第四話 チル
ククと出会って三カ月。俺たちは未だに桑名屋の座敷の中に居た。今年は奴隷が飽和状態らしく、なかなか買い手が付かないのだ。特に労働力にならない子どもの奴隷は用途が限定されているため、問い合わせがあることすら珍しい。そのことにさすがの桑名屋もあせり始めたのか、最近ではお客が来るたびにへこへこと卑屈なまでに頭を下げては、奴隷の売り込みをしている。その必死さは奴隷たちの間でもお笑い草であったが、このまま買い手が付かないとどうなるのかは少し不安だった。
こうして月日が過ぎて行く間に、俺とククはずいぶんと仲良くなった。牢番の目を盗んでは、二人でよく話をしている。ククは今年で七歳になる幼い少女だが、年の割には頭が良かった。カクゾウが言うには妖怪と言うのは人に比べて早熟な生き物らしいので、その影響かもしれない。そのため、精神が高校生レベルの俺としても話していて特に苦とはならなかった。さらに最近では俺の真似をして訓練などをするようになったので、その意味でも良い仲間である。
「いちッ、にッ、さんッ……」
鉄格子越しに向かい合い、揃ってスクワットをする俺とクク。最近は、暇さえあればこうしてトレーニングをするのが日課となっていた。周囲の奴隷からは奇異の眼で見られているが、おかげで身体能力は二人ともかなり向上してきている。もし七歳児限定の運動会などがあれば、上位入賞間違いなしだろう。とはいっても、まだまだ子ども。大人に勝つには程遠い。最近、新しい奴隷として俺より一回り年上の少年がやってきたが、それに勝つのがせいぜいだった。
もっともっと強くならねば。まだ誰にも言ってはいないが、俺はいつかここを脱出して一人で身を立てるつもりだ。奴隷たちの話によると、この世界には剣法や剣術を駆使して戦うサムライと言う職業があるらしい。このサムライに、俺はなるつもりだった。というよりかは、社会システム的に俺にはサムライぐらいしか適職がない状態なのだ。なので今のうちに腕を磨き、将来の戦いに備える必要がある。
ここから逃げるにあたって、せっかく仲良くなったククをどうするのかは今のところ考えていない。彼女も実力をつけてきているので、足手まといになるようなことはないだろう。ここを脱出する日が来たら、彼女を連れて行ってもいいかもしれない。一人よりは二人の方がやりやすいこともあるだろうし、何よりも心強い。
「……なあ、クク」
「何?」
「もし俺が、どこか遠くへ行くことになったらどうする?」
「あなたが行くなら、ついていく」
ククはコクっと頷いた。相変わらず、自分の意見と言うのを持たない子である。他人から意見を否定されるのに慣れ過ぎているので、最初から相手に委ねてしまう癖があるようだ。人として、このあたりも少しずつ変えていかないと駄目だよなぁ。奴隷なら言いなりで良いんだろうけど、独立するならそういうわけにもいかなくなるし。
けれどまあ、ここは素直に喜んでおくことにしよう。俺は彼女の言葉に、軽く微笑んで見せる。
「ありがとう。じゃ、もしそうなったらよろしく」
「ええ」
それからさらに数カ月。相変わらず売れ残ってしまっている俺たちのもとへ、一人の女がやってきた。二十代前半ほどに見える若い女である。背後に桑名屋ともう一人仮面の男を引き連れた彼女は、得体の知れない威圧感のような物を放っている。白桂の顔に浮かぶ紅と翠のオッドアイ。薄暗闇の中でも冴え冴えとした光を放つそれは、さながら血に飢えた猛禽を思わせた。さらに腰に佩いている赤鞘の刀からは得体の知れない闇が零れだしている。
女が座敷の前へやってきた時、俺はちょうど壁際の一番奥に居た。他の奴隷たちの身体が影となり、非常に見えにくい場所である。すると横で寝転がっていたカクゾウがにわかに起き上がり、俺の身体を完全に隠してしまった。彼は女の視線を気にしながら、ゆっくりとこちらへ振り向く。
