海の底で
風の唄4
ガサガサッと音がしてエリーの頭上に何かが降ってきた。
「な、何だ?」
エリーはつい腰の短剣に手を伸ばす。
しかしメルクはそれを掴み、何処かへ投げ捨てた。
「ここは蛇が多い。気をつけろ」
ここはアクランタへ続く道を丁度四分の三ほど所にある森。通称『蛇の森』と呼ばれるほど蛇が多い森だ。しかもその中には毒を持つ物も多いのが厄介だ。
「もし噛まれたらどうなるんですか?」
ククが恐る恐る訪ねた。それを見たメルクは悪戯っぽく笑って、
「もし噛まれたら?噛まれたところから蛇がウジャウジャ生えてきてしまいには干からびて死んじまうなぁ〜」
「ひぃっ」
その話に恐怖のあまり尻尾をピンと立て、ぷるぷる震えているのが一名、それを見てニヤニヤしているのが一名。
「嘘を吐くな、ククが怯えてるじゃないか」
「いや?死ぬのは本当だよ?蛇の毒が体に入ると血液がドロドロのゼリー状になるんだ」
「で、でもメルクさんの風の魔法なら治せますよね?」
どちらにしろククにとっては怖いようだ。
「何度も言うけど俺の魔力じゃ無理。そもそも魔法ってのはさ……」
魔法とは使用者の魔力を媒介にして精霊を使役することである。精霊とはこの世界の物質を形作っているものであり、概念である。そのため知覚することはできず、また、火精霊、風精霊、水精霊など無数の種類があり、海、火山など、その存在割合はその土地の環境に左右される。また、魔力とはその者の一度に使役できる精霊の規模を表す。
「つまり、強力な魔法を使うには自身の魔力と、その土地の自分に加護のある精霊規模の二つがないといけないわけ」
「じゃあメルクさんが魔法を使えないのは……」
「まあそういうことだな。風の魔法には癒しの力はあるが俺にはできん。噛まれたらアウト」
「随分軽く言うな……」
あまりのメルクの軽さにエリーも呆れるしかない。
さらに三人は歩き、森を抜けた。するとそこには一面の草原、その先には青い海が広がっていた。息を大きく吸うとぷんと潮の香りがする。
「わぁ……私、海なんて初めて見ました!」
ククはすっかり興奮している。
「森を抜けたし、この辺で一休みするか」
その言葉を待っていたかのようにエリーとククは柔らかい草地に腰を下ろした。暖かな太陽の光と潮風、そして草の香りが眠気を誘う。その瞬間、
「痛つっ」
ククが小さな悲鳴を上げた。森から出てきたのか、その太ももに体長五十センチ程の蛇が噛みついていた。メルクが『毒がある』と言っていた種類だ。土が剥き出しの森とは違い、草に隠れて気付けなかったのだろう。
「おいおい、大丈夫か?」
メルクは蛇を引っぺがすと、ククの太ももに吸い付いた。
「な、な、何をやっている!」
「め、メルクさん?」
エリーもククを顔を真っ赤にしている。確かにこの絵面だけを見ると何かのプレイのように見える。
「ぺっ」
メルクがククの太ももから顔を離すと何かを吐き出した。それを数回、繰り返すとククの太ももに包帯を巻いた。
「あの、さっきは一体何を?」
「毒を吸い出してた」
メルクは吐き出した赤い、ゼリー状の物体を指差す。
「森で言ったろ?蛇の毒と血が混ざるとああなるんだよ」
「そうだったのか……」
エリーは納得したような、でも納得できないような、そんな顔をしている。
「心配すんな、太ももは美味しかったから」
「あの、ありがとうございます」
何が『心配すんな』なのかはよくわからなかったが、そうは言ったものの、やはりククの顔は真っ赤なままだった。
「よし、着いた」
メルクがメルクが言ったのは草原よりさらに南、足元には砂浜、見上げれば太陽、そして見渡す限りの広く、青い海。もちろん町などどこにも見えない。
「ここ、なのか?」
「とても町があるようには見えませんけど……」
エリーとククも疑問を示す。よく考えてみれば二人ともアクランタがどこにあるのかよくは知らない。それはエリーとククに限ったことではないだろう。ククはもとより、風の国も多種族との交流はほとんど無いに等しかったからだ。
「いや、ここでいい。もうすぐ迎えが来ると思うから」
メルクは砂浜に腰を下ろした。エリーとククは顔を見合わせて首を傾げる。その時だった。
「あ……」
声が聞こえた。それは砂浜から、陸からではなく、水面の方から。
「ようカリン、久しぶりだな」
