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ヴェンは入って来たところと同じ場所まで行くと、無言でひょいっとベルを肩に担いだ。
「ちょっと…! いきなりなにするの!」
「別に一人で下りれるならいいけど」
下りれるのかよ、と見下したような目でベルを見つめるヴェンの瞳に、ベルはカッとなって出来るわよ、と答えようして、その言葉を飲み込んだ。
ちらっと下を見ると、ここは遥か上空で、とてもじゃないが一人で下りれる自信はなかった。
黙り込んだベルをほら見ろと言わんばかりにヴェンがニヤリと笑い、「しっかり掴まっていろよ、お姫様」と言うと、慣れた様子で梯子を降りていく。
風が吹くたびに行きの恐怖を思い出し、ベルはしっかりとヴェンにしがみついてぎゅっと目を瞑った。
そしてタン、と着地する足音が聞こえ、恐る恐る目を開けるとそこは見慣れた王宮の一角だった。そのことにほっと胸を撫で下ろした。
「ほら、到着だぜお姫様」
「……一応、礼は言っておくわ」
「へえ。なかなか殊勝だな」
「一応、よ」
ニヤニヤと笑うヴェンにベルはぶすっと言う。
本来ならばベルは礼など言う必要はないのだ。ベルは勝手に連れ去れただけなのだから。
「…あんた、気に入った」
ヴェンはそう呟くと、自分の耳を触り、ピアスの一つを外してベルに差し出す。
ベルが訝しげに見つめるとヴェンはなぜか得意そうな顔をした。
「何か困ったことがあればこれに向かって俺の名前を呼べよ。助けてやるから」
「…どうして?」
「あんたが気に入ったんだ。それ以外に理由が必要か?」
なんて返せばいいのか思いつかず、ベルが黙り込むとヴェンは無理やりベルの手にピアスを握らせた。返そうとしたが、「クーリングオフは不可」と即座に言われ、返させて貰えなかった。
「ああ、そうそう。今日あったことは誰にも話すなよ?」
「話すわけないでしょ」
「ま、そうだよな…。俺たちのこと話したら、怖ろしい目に遭うと覚悟しとけよ」
「怖ろしい目…?」
「呪ったり、とか、な…あとはお姫様の秘密をバラすとか?」
最初の台詞で胡乱な目つきをしたベルだったが、最後の台詞では目つきを険しくした。
しかしそれすらもヴェンは楽しそうに見つめ、悪ぶるように「ま、お姫様が話さなければそんなことせずに済むけどな?」と言った。
(…こいつ、性格悪い…)
ベルは心からそう感じて、ヴェンを睨んだその時。
「姫様!」
そう声が聞こえたのと同時にヴェンがさっと跳んだ。
ひゅう、と口笛を吹いたヴェンに黒い影がすかさず襲いかかった。
「この下賊が…! 姫様になにをした!?」
「おっと…! 何もしてないっつーの! ここは退散すべきか…」
ヴェンはそう言うと、サッと飛び跳ねて塀の上に立った。
ヴェンの背後にはちょうど大きく輝く銀色の月があり、ヴェンがまるで月からの使者のように見えた。
「じゃあな、お姫様! また会おうぜ」
「待て!」
軽く手を振り、ヴェンは一瞬で消え去った。
なにかの魔法を使ったかのようだが、どんな魔法なのかはベルにはわからなかった。
「チッ…逃がしたか」
「ジャン…どうしてここに?」
「姫様が居なくなったからです。どこに行っていらしたのですか。探しました」
「ごめんなさい…少し温室に行っていて…帰ろうと思ったらなんだか騒がしくて気づいたらここにいたの」
「……本当ですか?」
「私が嘘をついているというの?」
ジャンはじっとベルを見つめた。ベルはその目から逸らさず、平静を装っていたが、内心では汗だらだらだった。
ジャンは幼い頃からベルに仕えている眼帯がトレードマークの隻眼の護衛である。ベルのことを知り尽くしていると言っても過言ではないくらい、ジャンはベルと常に行動を共にしていた。
そんなジャンだから、ベルのついた嘘に気付いてしまうのでは、とびくびくとしていたのだ。
「……まあ、いいでしょう。今度からは私を呼んでください。夜中に一人で出歩くのは王宮の中とはいえ、危険です。何があるかわからないのですから」
「ええ、わかったわ」
「では部屋に戻りましょう」
なんとか誤魔化せたらしいとベルはほっとし、ジャンの言葉に頷いた。
(誤魔化せたと思ったけれど、誤魔化せてなかった…!)
