆使して洋次の愚行は全校生徒。いや、地域に伝播した。洋次は現代ネットの閉鎖性社会の複合被害者の見本だった。
全否定。
クラスの掃除をする時は独り。授業では出欠を確認されないし、指名もない。学級会や委員会では意見挙手を無視され多数決の数から除外。校内配布物は支給されない。校内連絡も途絶していた。さすがにご近所の店舗で不売扱いに至らなかった。けど、意外と痛恨の一撃が待っていた。
「あんた、学校でなにしたの?」
ご近所の背中を刺すような耳打ちに母親が反応したのだ。
「山に登って、それだけだよ」
「どうしょうもない子ね、あんたの噂でどれだけ迷惑してると思ってんの?」
詳細に事情を説明すれば母親だけは納得させられた可能性はあった。でも、相手が既に拡散させた悪評が根付いるらしい事実がそれ以上の言葉を消滅させていたのだ。
この他にもコンビニでに入店したら怪訝そうに店員が洋次の一挙一動を見張られた。どんな噂やニセ情報で不審者や万引き犯とでも疑われたのかは不明だ。
それでも洋次は学校に通った。相手がお地蔵さんでも挨拶はした、人として。
そして定期的に山に登る──。登る?
「これって逃げだよな。はははははは」
リュックが肩に食い込む重さが自虐的に快感に感じている。月イチか月二で山に行くためには、学校をサボっていると親に学校に警戒されない必要があった。居場所でなくても苦痛な空間でも引きこもらなかったのは、登山そのものを含めて山が魅力的だったからなんだ。
「サバイバル登山を身につけたらさ」
食料や炊飯道具などを持参しない登山をサバイバル登山と呼び、ひそかに愛好者が増加している。サバイバル登山が正式名と確定していないけど、でも山でずっと生活するなんて仙人みたいで面白いじゃないか。
「将来、山で暮らそう。そしたら先輩も噂もなんも全てが関係なくなるのさ」
だから洋次は動く壁扱いを受け入れて学校に通う。高校の知識は無駄にはならないはずだし、やはり山に籠るのは十八歳以降が体力的にも望ましそうだ。親の目も権威もスルーできるし。卒業までに体力を蓄え知識と経験を積む、だから我慢するんだ、板橋洋次。
今回登山の課題は小動物の捕獲。ウザギが理想だけど、ネズミ系などを狙い捕獲する。手段は罠と投石器で今回は食用可能は二の次。スリングで生きている的を狙うのだ。登山時罠を仕掛けて下山の際、仕上がりを確認して狂喜、もしくは反省をする。
最初から的に当たるなんて夢想していない。でも、人目を避けながら訓練した投石器は相当上達していたし、平地ではなくて山での狩猟には何が必要で何が不必要かを身体で学習する。もしも狩りに成功した場合、肉をどう処理すればムダがないのか、その他を高校で調べる。そんな蓄積がきっと役立つはずなんだ。
でも、また霧に祟られる。
「なんだかな。上手くいかないね、俺」
かなり濃い霧が発生している。
「今日の霧、なんだかヤバいんですけど」
狩猟を課題に選択した山だったから、四阿は贅沢だとしても、雨をしのぐ庇になってくれそうな岩もない。
「今回も棒立ち? ええっと少し大きめの木の下で雨宿りするか?」
悪条件はどんどん追加される。霧の濃度は深くなる一方。付近に同行者も不在。
「とりあえず、雨宿りポイントまでーー走っぞー」
フードを片手で押さえながら疾走する。目にも肌にも痛い強い雨が地面を軟弱にさせて足元は一層ヤバくなり、ふらついてしまう。
「は?」
ナニかを──踏んだ。フンダ……。