プロローグ
俺の額には十字を象った痕がある。額の中心に位置するそれは、血を結したように紅く、常に冴え冴えとした妖しい光を帯びている。大きさは五百円玉を少し大きくしたほどで、痛みはない。触れてみると周囲と比べて微かに熱を帯びているがそれだけだ。生まれた時からあるのだが、これはどうやら傷の類ではないらしく、高校進学を控えた今でも変化することなく存在している。
これがどのような性質の物で、どういう経緯で出来たのか。数多の医者を回ったが、いずれも答えを出せずに匙を投げてしまった。ただ健康に害はないようなので、それが幸いと言えば幸いか。けれど一つ言えていることは、この痕は俺にとって不幸の印だったと言うことである。
俺が生まれたのは、片田舎の山村だった。人や物が流動的に行き来する現代社会から、ひっそりと取り残された孤島のような場所だ。テレビやラジオ、最近ではネットを通じて中央からの情報は溢れんばかりに入ってくるが、それはどこか遠い異世界の話で、人々の暮らしは常に古くからの慣習に縛られていた。土地柄に似合わぬ壮麗な社を立てて山神様をお祀りし、何か事件があればその祟りを疑う――そんな土地だった。
俺の家はそんな村の中でも特に保守的な旧家だった。戦国の頃から代々続いているという大庄屋の家柄で、戦前には国会議員も輩出したそうだ。現在でも村の村長を務めるこの家の家風は、とにかく古く堅い。このような環境におかしな痕を持って生まれた俺は、当然のことながら「異物」のように扱われた。額の痕は呪いの印。こんな言葉が、祟りを恐怖する家族や村人の間でまことしやかにささやかれたのだ。
表立っては、特に何もされなかった。家族も村の人々も、人並みの対応はしてくれた。ただそこに、どこか超えられない壁を俺は感じてしまっっていた。常にオブラートか何かに心を包まれているようで、彼らの生の感情と言うのをおよそ感じたことがない。強いて言うなら――コンドーム越しのセックス。本来伝わってくるべき温かみも愛情も、すべてが半分以下に思われた。……実際には経験がないので、あくまでたとえなのだが。
小中と村の学校に進学してきた俺は、この独特の居心地の悪さを一日中ずっと感じ続けてきた。けれどそれも今日で終わり。明日からは、町の高校での生活が始まる。村から出るなと言う親の反対を押し切って手に入れた、念願の一人暮らしだ。町に行けば当然、俺のことを知っている人間は誰もおらず、痕のこともさほど気にはされないだろう。その環境でなら、心の殻を破って新しい自分に生まれ変われるような気がする。今までの自分を改革するチャンスがとうとう巡ってきたのだ。
「早く来ないかな……」
旅立ちの朝。俺は一人で、バス停のベンチに座っていた。時刻は午前五時半、一日のうちで最も冷え込みの厳しい時間帯である。草臥れた木製のベンチに腰掛け、寒さを堪えるべく背中を抱えて丸くなることしばし。道の向こうから鈍いエンジン音が響いてくる。張り出した棚田の陰からヘッドライトが見えた。やがてやってきたバスは、ギッと鈍いブレーキ音を響かせて止まる。
「……やっぱ、見送りはなしか」
顔を上げる。遥か坂の上に建っている我が屋敷は、未だに沈黙を守っていた。息子が都会へ旅立つと言うのに、見送り一つしないつもりらしい。時間が時間であるし、俺と両親の関係は相当に悪いから、これも当然と言えば当然なのかもしれないが――それでも少しショックだった。俺は威風堂々と聳える唐破風の門を一瞥すると、すぐさまそれに背を向けた。荷物がパンパンに詰まったボストンバックを抱えて、バスのタラップを上がると、窓際の席に陣取る。
