一章 『再会』と良く似た『何か』 六話目
Wrote:SIA
なんだか身体が重たかった。
意識があるのに、目が覚めない。
なんか気分としては、数日前のガラスの絨毯からやり直しをさせられてる感じだ。
嫌だ、と思った。
カエルのおじさんに勝った事。パン屋のおじさんに帽子を貰った事。せっかく思い出してきたあの子の事。
それらの過程が無かった事のようになって、また同じ事をするのは嫌だった。
もし今また記憶をなくしたら、この珍しい帽子を、何の感慨も持たずにかぶり続けるんだろう。
あの子の事を、忘れた事さえ忘れてしまうんだろう。
そんなのは嫌だ。
私は忘れない。もう、これ以上絶対に忘れてやらない。
強く思ったその時。
冷たい何かが、私の頬に触れた。
「ひゃんっ!?」
びっくりして飛び起きると、私を覗き込んでたんだろう女の子とおでこをぶつけた。
「たっ……」
「……!」
思わずおでこを押さえる。女の子も同じく、しりもちをついた。
腰の引けたような状態で、リィンと鈴を私に向けた。
女の子は私を探るように見て、鈴を下ろすと額を押さえた。
この子の、鈴で人を指差すのは何の遊びなんだろう?
「だ、だいじょうぶ……?」
女の子は、少しだけ私への警戒心を見せながら、こくりと頷いた。
何か、かなり夜だ。
思い出す。私は夕方過ぎにミア・フォルトの家を訪ねたハズだ。
……いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
その間に、女の子は大分落ち着いてくれたらしい。
人見知りをする子のようで、さっきのはきっと情緒不安定だったんだろう。
辺りを見渡すと、私を中心に淡く光る素材で何かの魔方陣?が描かれ、所々にガラスの欠片を置いていた。
……や、何?この子何してたの?
「えっと……」
話しかけようとしたら、女の子が空中に指先をさらさらと動かす仕草をして、申し訳無さそうに頭を下げた。
「わぁっ!?」
空中に、淡い紫色の光り輝く文字が現れ、思わず声を上げてしまった。
やっぱり、流石はミア・フォルトさんの娘さんだ。こんなに小さいのに見たことも無い魔法を事も無げに使われて、びっくりした。
とはいえ、私はまだ魔法らしい魔法をきちんと見た事無いんだけど……
「……?」
私が驚いた事に対して驚いたかのように、女の子は疑問符を浮かべている。
女の子が、また、同じように指を宙に走らせる動作を始めたので、私はその手を取って掴んだ。
「待って」
「……?」
女の子は、また疑問符を浮かべる。
「私、字、読めない」
恥ずかしいけど、正直に言った。
女の子は渋い顔をしながら、ジェスチャークイズをし始めた。
顔を赤くしながら何事かを私に伝えようとするけど、さっぱりわからない。
私はむしろ、女の子の事より魔方陣の方が気になっていた。
怪しい交霊術でもしてたんじゃなかろうかと言える、不思議な文様だ。
「あれ?このガラス……」
私が眠っていた森にあったものと、とても似た色をしている。
見比べようとポッケを調べたら、ガラスの欠片が全部無くなっていた。
「あれ……?」
わけがわからない。
女の子は、申し訳無さそうな顔をしながら、私のスカートのポッケを指差し、魔方陣の端々に使われているガラスを指差しをした。
つまり……
「……」
ばつの悪そうな顔をしながら、女の子が私の顔を見上げている。
ミア・フォルトの娘さんは、かなりの悪戯っ子らしい。
「あの……多分、一緒に光る葉っぱが入ってたと思うんだけど……」
女の子は、「合わせる顔も無い」とでもいうような顔で、数枚の淡く光る葉っぱを取り出した。
念の為お金が無くなっていないかを確認したが、そちらは無事らしい。
ミア・フォルトの娘は悪戯はするがそんなに悪い子というわけではないみたいだ。
一生懸命空中に文字を書いて言い訳をする姿が、妙に可愛らしい。
「もう、人のもの勝手に取っちゃダメでしょ」
おでこを指でつつくと、不満げな顔をされた。
私が掌を差し出すと、女の子は困ったような顔をした。
取り出した葉っぱを、背中に隠すような仕草をする。
「……もしかして、欲しいの?」
女の子は、複雑そうな顔をして頷いた。
確かに、不思議に光る葉っぱはとても綺麗だ。欲しくなる女の子の気持ちもちょっとわかる。
