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愛用の単車で家の前まで辿り着いた翔平だったが、中に入るのは躊躇われた。家を出る時に八歳だった哲平は、今小学校六年生の筈だ。そして、会うことの無かったあの時の子供は、高校一年になっていると尚人から聞いた。哲平はともかく、その子供はどんな風に育ったのだろうか。そして、自分を疎んじて、顔を合わせるのでさえ避けて出て行った人間の帰宅を、一体どう受け止めるのだろうか。
「………もしかして、翔平さん?」
その時、後ろから声を掛けられる。振り返ると、見たことのあるような顔が微笑んだ。
「やっぱり翔平さんだ。」
と言うのは、隣の家に住む小田 真樹だった。確か翔平より五、六歳下だったように思う。
「真樹か。」
その真樹の隣にいるのは、見たことの無い顔だった。軽く遊ばせたような髪、切れ長の瞳、細い顎、艶やかな唇、中性的な美貌と言えば良いだろうか。どう見ても整った顔立ちである。背はあまり高い方では無いが、その線の細さ故、チビと言える程低くは感じさせない。
もしかして、と思った時、彼が口を開いた。
「……彗です。」
やはり父親が引き取った、あの時の子供だ。
細い体格のせいか、声は思ったより高く透明感もあるが、機械が話すような感情の欠落を思わせた。
殆ど表情を動かさない彗は、真樹もそうだが、学校帰りであっても私服である。それは地元で最高の学力を誇る高校の生徒であることを示していた。その学校は、勉強さえできればある程度のことは赦される。パーマやカラーリングもOK、ピアスもそれ以外のアクセサリーも大丈夫、アルバイトも一部水商売等の職種を除けば赦されるし、好きな服装で学校に通えば良い。そういう学校なのである。
家の扉の鍵を開けた彗は、振り向いて言った。
「お帰りなさい。」
その淡々とした様子からは、彗の感情は全く見えなかった。
家の中はすっきりと綺麗に保たれていた。哲平が一人でここまでできる筈も無く、彗が管理していることは間違いない。
疚しさを感じつつも和室に向かい、仏壇に手を合わせた。
様々に去来する感情を抑えて廊下に出ると、香ばしい香りが漂ってくる。誘われるようにリビングに行くと、彗がコーヒーを出してくれた。香ばしい香りの正体はこれだったのだ。
「哲平ももうすぐ帰ると思います。」
そう言った彗は、瞳を伏せた。
「……翔平さん、こちらに戻っていらっしゃるおつもりでしょう?」
と言われても返答に困る翔平だ。何せ、父が亡くなったのを聞いたのはついさっきである。だが、彗の方は本当に返事を待っているという訳でも無いかのように、言葉を続けた。
「一週間、下さい。アパートが見つかるまで………。」
「どういう意味だ?」
「その通りの意味です。」
「ここを出て行く、と?」
翔平は彗の人形のような顔を見つめた。伏せられたままの、その無機質な瞳が肯定している。
「……俺と暮らすのが嫌だってことか……?」
「いえ。嫌なのは私でなく、翔平さんの方でしょう?私を引き取るという話になった途端に家を出られたのですから。」
この細い男には、私という一人称がしっくりくる。が、言っていること、その言い方には遠慮がない。それでも正しいが故に、翔平も口を閉ざすしか無かった。
「元々ここは翔平さんの家ですし、我が物顔で立ち入っていたのは私の方ですから。」
抑揚の無い言葉は、自分を貶めつつも、翔平を非難しているようにも聞こえる。
「ただ、住む場所を見つけるまで、一週間待って下さい。」
「……俺が戻らないと言ったら?」
「お戻りにならなくても、私は来年にはこの家を出ます。哲平も中学生になりますから、ある程度、自分のことは自分で責任が持てるでしょうし、いつまでも他人と暮らすことが哲平にとって良いこととは思えませんので。」
淡々と話す彗に、翔平は苛々し始めた。間違っていることを言っている訳ではないが、何故か気に障る。その理由のひとつが、伏せたままの瞳だ。人と話をする時に、目を合わせないということ程失礼なことはない。