メルクは声のする方に話しかけた。相手は水面から頭だけ出した状態でしばらく口をぽかんと開けていたが、ぱっと顔を綻ばせると体を水面から出し、近くの岩に腰掛けた。その体は人間の女性のものだった。上半身は。下半身は例えるなら魚。銀色に太陽の光を反射する鱗に尾ひれがついている。これを尾ひれと言っていいのかはわからないが形は魚のそれとそっくりだった。それは、そう。お伽話に出てくる人魚そのものであった。
「早速だけど頼みたいことがあるんだ」
「何?私にできる事だったら何でもするわ」
「俺たちの連れの一人が人身売買達に連れ去られた。その船の捜索を頼む」
そのメルクの頼みにカリンと呼ばれた人魚の少女は快く受け入れてくれた。それどころ船が見つかるまでは自分の家にいていいとまで言ってくれたのだ。
「でも町なんてどこにあるんですか?」
「アクランタは海底にあるの。だからこれを食べて」
カリンが三人に渡したのはワカメのような海藻。
「これを食べると一時的に水精霊の加護を得られるの。だから水中でも息ができるってわけ」
その海藻の食感はゴムのようでとても良いとは言えないものだったが、味は、例えるなら無花果とまだ熟しきっていない苺を合わせたような、そんな感じだった。
「ついてきて、案内するわ」
「本当だ、息ができる」
エリーは海に潜り、息を吸った。いつもは呼吸ができない水中で思い切り息を吸うというのは何か不思議な気分だった。
「変わらないな」
メルクも二人を追って潜ろうとすると、後ろからククの情けない声が聞こえた。
「あの……メルクさん……」
「なんだ?泳げないのか?」
ククが頷く。
「そうか、ほれ」
ククは一瞬戸惑っていたが、おずおずとメルクの手を握った。
アクランタは海底にある都市である。主要構成種族は魚人族で、有数の豊かさを誇る。その背景には漁や船の航行、海中の資源採掘など幅広い利権を独占しているというものがある。
「海の底にこんなに大きい町があるなんて知りませんでした」
家や店の白い壁が太陽の光を反射し、キラキラと輝いて見える。水は驚くほど透き通っていて、視界は陸上とさして変わりは無いように感じられた。
「で、でも大丈夫なのか?凄く視線を感じるんだが……」
「……みんな地上の者を見たことがないから珍しいのよ、だから気にしないで」
「でも……」
確かに好奇の目というのもある。しかしククはその中に確かに敵意が込められているのを感じ取っていた。
「入って」
カリンの家は広かった。三人が休息を取るには十分に。一人で住むには大きすぎるほど。しかし掃除は行き届いていて、一人ずつ部屋があてがわれた。
「じゃ、俺は疲れたから部屋で休むわ、カリン、頼んだ」
そう言ってメルクは早々に部屋に引っ込んでしまった。カリンは、
「私は船の件を相談してくるわね」
と言って出て行ってしまった。広いリビングに残されたのはエリーとクク、特にすることもないので部屋を見渡していると伏せられた写真立てが目に付いた。普段ならば決してしなかっただろうし、後ろめたさもあったが、砂浜での会話や、人々の視線などもあり、好奇心に負けてククは写真を見てしまった。
「エリー、夕食ができたからメルクを呼んできてくれない?」
「さっきも呼んだんだが……先に食べててくれ、と」
「そう……じゃあ先に三人で食べちゃいましょうか」
食卓に並んだのは美味しそうな料理の数々、全てカリンが作ったものだ。
「ねえ……二人はこの町の伝説って知ってる?」
メルクという接点がなく、なんとなく気まずい空気の中、口を開いたのはカリンだった。
「伝説?」
エリーとククは顔を見合わせる。
「そう。私達魚人族はね、地上の人間と口づけをすると、人魚としての形を失ってしまい、地上の人間は永久に溺れることのない体になる、っていう伝説」
それが先ほどの視線と何か関係があるかどうかはわからなかったが、一応、とククは聞いた。
「それで、今までに本当に口づけをした人はいるんですか?」
それを聞くとカリンはけらけらと笑い、
「だから伝説よ、伝説。でも……」
歯切れ悪くカリンは言葉を濁す。しかし、それを誤魔化すように勢いよく椅子から立ち上がり、
「食後のデザートを持ってくるわね」
と、キッチンに引っ込んでしまった。
それが本当だったら良かったのにね
そう呟きながら。
ほどなくしてリビングに甘い香りを漂ってきた。カリンが持ってきたのは美味しそうなカップケーキ。
「お、うまそうなもの食べてるじゃん」