ディーゼル特有のガラガラというエンジン音を響かせながら、おんぼろバスが走り始める。車窓をゆっくりと景色が流れ、ガタガタと車体が小刻みに揺れる。サスペンションがしっかりと入れられていないらしく、時々、尻が浮き上がるような衝撃があった。やがて棚田の間の道を抜け、鬱蒼と木々の生い茂った森の中へとさしかかると、揺れはさらに大きくなる。ここで運転手がマイクを手にする。
『まもなく両国峠、両国峠に差しかかります。峠道では車内、大変揺れますので御手荷物などお気をつけ下さい』
それを聞いた俺は、膝の上に置いていたボストンバッグを足元へと押し込んだ。その直後、両脇の木々が途切れてにわかに視界が開けてくる。夜明け前の空に聳える黒い峰々。その麓に広がる深い谷には朝霧が溜まり、さながら白い湖のようになっていた。その湖の縁の少し上を、道幅の狭い道路が走っている。山々の急峻な尾根に沿って九十九折りになっているこの道こそが、両国峠だ。
「うわ……」
道の山側に並べられた無数の地蔵。ふと目に飛び込んできたそれは、村の人間なら誰もが見たことのある馴染みの風景だ。俺も街へ出かけるときに、幾度となく目にしたことがある。しかし、まだ夜の明けきらないこの時間帯に見ると酷く不気味でしょうがなかった。変わらないはずの地蔵の顔が、心なしか目元を吊り上げて笑っていたような気さえする。寒気を感じた俺は、たまらずポケットに手を突っ込んだ。
両国峠の落ち武者伝説。
俺の村の人間ならば、誰でも知っている古い言い伝えだ。その内容は、今から千年ほど前に両国峠の向こうから落ち武者が現れ、村を襲ったという物である。その武者は姿形こそ通常の人間と変わらないが、紅炎に燃える刀を持ち、この世ならざる妖力を用いたそうだ。以来、両国峠はこの世と異界が結びつく場として村人から恐れられている。
もちろん、俺はこんな伝説など信じてはいない。だが、それとこれとは別だ。幽霊を否定している人間が、夜の闇を恐れるのと同じである。俺は延々と続く地蔵の群れから眼を逸らし、ひたすらに反対側の景色ばかりを見るようにした。足が震えているが――物理的な寒さのせいだと思いたい。
次第に標高が上がり、霧の海が遠ざかっていく。そろそろ最高到達点が近い。俺は少しホッとした。峠と言うのは村の境目でもあるので、俺たちの村が設置した地蔵は坂の向こう側には一切置かれていないのだ。遥か東を見れば、すでに空がいくらか白み始めている。黄金色の日差しが燦々と降り注ぐのももうすぐだろう。
「ふう…………うあッ!?」
激痛。頭の中で爆弾が弾けたような壮絶な痛みが俺を襲った。全身の筋肉が硬直し、まともな悲鳴を上げることすらできない。俺は座席に横倒しになると、「おァ! うァ!」とただひたすらに呻く。痛い、痛い痛い痛い――! 額の痕を中心として痛みはたちまち燃え広がっていく。全身から汗が吹き出して、手足が急速に冷えて行くのを感じた。ひたひたと、水のような死が俺を浸していく。
幼い頃に、俺は川で溺れかけたことがあった。あのときの感覚に似ている。肺に空気が入らなくなって、全身に血が通わなくなる。すると身体が芯から冷え始めるのだ。命の蝋燭が、ゆっくりと燃え尽きて行くように。今の感覚は、それにどうしようもなく似ていた。身体の熱が、急速に奪われ冷めて行く――!
(なんで、なんで今何だよ! これから俺の人生、変えていくはずだったのに……!)
最期に湧きあがってきたのは、どこまでも純粋な悔しさだった。なぜ、どうして今。なぜ、なぜなぜなぜ――! 加速する思考、脳裏に映し出される過去の風景。そこに現れた、誰にも心を開けなかった過去の自身の姿に、俺はさらに後悔を募らせる。
「あと……少し……」
俺が藁にもすがる思いで手を伸ばすと同時に、視界が暗転した――。