だけど、少し困った。この葉っぱは、多分私の記憶の手がかりだ。
「じゃぁ、一枚だけ返して?残りはあげるから」
私の提案に女の子は頷いて、淡い光を放つ葉っぱを一枚私の掌に戻してくれた。
一緒に、一つの何かの植物の種も置かれる。
「お礼にくれるの?ありがとう」
女の子は、頷いた。
女の子が喋らない事に、違和感を覚えた。さっきは叫んだり、喋ってたような気もするけど……
こんなに小さいのに、苦労してるんだろう。あまり詮索するのは可哀想だからそれには触れない事にした。
種は、細長くて縞の模様がある形をしている。
何の花だかはわからないけど、何か物を人にあげてそのお返しに物を貰うというやり取りは、少し嬉しかった。
「このガラスも、取って良い?」
女の子は、こくりと頷いた。淡く光る魔方陣の上から、ガラスの欠片を拾い上げていく。
透かしてみると、元の色より蔭りが見える。単に夜だから気のせいかもしれないけど。
ガラスを全部拾い上げると、魔法陣の淡い光は消えた。
探しやすいように、光を残していてくれたらしい。
「ありがとう」
女の子は、少しそっぽを向いた。
「そういえば、貴方のお名前はなんていうの?お母さんは?」
焚き火を見つめながら、先ほどから気になっていた事を聞いてみた。
女の子は、不思議な事に家の中にはあまり入ろうとせず、庭で焚き火を始め、ケトルでお湯を温め始めていた。
さっきと同様に、宙に文字が描かれた。
「あ……い、る?」
首を横に振られた。
「えっと……あーぃる?」
首を横に振られた。
難しい。私は後ろの方の文字は殆ど読み方がわからない。
女の子は自分の口元を指差し、何度か唇を動かした。
「い、う?」
唇を読んだら、小さく頷いた。
「いうちゃんね、私はシアっていうの」
渋い顔をされた。どうやら、まだ名前が違うらしい。
女の子が、宙に字を書いた。
『A』
首を傾げられた。読め、という事らしい。
「あ?」
これは、カエルのおじさんに教わったばかりだから、自信がある。
女の子は、こくりと頷いた。また、宙に描く。
『RA』
「あーぁ?」
女の子は、かなり渋い顔をした。唇の動きを読んでも、違いがわからない。
それでも
『IL』
「いる?」
女の子は表情を戻し、頷いた。
『LA』
「……らぁ?」
面倒そうな顔をされた。
『LI』
「……らい?」
ため息をつかれた。
『L』
「…ら?」
女の子は目を閉じると、ゆっくり頷いた。
「もう好きに呼んでくれ」という無言の提案だ。私に名前を教える事を諦めたらしい。
少し残念だけど、私もわからないものはわからない。話題を変える事にする。
「お母さんは?」
首を横に振られた。
どうやら、今日はミア・フォルトは出掛けているらしい。こんな小さい子を放っておいて出掛けるなんて、なんて親だろう。
それも、目の前に家があるのに野宿まがいの事をこんな子にさせるなんて。
そうこうするうちにお湯が沸騰したようで、女の子がマグにお湯を注いで私にくれる。
「ありがとう」
こくりと頷き、宙に文字を描かれた。多分、どういたしましてとかそういう事だろう。
一口飲むと、甘さと苦味が混在したような、というか殆ど苦味で構成されているくせ変に口の中に甘みが残り、かといって後味は悪く、正直いって微妙な味だった。
というか、断言すると不味い。
「……何のお茶だろう」
殆ど独り言の気持ちで、聞いてみる。
女の子は光る葉っぱを取り出して私に見せた。
……まさか
「その葉っぱを入れたの?」
こくり、と頷いた。
この子は一体何がしたいんだろう……
見た目には綺麗だけど、正体不明の変な葉っぱの出汁はちょっとご遠慮願いたい。
「……残しても良い?」
首を横に振られた。
むしろ、『おかわりもある』とでも言いたげに私にケトルを差し出してきた。
「……全部飲ませる気?」
真剣な顔で、頷かれた。
「あなたは飲まないの?」
真顔で、頷かれた。
この子は、こんな小さいのに宙に文字を描いたりとかが出来るから、多分優秀な魔法使いに分類されるんだろう。
それに、なんといっても世界一有名らしい魔法使いの娘さんだ。
……やっぱり、魔法使いは優秀になればなる程、変な行動をより多く取るようになるんだろう。
