9.
その夜。アルバイトを終えた彗は、帰り道にある橋の上にいた。下に流れる川は水量が少なく、川底に溜まった石があちこちに見えている。そのクセ、高さはかなりあるから、落ちたら軽い怪我では済まないだろうと思われた。
家に帰りたくなかった。勿論、理由は翔平にある。
父親を亡くし、引き取られた水沢家の養父と哲平の三人で生活してきた彗にとって、翔平は若いが大人の男であり、恐怖の対象でもある。これまで身近にそういう存在で親しい相手がいなかった上、母親と自分を追ってきた暴力団関係者も、殆どが若い大人の男だったからだ。彗にとっては耐え難い程の恐怖を感じる人種であると言って良い。更に翔平は、突然家に現れて、勝手なことをまくし立てた挙げ句、従えと迫った。その乱暴さが益々彗の恐怖心を煽る。
それなのに、醜態を晒してしまった。たった一匹の黒いアイツのせいで………。
正直に言って、水沢の養父も哲平も、四年も一緒に暮らして、甘えてはいけないと自制しながらも、いつしか家族に近い感情を持ってしまっている。だからまだ、そういう姿を晒しても、自分の感情の中で上手くバランスを保ってこれたのだろう。だが、いきなり現れた翔平が相手だとそうはいかなかった。更に、身体を見られたのではなく、自分から見せてしまったのだという羞恥で、いたたまれなくなるのだ。
どこかでバイクの音が聞こえる。段々近付いてくるようなその音を聞くともなく聞きながら、彗は橋の上から川を覗き込んだ。
今日現れた翔平の友人も、翔平と同じように彗の恐怖の対象だ。意味の解らない相手。自分より大きく、強いだろう存在。翔平一人でも怖く感じるのに、友人まで現れて、家の中に入り込まれてしまったら、彗にはもうどうして良いか判らない。
いつの間にかバイクの音は消えている。
彗は橋の下を見下ろしたまま、小さく呟いた。
「………ここから飛んだら、お母さんに会えるかな。」
その直後、背後から伸びた筋肉質な腕に腹部を圧迫され、一瞬の内に男の肩に担がれる。その力強さも、視界を遮る背中の大きさも、彗の恐怖を膨れ上がらせる。
この男は人攫いなのか?何故、自分が狙われたのか?こんな格好をしていても、女だとバレたのだろうか?自分は今からどんな目に遭わされるのだろうか?
だが、恐怖が強すぎて、思考が混乱するばかりで、助けを呼ぶ声を出すことすらかなわない。身体も鉛に変わってしまったかのように硬直している。ただ、瞳から涙だけが溢れてしまいそうだった。
「……誘拐は犯罪だぜ?」
ふざけたような話し方。からかうような声。仲間がいた、と思うと、益々恐怖に駆られる。
だが、次の声がその恐怖を少しだけ打ち消した。
「誘拐なんかじゃない。ただ自分のものを持ち帰るだけだ。」
やっと彗にも、自分を担ぎ上げた男の正体が判った。
翔平は相棒に言う。
「彗の荷物は頼む。」
「らじゃ!」
駿一はおちゃらけたような返事を返した。