今まで姿を現さなかったメルクがひょっこり顔を出した。
「こらメルク、もうみんな夕食を食べ終わってしまったぞ」
「ごめんごめん、カリンのカップケーキは美味いからな、食べなきゃ損だぞ」
そう言って早速カップケーキをぱくつきだした。
「あ、こら、一人で食べるな!」
エリーも負けじと手を伸ばす。その様子をカリンは懐かしそうな、羨ましそうな目で見ていた。
翌朝、エリーは目が覚めると真っ先にメルクの部屋に向かった。ノックをするが返事はない。
「メルク?入るぞ?」
ドアを開ける。すると、
「入って来るな!」
メルクの罵声が響いた。
「す、すまない、返事がなかったものだからつい……だから私は、ただ……」
今までに聞いた事のないメルクの罵声にさすがのエリーもすっかり萎縮してしまい、涙目になっている。しかしそれをを聞いてメルクも少し落ち着いたようで、
「……ごめん、大声出して。でも返事がなかったくらいでいきなり入ってくるなよ?ほら、中で何してるかわかんないからさ。で、要件は?」
口調を和らげた。しかし声は少し掠れていたし、戯けにも勢いがなかった。それでもエリーはメルクがいつもの調子を取り戻した事にホッとしたのか、ドアを閉じたまま話し始めた。
「あの、今日もし大丈夫なら……」
「なんだ?デートのお誘いか?」
「茶化すな、短剣の特訓に付き合ってくれないか……と」
「わかった、俺もすぐ行くから先に庭で待っててくれ」
フライハイトでの事をエリーも自分なりに反省しているのだろう。だから少しでも強くならなければと思ったのかもしれない。そしてエリーが庭に行こうと立ち上がると、
「あ、それと、短剣は本物を持ってこいよ」
「本物を持ってきたが……危なくないか?」
家の前に広がる庭の真ん中、エリーは二本の短剣をくるくると弄びながら言った。
「何言ってんだ、危なくないと意味ないだろ」
と、言うもののメルクの方は剣を鞘に収めたまま指をクイクイと曲げて挑発のポーズ。
「ほれ、どこからでもかかってこい」
「メルク……貴様私をなめているな?後で後悔しても知らないぞ?」
言うが早いか短剣を構えて突っ込んで来る。メルクは初撃を躱し、ニ撃目を剣で、正確には鞘で弾いた。それをメルクが煽る煽る。
「ほらほらどうした、掠りもしないぞ?」
「この……」
エリーは一度後ろに飛びすさり、距離を取る。そこから短剣を投げ、一気に距離を詰めてメルクとの距離数センチのところまで肉薄する。そこから斬りかかると思いきや、体を一回転させ、素早くメルクの後ろに回り込むと短剣を逆手に持ち替えて遠心力そのままに短剣をメルクの脇腹に突き立てた。
「どう……だ?」
エリーが言い終わる前にメルクはエリーの軸足を引っ掛け、自分も回転してエリーの手首を掴み、鞘でポカリと頭を叩いた。
「痛ったいっ」
「全然ダメ。まず短剣の利点を生かしきれてない」
「短剣の利点?」
エリーは二本の短剣を見つめ、首をかしげる。
「それじゃ、短剣の利点と欠点を言ってみろ」
「えっと、利点は持ち運びしやすいことと、軽いこと。欠点はリーチが短い所?」
「そうだよ、軽さを生かして手数とスピードで主導権を握るもんなんだよ。でもリーチが短いから間合いを取られると不利になる」
「だから後ろに下がるなと?」
メルクの言うことももっともだが、エリーが王宮で訓練した短剣術は斬っては下がり、斬っては下がりで敵に間合いを詰めさせない、というのを基本としていた。エリーのそんな気持ちを察したのか、
「王宮での訓練で想定されるのと今とは状況が違う、ただそれだけ話だ。だからむしろお前がスラムで培った技術の方が近いかもな」
「わかった。やってみる」
「二人共、頑張ってるわね」
「そうですね、エリーさんは頑張り屋さんですから」
こちらはカリンの家のバルコニー。カリンとククはお茶を飲みながらメルクとエリーの様子を見ていた。
「じゃあ私はお菓子とお昼ご飯の材料を買ってくるわ」
そう言ってカリンは立ち上がる。
「あ、私が行きます。お世話になってますし」
「い、いいのよ、ほら、まだこの町に慣れていないでしょう?」
カリンはそのまま家を出てしまった。
ほどなくしてメルクとエリーが特訓を終え、家に戻ってきた。エリーはすぐにシャワーを浴びに行き、リビングにはメルクとククだけが残された。
「あれ?カリンは?」
「カリンさんならお昼ごはんの買い出しに行きました」
「そうか」
メルクが自室に戻ろうとすると、ククがこう切り出した。