ベルは背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上に乗せて椅子に座っていた。目の前には怖い目付きの鬼…もとい、ジャンが仁王立ちをしてベルを睨んでいた。
「……さてと。姫様?」
「は、はい…!」
先ほどまで被っていた護衛の仮面を脱ぎ捨てたジャンにベルは震えた。
ジャンを怒らせると滅茶苦茶怖いのだ。
ジャンはベルが物心ついて間もなくにベル付きの護衛となった。ジャンの家は古くからエンカルナの家に仕えていて、その縁でベルの護衛となった。
ジャンはベルより二つ年上なだけだが、もうすでにこの国でジャンに敵う者はいないほどの腕前を保持している。
ベルにとってジャンはもう一人の兄だ。ラウルがベルに優しく甘やかしてくれる兄なら、ジャンは怖くて厳しい兄である。
「どうしてあんなところを一人で歩いていたんですか?」
「だから…気付いたらあそこに…」
「ほぉう…気付いたらあそこに、ですか。温室から一番遠いところに、気付いたらいたんですね? あそこまで行くのに誰にも見つからずに?」
「それは……」
「俺はあそこまで行くのに二、三人の見廻りの騎士とすれ違ったんですが、姫様は誰ともすれ違っていない、と。不思議なこともあるものですねぇ?」
「そ、そうね…」
背中に汗が伝うのを感じる。
(どうしよう。答えるたびに墓穴を掘っていくような感覚がする…)
「……姫様」
「な、なに…?」
「俺に隠し事をしていませんか?」
単刀直入に言われたジャンの言葉に、思わずびくりと震える。
そしてしまった、とベルは顔を顰めた。これではジャンの言葉を認めたのと同じだ。
「……なるほど。隠し事をしているんですね?」
「……だとしたら、どうするの?」
ここはもう開き直るしかない、とベルは頭を切り替えて、ツンと澄まして質問で返した。
彼らのことは絶対に話さないと約束をしたのだ。その約束を違えることだけは、絶対にしない。約束は絶対に守る。これはベルのポリシーでもあるし、昔、ラウルと交わした約束でもあった。
「開き直りましたね? …まあ、姫様が頑固なのは昔からですし、こうなった姫様は絶対口を割らないことはわかっているので、敢えて聞きません」
困った顔をして告げたジャンの台詞に、ベルは内心ほっとした。
質問に答えられないのはなんとなく後ろめたい気がするからだ。
「…姫様はご存じないかもしれませんが、今夜は賊が王宮に忍び込んできました。捕らえることはできませんでしたが、奴らは目標を盗ることに失敗して、王宮を逃げ回っていたんですよ。そんな中、姫様が部屋を抜け出したと知った時は、正直心臓が止まるかと思いました」
姫様がご無事で本当に良かったです、とジャンは表情を緩めてベルを見つめた。
ベルはそんなジャンに「…心配させてごめんなさい」と謝りつつ、その賊に捕まったあげくに本拠地まで行っちゃいました、などとこの護衛に告げたらどういう反応をするのだろう、と考えた。
(……きっと最初は私を叱って、そして彼らをシメに行くと言って周りに止められて大騒ぎになる……その光景が容易く想像できてしまうわ)
その光景を想像し、ベルは少し遠い目になった。
この護衛は普段のベルに対する態度とは裏腹に、ベルのためなら国一つ平気で滅ぼしかねないほど、ベルに忠誠を捧げているのだ。
なぜジャンにそんな忠誠を捧げられているのかはわからないが、ジャンはベルのためだけにしか動かない。例えラウルに命じられても、ウバルドに命じられても、ベルが是と言わなければ絶対に動かない。ベルの意思に反することは絶対にしない。
そんなジャンの忠誠心がとても有り難く、そして時に恐ろしく感じる。
私はそんな大層な人間ではないのに、と思ってしまう。
「今後は部屋を抜け出す際には、俺に声を掛けてください。姫様に何かあったら俺は生きていけません」
「…大袈裟ね。でも、わかったわ。次から温室に行きたくなったら、きちんとジャンに声を掛ける。だから、行ってはだめだと、止めないでね?」
「…時と場合によりますが…よほどのことがない限りは、止めないと約束します」
ジャンは少しだけ眉間に皺を寄せて、そう答えた。
その表情で、本当は嫌だと言いたいけれど、そうしたら勝手に部屋を抜け出すことが目に見えているから仕方なく了承した、というジャンの心情が伺えた。
ベルはそれに気付かないふりをして、「約束よ?」と無邪気に笑ってみせたのだった。