この子の場合は、特に奇行が目立つけど。ひょっとしたら名前を読むことすら出来ず手間取らせた事へのささやかな報復なのかもしれない。
「はぁぁ……がんばってこう……」
私は、泣きながらきらきら光る不味い紅茶を飲んだ。
深夜になっても女の子は家の中に入る事はせず、結局二人して家の外で夜を明かした。
私がこの子と一緒に一晩明かす事にしたのは、何かしら奇行に走りたがる小さな女の子一人を残して別の場所に行くのが躊躇われた事と、どうせ私に行き場所は無い事、そして……
「寝てるのにまだ寝たまま掴んでる……」
女の子が、私がどこかに行こうとする度に私の服の裾を掴み、寝る時にも放してくれなかった事が一番大きい。
掴まれた服の袖を振ると、女の子も目を覚ました。
けだるそうに身を起こす。
「おはよう?」
女の子も、宙に字を描いて答える。
「美味しいパンあるよ、美味しくて赤い水っぽい香辛料がついてるの」
私は、昨日くしゃくしゃにしてしまったパンの袋を取り出した。
昨日の夜はあの不味い紅茶でおなかいっぱいになってしまったから、私は何も食べなかった。
女の子も何か食べている様子は無かったから、おなかが減っている事だろう。
女の子は、途中まで宙に文字を描きかけ、首を振った。
「いらないの?」
頷いた。
この子と話す時は、二者択一の選択肢を用意すると良い。
私は昨日学習した。
「おなか減るよー?」
女の子は、首を横に振った。
朝ご飯を食べない派の人なのかもしれない。そういえば、あの子も朝はとても小食だった。
そうすると、お昼がひもじくて可哀想かもしれない。
一つだけ残ってた豪華なパンは残して、私は味気ない大きなパンを千切ってかじる事にした。
私がパンを食べ始めると、女の子は家の裏の方に歩いていって、暫くするとマグ一杯の水を持って戻ってきた。
庭の端の芝生の生えていない所まで行くと、マグの水を垂らしている。
何をしているのか見てみると、何かの植物の新芽に水をやっている所だった。
2つの芽のうちの片方は順調に背を伸ばそうとしているが、もう片方は折れて潰れてしまっている。
女の子は、何事か宙に文字を描いた。
彼女が何を言いたかったのか。
私は、自分が文字が読めない事に言いようもない物悲しさを感じた。
女の子は、十字を切るとマグを持って家の中に入り、すぐに出てくると私の方へ向き直った。
昨日の夜と同じように、私の服の裾を掴む。
「どうしたの?」
『ついてきて』とでも言うように、何度か私の手を引いてから、女の子は歩き出した。
「わ……ちょっとまって、わっ……」
落としそうになった紙袋を抱えなおしたりしながら、私は女の子に手を引かれて歩き始めた。
しばらく手を引かれたまま歩いた後、私が逃げも隠れもしない事をようやく理解してくれたのか、今は普通に二人並ぶようにして歩いている。
女の子は時々街の人に宙に文字を描いて何事か尋ね、その度に道の先を指差し、そちらへ行くように促した。
あの家を離れて良いのかとか、お母さんが心配しないかとか、色々と聞いてみたが、簡潔に頷くか首を振るかだけで答えられた。もう私相手に文字描きする気は無いらしい。
イエスかノーかで答えられるように仕向けてるのは私だけど、少しさみしい。
女の子は早足で歩くから、私が歩幅を調節する必要は無く……むしろ、私が女の子を追いかける形になった。
女の子がちらちらと私の方を振り返るが、むしろ私の背後を気にしているらしい。私と目が合うと、ぷいと目を逸らした。
誰かに尾行でもされてるのかとも思ったけど、背後を気にした感じ多分そんな事は無い。
私がちゃんとついてきてるか、確認してるのかもしれない。
昨日の事からも察するに警戒心が強い子みたいだから、きっと私と視線を合わせにくいんだろう。
「あとどれくらい歩くの?」
何気なく聞いてみると女の子は少し思案し、宙に○を一つと少し離して×を一つ描いた。
○を指差してから私達の来た道を指差し、×を指差してから目の前の道を指差す。
○からもう×へ向かって線を引き、真ん中辺りで指をぴたりと止めた。
『わかる?』というように首を傾げられた。
「あと半分くらい?」
女の子は、こくりと頷いた。
女の子の機転に拠る所が大きいけど、初めて筆談(?)でまともなコミュニケーションが成立した。
