第一話 転生
仄暗い闇の底から、意識が少しずつ浮上する。初めに脳が覚醒した。続いて、肉体を動かそうとするが酷く重くて自由が利かない。全身に重りを付けられた上、床に固定されてしまっているかのようだ。瞼さえも重くて、まともに眼を開くことすらできなかった。
「これは……」
おぼろげな意識の上を、憔悴した声が滑って行く。日本語のようだが、何を言っているのか内容はおよそ判然としない。壊れかけの電話でも通しているかのように、不明瞭にしか聞き取れないのだ。ただ声の高さからすると、男女の二人組が何やら困惑した様子で話をしているらしい。
「痕……祟り……」
「……次男……いかない」
一体どういう状況なのだろう。ここは病院かどこかなのだろうか。あの激痛からすると、脳の血管が詰まったとか切れたとか、そういうことが起きていても不思議ではない。意識を失っている間に、町の病院にでも担ぎ込まれたのだろうか。だとすれば、いま起きている身体の変調も何かしらの病気の後遺症なのかもしれない。
(もしかして、身体は植物状態で意識だけ目覚めたとかじゃないよな……?)
俺の背筋がスーッと冷えた。これから何年生きるのかわからないが、ずっとこんな調子でベッドに横たわっているなど耐えられない。死んだ方がよほどマシだ。俺はあまりにも悲観的な将来予想に、愕然とした気分になった。たちまち眼頭が熱くなり、ボロボロと涙があふれてくる。すると胸のあたりも苦しくなって、声を上げずにはいられなくなる。
「ギャア! オンギャア!!」
俺が号泣を始めると同時に、何か暖かな物が背中へと差し入れられた。ずいぶんと太くて大きい気がするが――これは腕なのだろうか。その腕は身体をひょいと持ち上げると、ゆっくりと揺らし始める。おかしいな。俺はさほど大柄だったわけではないが、それでも六十キロ以上は体重がある。それを軽々と持ち上げた上に揺らすなんて、そうそうできることではないだろう。しかも、耳に届く声の感じからするといま俺を持ち上げているのは女のようだ。
(おいおい、女子プロレスラーか何かか?)
褐色でガタイの良い巨女に抱えあげられている姿を想像して、俺は心の中で苦笑いをした。そういえば、いま俺を抱いている女は何者なのだろうか? 病院の看護婦というのが妥当そうだが、その割にはずいぶんと馴れ馴れしい。さきほどから、彼女の吐く息が頬に当たってしまっている。看護婦ならば普通、そこまで患者の顔を近づけたりはしないのではないだろうか。
俺を抱えていることからすると、母と言うのも考えにくい。今年で四十五歳になる母は、少し腰を悪くしていたはずだ。では、知り合いか誰かか。けれど俺には、病気になったからと言ってわざわざ町の病院にまで来てくれるような仲の良い人間などほとんどいなかった。特に女は皆無と言ってよい。
(うーん、どうなってるんだこれ……)
意識が回復してから、三か月ほどの月日が流れた。最初はほとんど何も見えなかった眼も、最近ではかなりはっきりと物を見ることができるようになってきていた。身体の方も少しずつ自由が効くようになり、手足をバタバタとちぎれんばかりに動かすことができる。音声も、徐々にではあるが聞き取れるようになりつつある。
こうして身体機能や感覚機能が改善されていくにつれてわかったのだが――俺はどうやら、転生してしまったらしい。自分の手足を見てみたのだが、イモを繋げたような輪郭を描くそれは、どこからどう見ても赤ん坊のものにしか見えなかった。さらに身体の大きさ自体も赤ん坊並で、布団の上から見上げる天井は、ずいぶんと高い場所にあるように見える。
どうして転生してしまったのかはわからない。もともと世界の仕組み自体がそういうものなのかもしれない。何故記憶が残ってしまったのかは不明だが、あったからと言って困るものでもないだろう。むしろ人生がやり直せると思えば、あってくれてありがたい。俺の前世は後悔でいっぱいだったのだし。
ただ、記憶だけでなく残っていてほしくない「余計なもの」まで今の俺には残されていた。かつて額に刻まれていた十字の痕。あれが今の俺の体にも、どうやら引き継がれていたようなのである。指先の感覚がまだはっきりしないので、自分ではよくわからないのだが、両親が時々そのようなことを口にしている。前世のように悪いことにならなければいいが――俺は今からそれが心配になっていた。
