29.
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その夜。最後に風呂に入った翔平が、風呂掃除も終えて部屋に戻ると、スタンドの薄明かりの中で、彗が脚立に乗っていた。
「……彗。何、やってる?」
「蛍光灯が切れたから。」
と振り向こうとした彗が、バランスを崩す。咄嗟に翔平は腕を伸ばして受け止めた。
彗をお姫様抱っこする状態で顔を見ると、思った以上の至近距離でちょっと狼狽える。が、それは腕の中にいる少女にとっても同じのようで、少し声を上擦らせて囁いてきた。
「ご、ごめんなさい。ありがとう………。」
切れた蛍光灯を入れ替えようと思える程には、気持ちも持ち直したらしい。少し安堵しながら、翔平は彗に言った。
「……あのな、彗。」
彗が見つめ返してくる。その瞳に翳りが見えるような気がするのは錯覚だろうか。
「そういう危ないことは俺に言えよ。今はもう、お前が一人で全部やろうとしなくて良いんだから。」
「………うん。ありがとう。」
離すのが勿体ないような気がして、翔平はわざとゆっくり彼女を下ろした。華奢なのに柔らかいその体温が離れると、そっと息を吐く。蛍光灯を受け取って入れ替えた。
明かりが点いて、彗の方を見ると、彼女の頬はピンクに染まっていた。翔平はよく駿一や尚人にずっと恋人を作らないことをからかわれているが、おそらく彗も同じように、これまでまともに男と恋愛関係になったことが無いのだろう。だから、こんなハプニングであっても、照れたような表情になる。ただ、自分が帰ってきた頃のような無表情でも、嫌がるような表情でも無かったのに安心する翔平だ。だが、もしかすると、この明かりの中では自分の顔も火照って見えるのだろうか。
「………脚立を戻してくる。」
翔平が言うと、彗が
「ありがとう。」
と呟いた。
部屋を出ようとしていた翔平は彗の元に戻り、その頭をいつものように撫でる。
「そんなに何回もありがとうを言わなくて良い。」
「……うん。」
素直に頷いて微笑む彗は、小さな子供のように可愛く見える。だが、やはり瞳の輝きは失われているような気がしてならなかった。
脚立を片付けて戻ってくると、彗が床の上にぺたんと座っていた。ぼんやりと宙を見つめる瞳は微かに潤んで、幸せを噛み締めているようにも、哀しみを堪えているようにも見える。翔平は改めて、彗が一人の女の子なんだと意識した。ただ、昼間は『恋人はいらない』と言っていた筈の彗の表情は、どう見ても恋をしているようにしか見えない。もしかして彗は、本当は真樹が好きで、自分が割って入ったのは藪蛇だったのだろうか。だが、あの時の彗は本当に嫌がっているようだった。現にあれだけ泣いていたのだから、本当は好きだった、などということはあり得ない気がする。
「どうしたんだ?」
物思いが暴走してしまう前に、翔平は気持ちを切り替えて、彗の側に座った。
「ううん、何でもない。」
表情を和らげても瞳は暗く見える彗は、やはり今までとはどこか違う気がしてしまう。
「………なぁ。」
「え?」
「俺は、本当はやっちゃマズいことをしてしまったのか……?」
「……やったらマズいこと、って?」
「………もしかしたら、 本当はお前、真樹のことが好きだったのかと思って………。」
「えっ?」
「俺が強制失恋させてしまったせいで、あんなに泣いたり、彼氏はいらないって言ったりしたのかと………。」
翔平はふーっと大きく息を吐いた。
「もしそうなら、お前に酷いことをしてしまったな………。」
彗の方に視線を向けると、彼女は僅かに口を開け、ポカンとしていた。一瞬の後、ぶんぶんと首を横に振る。
「違う!違うよ!」
「………本当か?」
「うん。本当に違う。」
翔平は微かに頬を緩めた。
「そうか。なら良かった。」
「……だけど、どうして……?」
見上げてくる彼女の瞳に、翔平は少なからず恐れを感じた。その胸にある、他の男に向けられた恋心を暴いてしまうのではないか、と。
「いや。ただ何となく、俺がお前を傷付けたんじゃないかと心配になっただけだ。」
「ううん。私、これまで翔平さんに傷付けられたことなんて無い。そりゃ、最初はちょっと怖かったけど………。」
「今は?」
「翔平さんが私を大切にしてくれてるのが解ったから、もう怖くない。」
「そうか?」
「うん。………だから、好きな人が現れるまで側にいて良いって言ってくれた時、私、凄く嬉しかった………。」
「……そうなのか?」
「うん。」
安堵しながら、それでもやはり翔平には彗が恋する少女にしか見えなかった。
いつものように彗が眠りに落ち、翔平はベッドの脇に座って彼女の手を繋いでいた。今夜の彗は、何故か芋虫のように毛布にくるまっている。考えてもいなかった事態に遭って不安定になっている彼女にとって、たとえ毛布一枚であっても、包み込まれているような感覚は、多少の安心感を呼び起こすのかもしれなかった。
そんな彗を見つめながら、翔平は思う。今なら彼女は、心はともかく、身体はまだ誰のものにもなってはいないだろう。だが、心が他の男のところにあるのなら、もうこの少女を手に入れる機会は無いのかもしれない。そんなことを思うだけで、このまま艶やかな唇を奪いたくなる衝動が、白く滑らかな肌に触れたくなる衝動が、その全てを自分のものにしたくなる衝動が、大きな力となって襲い掛かってくる。だが、迫り来るその衝動を幾度と無く堪えた。心が伴っていなければ、暴力以外の何でも無いと解っているからだ。それでも思った。こんなにも辛い夜はこれまでの人生で初めてかもしれない、と。




