6
その夜。
自分の部屋に戻ろうと、リビングから廊下に出た翔平は、扉が開く大きな音に振り向いて、目が点になった。
風呂に入っていた筈の彗が、涙ぐみながら走り出てきたのだ。何の飾り気もない下着一枚で、裸の胸に洋服を抱えて、階段を駆け上っていく。
「気にしなくて良いよ、兄さん。」
背中から哲平が言った。
「ゴキブリが出るといつもああだから。」
「ゴキブリ?!」
「相っ当、苦手みたいで、出現するとああなる。特にウチは風呂場の排水溝から入るのかな、風呂場と脱衣場によく出るんだ。その度にベソかいて裸で飛び出してくるから困るんだよね。まぁ、彗の唯一、女の子らしいというか、人間らしいというか、感情の見える瞬間ではあるんだけど。」
暢気に言う哲平に、翔平は思わず尋ねてしまった。
「おいっ、ちょっと待てっ!彗って女だったのか?!」
哲平はかなり驚いたらしい。元々丸い目を更に大きく見開いた。
「………兄さん、それさえもお父さんから聞いてなかった訳?ていうか、彗を見て、女の子だって気付かなかった訳?」
「いや、全然。線の細い男だって思っていた。男みたいな格好してるし、小声でボソボソ喋るし。」
哲平はため息を付いた。
「確かに、彗、男っぽい格好ばっかりだけどさ、あれも俺が思うに、彗の『戦闘服』なんじゃないの?自分はこの家の人間じゃないっていう意識が強いから、俺達に甘えてしまわないようにさ。話し方も、多分、自分の感情を俺達に押し付けちゃいけないって思ってるから、あんな喋り方になるんだと思うけど。」
「そうか………。」
確かに普通の女の子達は、他人には見せない筈の下着ひとつでも、可愛い物や綺麗な物を買うだろう。また今の世の中にはそういう物が溢れていて、使う側が自由に選べるのだ。それなのに女の子らしい物を敢えて選ばないというのは、哲平の『戦闘服』という解釈もあながち間違いでは無いのかもしれなかった。
だがそう考えると、妙に切ないような寂しいような気分になる翔平だ。
「彗も一緒に暮らすこと、本当に兄さんが真剣に考えてくれるんならさ、彗の心の中にいつも、自分はこの家に居て良い人間じゃないって感情があるってこと、意識しておいて。それでできたら、その感情を打ち消していってあげて欲しいんだ。」
「解った。」
翔平が請け負うと、哲平は安心したように笑顔になった。
「良かった。………そういやゴキブリ、退治しなきゃ。」
と踵を返した哲平に、翔平は言った。
「俺が行く。」
殺虫剤も持たずに脱衣場へ向かう翔平の後を、哲平は首を傾げながらついて行った。
脱衣場の壁、天井近い部分に、黒い敵がいた。人の気配に気付いてか、一旦動きを止める。翔平は、横目でゴミ箱の位置を確認し、シャツの胸ポケットから出した名刺大の紙を一枚投げた。その紙に驚き、ゴキブリが翔平目掛けて飛ぶ。ブーメランのように、ゴキブリよりも一瞬早く戻ってきた名刺大の紙を、もう一度ゴキブリに向かって投げた翔平は、続けてもう一枚、名刺大の紙を投げた。最初の紙はゴキブリに当たって大きく伸び、ゴキブリをくるむように丸まった。後から投げたもう一枚が、そのゴキブリをくるんだ紙を途中で受け止め、重力で更にゴキブリを丸め込みながら、一直線にゴミ箱に向かう。
「終了。」
と翔平が振り向くと、哲平が口を開けて、呆気にとられていた。
「にっ、兄さん!今の何?」
「ゴキブリ退治。」
「何したの?」
翔平は名刺大の紙を一枚、哲平に見せた。
「これは、ある職人にしか作れない特別な紙でな、一カ所に力が集中すると、その部分の繊維が変質して、粘着質になるんだ。今の場合は、飛んできたゴキブリの当たった部分が変質して、ゴキブリを丸め込んだ。それで、下に落ちる筈のゴキブリ入りの紙を、もう一枚がゴミ箱へシュートした訳だ。」
「へぇ!凄いね!」
「これで一応ゴキブリも死ぬんだが、でもこのままじゃ駄目だろう。そんなにゴキブリが嫌いなら、彗が紙からはみ出した羽や脚を見ただけでも泣きそうだ。」
そう言って、翔平はゴミ箱に入れてあったビニール袋ごと抜き取って、口を結んだ。哲平に振り返る。
「……だが哲、間違えるな。本当はゴキブリ退治用の紙じゃないんだぜ?」