声の雰囲気からすると、目覚めたときに居た男女がそのまま俺の両親のようだった。眼も髪も黒く、肌もやや白みが強いが黄色人種のようだ。おそらく、日本人だろう。顔の造りも東洋人らしく平坦で、彫は少々浅いが瞳が大きくて人懐っこい印象を受ける。特に母は、細面の小顔に各パーツがバランスよくまとまっていて、睫毛の長い瞳とぽってりとした紅い唇が色っぽい結構な美女だ。スタイルもかなり良く、中でも胸は日本人離れした大きさを誇る。親父も母と釣り合う程度には美形だったので、容姿について苦労することはさほどなさそうだ。
そんな両親が着ている服は、主に和服だ。たまに日本かぶれの外人あたりが着ていそうな「和服っぽい衣装」も着ていたりするが、基本的には着物で生活をしている。家の内装も純和風で、どこかの古民家を改装したような造りとなっていた。天井を抜ける黒々とした梁や柱が、実に古めかしい。電化製品もほとんどなく、照明用の白熱電球ぐらいである。俺の両親がよほどの変わり者でなければ、ここは相当な田舎だろう。かなり冷え込むことからすると、東北の山村あたりだろうか。前世の故郷も相当な田舎だったが、今世はそれ以上かもしれない。
(どうせ生まれ変わるなら都会が良かったなぁ……)
そう思いつつ、俺は母さんの胸に飛び込んだ。白くたおやかな峰は、俺の頭をいとも容易く包み込んでしまう。前世の母だったら、絶対に無理だったな。俺は母さんの見事なまでの巨乳に感心しつつ、乳首を口に含む。味覚が赤ん坊になっているせいか、母乳は最高においしかった。
さらに半年の月日が流れ、俺はハイハイが出来るようになった。目や耳もほぼ完全となり、すりガラスを通していたような世界が今では実にクリアだ。こうなってくると好奇心を感じずにはいられないのが人の性と言う奴で、俺は母親が居なくなるたびに家のあちこちを走り回っていた。
そうして分かったことは無数にあるが、なかでも重要なことが三つある。一つは、残念ながらこの家はあまり裕福ではなさそうだと言うこと。住んでいる家自体はかなりの部屋数があって広いのだが、そのほとんどが掃除もろくになされていなかったのだ。本来ならばお手伝いさんが居ても良い規模の屋敷なので、おそらく雇う金がないのだろう。さらに、いつも食べているご飯が見たところ雑穀中心であることを考えると、この家は意外と貧しいのかもしれない。
二つ目は、いま俺の居る国はどうやら日本ではなさそうだと言うこと。いや、ひょっとすると世界そのものが違うのかもしれない。そう思える物を、俺は見てしまったのだ。
つい先日、台所のある土間にこっそりと忍び込んだら、絞殺された鶏が縄で吊るされていた。これ自体は田舎の家で養鶏をやっていれば普通に見られる光景だろう。俺の親戚の家にも鶏小屋があるのだが、その家でも時々、鶏を絞めて食べることがある。ただ問題は、締められていた鶏に足が三本生えていたことだ。三輪車よろしく、右足と左足の前に中足とでも言うべきものがしっかりと生えていたのだ。地球上の鶏で、足が三本生えている種など見たことはおろか聞いたこともない。
これが特別に発見されたUMAか何かだったというのならともかく、俺の両親は普通にそれを食べてしまったようだった。その日の夕食は、その三本足の鶏を使ったと思しき鶏鍋だったのだ。明らかに何かがおかしいと言わざるを得ない。
最後に、これが俺にとっては最も重要なことなのだが――今の両親は、前世の親と同様に俺の痕を恐れているようだった。むしろ、嫌い方については前世以上かもしれない。赤ん坊だった頃は表情がよくわからないので気付かなかったのだが、母が時折、俺の額を見て露骨に顔をしかめるのだ。父はそれに輪を掛けて酷く、俺の顔を見るたびに仏頂面になる。
(早いうちに独立しないと、やばそうだな)
ここが異世界ならば、ひょっとしたらネット小説などで良く見る冒険者ギルドのような物でもあるかもしれない。そう言った組織があれば、戦闘力次第では早い段階での自主独立が可能となるだろう。無いにしても、虐待されないようにとにかく身体を鍛えなければ。成長するに従ってきつくなっていく親からの風あたりに、俺は密かにそう決意したのだった――。