それにしても、文字以外も描けるなんて魔法って便利だ。
そういえば、魔方陣も淡く光っていたから長い間文字を残す事も出来るんだろう。
「普段絵とか、描いたりするの?」
女の子は不思議そうな顔をして、首を振った。
今度、機会があったらこの魔法で絵を描いてもらおう。夜にやってもらったら、きっととても綺麗なことだろう。
「あと、半分かー」
私達がミア・フォルトの家を出てからもう30分くらいは経っている。
何処に連れて行かれるのかわからないし少し疲れたけど、あと30分の辛抱だ。
「よし、がんばってこう」
女の子に笑い掛けると、目を逸らされた。
こっちは、まだしばらく時間が掛かりそうだ。
そうこうして歩く事三十数分。
賑やかな大通りを抜けると、とても大きな建物の前にたどり着いた。
ひときわ、その建物の前の広場はわいわいと人が賑わっている。
女の子と一緒に広場を突っ切ってその建物の中に入ると、女の子は建物の入り口に居た人に、金貨を一枚渡した。金貨なんて銀貨10枚以上の価値のある品だ。銅貨の100倍以上。硬貨の2000倍以上。つまり、日常生活で使われる事なんてほぼ無い品物。
「わ……金貨なんてはじめて見た……」
さらに驚いた事に、金貨を出して買ったものが、ただの小さな紙切れ2枚と、おつりに銅貨をたった4枚だ。
これはなんて買い物だろう?信じられない。
女の子は2枚の紙切れのうちの片方を、私に渡してきた。受け取るかどうか、物凄く迷う。
「え……っと、そんな大金使っちゃって、お母さんに怒られないの!?」
女の子は何やら少し考えると、私を無視して近くに居た男の人の服の裾を掴んで会釈した。
金髪碧眼で、長身の感じの良い男の人だ。
男の人に対して指先で宙に文字を描くと、男の人と一言二言言葉を交わし、リルは銅貨を一枚渡した。
女の子が、男の人を連れて戻ってくる。女の子は宙に今日見た中で一番長い文字列を描いた。
「どうも初めまして」
「は……はじめまして」
女の子と男の人の関係がわからない。
「教会の修行、お疲れ様です」
「はぁ……?」
話が読めない。
「そちらのお嬢さんに通訳を頼まれまして……いや、妹さんと会話が出来ないというのも大変ですね。それにしても、その年でそれ程にまで世俗から離れた修行をしていたとはご立派です」
「……はぁ……」
後半の意味がわからない。多分、推測するに私が文字が読めない事で恥をかかないように女の子が気を回してくれたんだろう。
「まず……今はリルと読んで欲しい」
なるほど。文字が読めて喋れる人が居れば、女の子とのちゃんとした会話が成り立つんだ。
「行き先はメルラ……遠くに行くんだね。君が会わなくちゃ行けない人が居るんだそうだ」
会わなくちゃいけない人。
そのフレーズに心引かれるものがあった。なにしろ、ミア・フォルトの娘さんだ。私が記憶喪失なのは寝る前彼女に話したから、きっとそれに関する人だろう。一気に展望が明るくなった。
「メルラには汽車で行くから、この切符を受け取ってほしい」
女の子……リルちゃんは、私に先ほどの紙切れをもう一度私に渡してきた。
「ありがとう」
今度は、受け取った。
ちょっとよくわからないけどこの紙切れは切符と言って、人に会いに行くのに重要な品物らしい。
通行許可証のようなものなんだろう。代金の事は、後で考える事にした。
「リルちゃんは、その……一緒に行ってもお母さん心配しないの?」
男の人が疑問符を浮かべた。
リルちゃんは少し困ったような顔で思案したが、またさらさらと男性に向かって文字を描いた。
「リルちゃんという呼び方は、恥ずかしいから止めて欲しいそうです」
「あ、はい、ごめんなさい」
「いえ……謝る相手は妹さんでは」
そうだった。つい、喋る相手に返事をしてしまった。
「ごめんね、リルちゃん……じゃなくて、えっと……リル」
リルちゃんは……リルは、こくりと頷いた。
「お母さんが居るのがメルラだそうです。」
驚いた。ミア・フォルトの家はここにあるのに、ミア・フォルトが居るのは遠い街なのか。
そういえば確かに、あの家は日用品は揃っていたようだけど、人が住むにはかなり朽ちた家だ。
あそこは別宅なのかもしれない。それじゃぁ、リルはなんで一人で別宅に居たんだろう?
