117 貴方には失いたくないものはありますか?
「では、純粋にこのサイズだと結構な大型動物の歯型になりますけど、わかり易くするためです」
木工職人のレーム、細工師のホーローの共作の歯の模型を掲げる。
「楽々と大人の頭を飲み込めそうですね」
あれ、模型に食いつくペネ。
「同意する。まるで竜の歯の如し」
「伝説の巨人の歯でしょうか」
「り、竜ですか? あ、先日ホーローがそんなこと」
天空を仰ぐけど、もちろん、空は唯青くて、竜もドラゴンも飛んでいない。
「王都では竜、失礼」
「え?」
竜と発言しかけたミーナーが、慌てて唇をぎゅっと閉じた。カミーラは俯き、メアリーは引き絞るって形容がぴったりなほど目を閉じている。
「サラージュの稀人。竜については触れるに能わず」
「はぁ。喋るな、と」
それならそれでいい。洋次には見てもいない竜よりもカミーラの牙やサラージュの経済が最優秀課題なんだから。
「失礼致しました。チキュウでも、甘い物を食べると虫歯になりやすいんです。甘い物、だけが原因ではないのですけど」
「で、練乳をこれからも豪勢に頂ける魔術は如何なる也?」
なんか微妙な停滞した空気だったから、ミーナーがブレないで練乳に食いついているのは感謝だ。
「まず、こちらの『歯ブラシ』をご覧ください。アン、お三方に歯ブラシをお配りして」
でも作法の壁があるので、メアリーとハリスの老侍女がお嬢様たちに歯ブラシを配りました。
「最初は歯型模型で模範を示します、歯を健康に保つ……」
「〝けん、こう〟とは?」
「そこから、ですね。つまりお医者の面倒にならないで、痛い経験をしないこと、好きな物を好きな事を我慢しないことです。程々に」
超省略形。健康の概念から指導は、基礎知識が違いすぎるのだ。
「ほどほどに」とカミーラは口元に扇を当てて呟く。
「如何にも」わかっているのかいないのか、トボけているのか不明なミーナー。
「最初はブラシ、歯ブラシだけの動きをご覧下さい」
歯型模型にブラシをかける。
切歯。上顎切歯から上から下に。下顎、犬歯、奥歯(臼歯)。
「これは、異世界の呪いであるか?」
「お口の汚れが取り除けるそうですよ。ミーナー様」
カミーラには一度だけブラッシングを指導している。でも一度だけ。習熟度に違いがあり過ぎるのは不公平だし、多分慣れない動作にミーナーがキレるのが怖かったのだ。
「ふむふむ。もしかしたら歯に接着した赤い玉は汚れであるか?」
「ご明察です。〝遠目〟でも見えるように、あえて汚れのイメージがある黒や灰色ではなく、赤い玉をくっつけました」
洋次が歯型模型に歯ブラシを当てると、ボロボロとこぼれ落ちる汚れ。歯磨きのデモンストレーションに見物人から控え目な歓声が興る。つかみはオッケーだ。
「洋次、は、歯ブラシを使うとその汚れが除去されるのですね?」
「はい。ペネ嬢。ご質問ですか?」
まさか。まさかのグイグイとした引き、だ。ペネは甘党のミーナーが狂喜した練乳にはローテンションだったのに、歯ブラシに飛びついた。まさに、意外すぎる。
「そうです。これは、結論から申しますと、どんな動物でも有効です。大型小型、肉食草食関係ありません」
「その、はーー」
「歯ブラシです。これを使うと歯を健康に保ち、長生きする。いえ、正確には歯を失った生物は寿命と行動力を大幅に減少させます。歯ブラシ、そして歯磨き粉は、そんな虫歯や歯の病気を防ぎます」
あれ。
「それでは不可です」
「ペンティンスカ様。まだまだ充分お綺麗な歯ですわ」
「不可です。稀人」
「涙を湛えた瞳睨まれますと困惑してしまいます」
涙目で泣くの禁止ってこと。
「稀人、時遅すぎました。ペネは、もう」
そこで脱兎の如く離席するペネ。お嬢様は、他人に泣き顔を晒すなんて醜態は犯さないんだ。
「そりゃご立派だけどさ、泣いてもいいじゃないか」
「稀人。ペネは婚約者がいる身ぞ、これ踏み込むは不許可である」
「失礼しました」
なんて。なんて鬱陶しいセカイなんだろう。お嬢様、貴族ってご身分は。
「稀人」と聞こえた。
「稀人。洋次卿」
お茶会参加者の全視線がペネの背中に集中した。このお嬢様は、結局二、三歩歩いただけで終わっていたのだ。唯取り乱した顔を洋次に見せないためだけの、なんちゃって逃走。
「いえ、卿って貴族とかの敬称ですよね。私は」
「貴方には失いたくないものはありますか?」
風が吹いた。
足元を確認する必要はない。東風たちはサラージュでお留守番しているように念を押していたから、自然に吹いた風なんだ。
「私にはあります。洋次卿がせめて半年、一年速くサラージュにいらっしゃっていれば」
「歯。モンスターの歯に関する事なら、まだ間に合うかも」
「間に合いません」
首を激しく振るペネ。
「やってみなければわからないと思いますけど」
「無礼な言質であるぞ。サラージュの姫。稀人を止めよ」
ライジン族のカンコー・ミーナーの声が刺さる。
「洋次」
お茶会作戦の目的と隣接する領主との関係に板挟み。小声でカミーラは呟く。
「無礼者は退散します。でもこのままでは」
「ちょ、ちょっとだけまって」
頷いた? ペネが逃走対策で摘んでいたドレスの裾を手放すと同時に老侍女が小走り。あっという間に身支度を整える。ハリス家的には洋次は随分な態度をしたけど、主人の命令がなければ指一本動かさないとは感動的な臣下の行動だ。
「失礼しました。つい」
まるでたった今お茶会に到着したように澄ました態度に復元する。
「さて、本日は歯ブラシについてのご説明ですか。ささ、模範を示してくださいませ」
にこり。泣いたカラスも驚く豹変ぶりは、さすが領地を預かる貴族の娘ってところか。ワガママ贅沢だけが貴族じゃないんだ。
「では、アン。もう一度試演するよ」
「はいはーーい。あのねーー、これははぶらしってゆーーのーー」
「それは説明済みだから」
通常のブラッシング。垂直歯磨き、斜め四五度傾斜させるブラッシング。奥歯のブラシなどを試演する。