「いいか、あの女が出るまで動くんじゃねえぞ」
「え、それは……」
「あいつはヤバい、買われたら殺される」
「……どういうこと?」
カクゾウは女の刀へと視線を走らせると、盛大に眉をしかめた。いつもふやけている彼らしからぬ、硬い表情だ。
「間違いねえ、あれは村雅だ。あんなものを持ってる人間で、奴隷なんぞ買いに来る奴はただ一人。風迅流のチルだよ」
「風迅流? チル? 誰それ」
「おめえ、知らねえのか? 風迅流と言えば、大陸で一番危険な暗殺剣法の流派だ。チルってのはその宗主で、各地で子どもの奴隷を買いあさっては自分のとこの暗殺者に仕立て上げてるヤバい女だよ」
「……暗殺者の超英才教育をしてるってことか?」
「そんなぬるいもんじゃねえ。噂だと、買われた奴隷の九割が大人になる前に死んじまうんだとよ」
「うわ……」
絶対に関わり合いになりたくない人間だな。命がいくらあっても足りんぞ……。俺はおいおいと肩をすくめると、壁の方へと視線を逸らせた。背中を丸めて身体を小さくし、出来るだけ目立たないような姿勢を取る。そして息を殺すと、ゆっくり胸に手を当てた。緊張している。心臓の鼓動がいつもよりかなり早まっていた。
「人数だけはまずまずだな、桑名屋」
「何とか、数だけは揃えることが出来ました」
広い座敷に良く通るアルトの声と、それに応じる桑名屋のダミ声。コツコツとまばらに足音が響き、ゆっくりとそれがこちらに近づいてくる。後ろを向いてしまっているのでいまいち様子がわからないが、どうやら奴隷の一人一人をいちいち確認しているようだ。これは、見つかってしまうかもしれない。俺は思わず身体を震わせた。すると、それがいけなかったのだろうか。足音が俺のすぐ近くで止まり、チルの声が響く。
「おい、そこの奴隷。どけ」
「へ、へい!」
カクゾウは顔の前で手を合わせると、小さく「すまねえ」と言ってその場を退いた。守ってくれていた盾がなくなり、俺の姿がチルの前に晒される。紅と翠の視線が、背中を折り必死で小さくなろうとしている俺の身体を一瞥した。すると鋭かった彼女の目つきがにわかに愉しげな色を帯びる。
「なかなか良さそうだな。おまえ、名は?」
「……小五郎でございます」
「歳は?」
「あともう少しで七つです」
「ほう、それは良い。ちょっとこちらへ来い」
チルはその細い腕でクッと手招きをした。絶望を感じていた俺には、それがさながら死神の手のように見えてしまう。俺は半ば茫然とした気分で足を引きずると、這うようにして鉄格子の脇まで移動した。するとチルは腕を格子の中に差し入れ、俺の身体を丹念に触っていく。それはさながら、医者の触診のようであった。彼女は最後に額にある十字の痕をさすると、心底満足そうな顔をする。
「これは上々。桑名屋、こいつはいくらになる?」
「この容姿でこの歳ですからな。元手もかかっておりますし、二百両は頂きませんと……」
「よかろう。払ってやれ」
チルの後ろに立っていた仮面の男が、手に持っていた小振りなアタッシュケースを開いた。すると驚いたことに、中には札束が詰め込まれていた。白い帯封のついた札の束が、ぎっしりと隙間なくケースを埋めて尽くしている。この世界の貨幣価値は良くわからないが、もし仮に日本円だとしたら一億はありそうな感じだ。桑名屋の取引を何回か見たことはあるが、こんな大金を出した客は初めてである。
男はその中から二つ束を掴むと、桑名屋の方へ差し出した。桑名屋はその様子を見ると、厭味ったらしい笑みを浮かべる。
「ずいぶんと儲かっておるようですなぁ。羨ましい限りです」
「この時世だからな、仕事には困らん。お前もそうだろう、桑名屋。これだけ奴隷が居れば相当なアガリがあるはずだ」
「ははは、私の方はぼちぼちですよ」