疑問は尽きないけど、込み入った話だからここで見知らぬ男性にではなくミア・フォルトを交えて話した方が良いだろう。
「わかりました……ところで、キシャってなんですか?」
でも、これは先に聞いておくべきだと思った。
私の知らない乗り物だ。馬車は牛車なら知ってるけど、キシャとはなんだろう。
男の人は、目を丸くした。なにやら、余程変な質問らしい。
リルため息をつきながら、宙に描いた。
「ああ……そうでしたね、世俗から離れるというのはそういう事なのですか……」
何か、知っているのが当たり前な品物だったらしい。考えてみても、一般常識的なものはだいたい覚えていたつもりでいたけど、そんな乗り物に心当たりは無い。
「汽車というのは、この駅から乗れる乗り物です……ほら、着ましたよ。あれです」
男の人が指差した先に、小さく見えてきた。
でもあれは……
まるで火事の煙を吐きながら。まだあんなに遠くに居るのに、ここからでも聞こえる音を立てながら。真っ黒なものが近づいて着ている。でもあれは……この街に入るときにも、遭遇した。
……え、何?ドラゴンに乗るの?
がっしゃんがっしゃんと威嚇音を立てながら、真っ黒な鋼の鱗の塊が私達の目の前に止まった。
「ひ!」
私は、思わず声を上げながら逃げようとした。
リルに服の裾を掴まれて阻止された。
男の人は、苦笑している。
ドラゴンのお腹があちらこちらでぱかぱかと開いて、人が出たり入ったりしはじめた。
お腹に沢山口があるなんて、なんて不気味な生き物!
それに、自分からあんな大きなわけわかんない生き物のお腹に入り込むなんて!
まるでレミングスの集団自殺だ。
リルが宙に字を描いた。男の人が、それを読み上げる
「行きますよ」
「やだ!やだ恐い!やっぱり歩いていく!あんな!あんなドラゴンに食べられたくない!」
「ドラゴン……?」
確かに、ちょっとは見てみたいかなー、とは思った。
しっかりとしつけをされて、人を噛んだりしないような大人しい子だったら、少しくらい触ってみたいなー、とも思った。
でも、ドラゴンのおやつになりたくはない。無事で出てきてる人も居るみたいだけど、もしかしたら入ったらすぐにでも消化されちゃうかもしれないじゃない!
リルは呆れた様子で私の服の裾を掴んで、ぐいぐいと引っ張った
「やだ」
私は、引っ張られても引きずられないようにしっかりと柵を掴んだ。
「……」
「やだ」
「……」
「やだの」
「……」
「恐いものは恐いの」
「……」
リルは私から手を放して、オロオロと私とリルを見比べている男の人に何か描いて伝えた。
「ええと……お姉さん、落ち着いてください。まず、あれはドラゴンではありません。そもそも、生き物ですらありません」
「だって動いてるじゃない!煙吐いてるじゃない!怒って唸り声あげてるじゃない!」
男の人は、困りきってしまったようだ。私には、どうしてもあれがドラゴンじゃないとか言われるのが信じられない。100歩譲ってドラゴンじゃないとしても、どの道あんなわけわかんないものの口の中に入りたくない。
また、リルがさらさらと文字を描く。
「汽車が動くのは乗り物だからです。煙を吐くのは、動力に石炭を使っているからです。音は機械音です」
「後半さっぱりわかんない!」
「つまり、危険なものではありません。その証拠に、中から出てきた人も皆無事でしょう?」
「外に出られたのは入った人のほんのごく一部で、皆中で死んじゃったかもしれないじゃない!」
リルは心底疲れたように片手で額を押さえながら、またさらさらと文字を描いた。
「世俗を離れるというのは、大変な事なんですねぇ……」
「とにかくやだ!」
男の人は、うーんと唸って少し考えてから喋り始めた。
「あれは、動く家のようなものです。見てください、壁面に窓ガラスが張られているでしょう?」
ちらりと、振り返って見てみる。確かに、窓らしきものは見える。
「大きな家に、馬車に使われるよりも頑丈な車輪を幾つもはめ込んだようなものです。落ち着いて見てみて下さい」
確かに、下の方は車輪がいくつも並んでいる。
「でも、それだと引っ張ってる動物が居ないじゃない!それに、煙を吐いてるし家の中火事じゃない!食べられるのも嫌だけど焼け死ぬのも嫌!」
リルと同じように、男の人も額を手で押さえた。
ピイイイイイィィィィ!
大きな笛の音に、はっとそちらを見ると、がっしょんがっしょんと音をたてながら、『汽車』が煙を吐きながら、動き出した。
「あ……」
男の人とリルが、顔を見合わせて呆然とした顔になった。
緩やかに動き出した『汽車』は、ぐんぐんと勢いを強めて、あっという間に遠くまで走って行った。
助かった。あっちいってくれた。
「どうしようかな……」
男の人が、物凄く困ったような顔をした。
「……」
リルが、無言で銅貨を一枚取り出すと、男の人に手渡した。
「……すみません、いただきます」
男の人は銅貨を懐にしまいこんだ。
何か、じとっとしたリルの視線が物凄く痛かった。