「メルクは以前にもここに来たことがあるんですよね?」
「ん?そうだけど」
「じゃあその時にこの町で何があったんですか?」
「何も?」
メルクは真顔でそう答える。しかし、
「嘘のにおいがします」
と、言っても実際にメルクから嘘のにおいが漂ってきたわけではない。しかし、ククの目は確信に満ちている。確かにメルクの嘘は完璧だった。常人ならば見抜けなかっただろう。だが、獣人族の卓越した観察眼で、メルクの瞳の動き、動悸、わずかな体の動きを本能的に読み取り、それを『におい』と表現したのだ。
「それに私、見ちゃったんです。あの写真を」
ククは以前伏せてあった写真が置いてあった場所を指さす。
「あの写真……メルクさんと、カリンさんと、あと一人……あの人は誰なんですか?」
その写真の背景はこの家、写っているのは三人。中心にメルク。左隣にカリン、そして右隣にはカリンにそっくり、というよりも瓜二つな魚人が写っていた。
「そうか……見ちゃったか」
メルクは一瞬躊躇い、視線を泳がせると、ククの方に向き直り、話し始めた。
「あの写真の人はカリンの双子の姉なんだよ」
「え……」
「この家、カリン一人で住むには大きすぎると思わないか?前は二人で住んでたんだよ、でも……」
「やっぱり話しちゃったんだ」
玄関のドアの方から声が聞こえた。二人が振り向くと、そこにはカリンがいた。
「あなたはいつもそう。エレン、エレンって、お姉ちゃんばっかり」
「カリン……」
「私の何がいけないの?顔も、体も、声だって同じなのに!なんで?なんで?」
「俺は……」
「もういや!聞きたくない!メルクなんて大嫌い!」
そう言って家から飛び出してしまった。
ソフィアが目を覚ましたのはフライハイトの宿ではなくじめじめとした板張りの床の上だった。周囲は薄暗く、手元がやっと見える程度だった
「ここは……」
変な姿勢で寝ていたせいだろうか、体の節々が痛い。それでも起き上がろうとするが、腕が動かない。正確にはどうやら後ろ手に手錠をされているらしく、それを縄か何かで柱に縛り付けられているようだ。目を凝らすとだんだん周囲の景色がぼんやりと見えるようになってきた。
「これは……」
ソフィアの周囲には所狭しと人が並べられていた。
「そうか、私は……」
あの夜、ソフィアは猛烈な頭痛で目が覚めた。すると隣で寝ていたはずのエリーも、メルクもいなかった。それで不安になり、ロケットを握りしめて外に出たところで記憶が途切れていた。
「早く逃げなきゃ、メルクさんの所に、エリーの所に行かなきゃ」
しかし動こうにも手錠が邪魔で動けない。それでももがいていると隣から声がした。
「やめな、やるだけ無駄だよ。この鎖、何か特殊な素材で出来てるね。獣人のあたしの力でも取れなかったんだ、あんたの細腕じゃむりだよ」
「あなたは……」
「あんたと同じ、奴隷狩りに捕まったもんだよ」
「ど、奴隷……」
自分の顔からさっと血の気が引いたのをソフィアは感じた。奴隷、それは売り飛ばされて、死ぬまで過酷な労働を強いられる、と王宮で教わった。風の国にはそんなものはなかったため、当時は実感が湧かなかったが、今の状況を見ると金槌で頭を叩かれたような衝撃が走った。この現実を受け入れることができなかった。
「なんだい?今頃気づいたのかい?もう船は出ちまったんだ、あたしらにはどうすることもできないよ」
言われてみれば床がかすかに揺れている。ついいつもの癖で首のロケットに手をやろうとしたが、そこにロケットはなかった。捕まった時に金目のものは取られてしまったのだろう。
「メルクさん……エリー……助けて……」
無情にも船は揺れる。ソフィアの希望をあざ笑うかのように。
4話目です。当初はこの話は上中下の三部で終わらせるつもりだったのですが予想以上に分量が多くなってしまったため、4話目に突入してしまいました。10話くらいには終わらせたいなーなんて思ってはいますが……正直どうなるかはわかりません。
それはそうとして、
最後まで読んでいただきありがとうございます!今回の舞台は海中です。そして人魚です。人魚っていいですよね。一度でいいから会ってみたいです。
余談ですが、この小説執筆中に小説のデータがクラッシュしました。その時は本当に泣きそうになりました。まあ立ち直りは早い方なんですけどね!
どうも、あとがきが長くなりまして申し訳ありません。