そう言いつつ、桑名屋は牢の鍵を開けると中に入ってきた。そして俺の腕をがっと掴むと、強引に引っ張り始める。すでにすっかり脱力してしまっていた俺は、意外にも強い桑名屋の腕力の前になすすべがなかった。俺の小さな体はよろよろと崩れるようにして引っ張られ、牢の外へ出る。
「よし、では行くか」
「待って!」
小さいが、耳に抜ける高い声が響いた。ククの声だ。立ち去ろうとしたチルの足がにわかに止まり、声のした方へと歩み寄っていく。彼女は格子に捕まっているククの姿を確認すると、腰を曲げてその顔を覗き込んだ。
「お前か、今声を出したのは?」
「はい、私です」
「何故止めた? 何か用でもあるのか?」
「お願いです、小五郎を買うのであれば私も買ってください!」
「バカッ!? 何を言ってんだ!?」
何を考えてるんだこいつは! チルが明らかに危険な人物だってことがわからないのか! 俺は全力で首を横に振り、駄目だと声を上げたが、何故かククは聞く耳を持ってくれなかった。彼女はまっすぐにチルの顔を見上げると、その紅い瞳でキッと鋭いまなざしを送る。するとチルはにやりと口元を歪めた。
「お前、小五郎のことを好いているのか?」
「はい」
「お、おい!?」
「ほう。この様子だと、小五郎の方もまんざらではないようだな。ふふ、どれ……」
チルは鉄格子の中に手を差し入れると、ククの額にある角に触れた。彼女は何かを感じるかのように眼を閉じると、ぶつぶつと何事かつぶやき始める。白い角がにわかに黄金色の輝きを帯び、ククの眼がとろんと蕩けた。何をやっているんだ……? 俺はその淡い輝きに思わず目を剥く。
「なかなかではないか。良いだろう、おまえも来い。桑名屋、こいつは?」
「そうですな、半妖ではございますがこれだけの上玉。小五郎と同じく二百といったところですな」
「ふん、いい商売をしおって。まあよかろう、払ってやる」
「はは、ありがとうございまする」
桑名屋は金を受け取ると、素早い仕草でククを牢から出した。そしてそそくさとその場を後にする。百戦錬磨の商人をしても、このチルという女は恐ろしいようだ。こんな暗殺者の親玉なんぞに買われて、俺たちは本当に大丈夫なんだろうか。俺はククの方に歩み寄ると、やれやれと大きなため息をつく。これならいっそ、変態のお大尽に釜を掘られた方がマシだったかもしれないとさえ思えた。
「クク、あのチルって女はな……」
「知ってる。前に聞いたことがあるわ」
「じゃあ、なんで」
「約束した。遠くに行くときは、ついて行くって」
そう言えば、数ヶ月前にそんな話をしたような気がする。だけど、あのときはあくまで俺が自発的にここを脱出する想定だった。しかも、そんな俺自身ですら忘れかけていた約束を守ろうとするなんて……。
「……確かに、そんなこと言った気がするけどだからってだな……」
「今あなたが居なくなれば、私はまた一人に戻る。それがイヤ。暖かいことを知ったから」
「クク……」
「ずっととは言わない。あとしばらく、私がもう少し大人になるまででいい。だからそれまでは付いていかせて」
ククはそう言うと、俺にギュッと抱きついてきた。そんなの依存だ、良くない――俺の心はそう叫んだが、いざ声に出そうとすると喉に詰まってしまった。代わりに顔が熱くなって、胸が何とも言えないざわつきで溢れてくる。
「その、こんなことは――」
「さっさと行くぞ。時間がない」
「は、はいッ!」
チルは仮面の男を連れて、早々に歩き出してしまった。俺とククは慌てて離れると、その背中を追いかけて行く。一体、これからどうなるのか。何が待ち受けているのか。大きな不安を抱えての旅立ちだった――。
ここで第一章は終わりです。
次回からいよいよ主人公の本格的な成長が始まりますのでご期待下さい!
※主人公とククの年齢をそれぞれ二歳足しました。