八時四十五分には帰らない
最初に気づいたのが、いつだったのかは覚えていない。
午後八時四十五分ごろ。
キーッ、と車が急ブレーキをかける音がする。
その直後に、
ドン。
何かにぶつかる。
それだけだった。
初めのうちは、事故だと思った。
この辺りは大きな通りが何本も走っている。昼間はタクシーも配送車も多いし、夜になれば速度を出す車もある。急ブレーキの一つや二つ、珍しいことではない。
ただ、最初に聞いた夜は、しばらく耳を澄ませていた。
救急車が来ると思ったからだ。
来なかった。
パトカーも来なかった。
人の声もしなかった。
翌朝、外へ出たときには、昨夜のことなど忘れていた。
次の晩。
また聞こえた。
キーッ。
ドン。
時計を見ると、八時四十五分だった。
それでも、まだ気にはしなかった。
三日目にも聞こえた。
四日目にも聞こえた。
そのころになって、私は一緒に暮らしている人に訊いた。
「今の、聞こえた?」
「聞こえたよ」
「何だと思う?」
「車じゃない?」
「事故?」
「さあ」
それで話は終わった。
翌朝、近所を歩くついでに路面を見た。
ガラス片はなかった。
バンパーの破片もない。
ガードレールがへこんでいる様子もない。
血痕など、もちろんない。
考えてみれば、変だった。
家からそれほど遠くないところに警察署がある。消防署もある。
本当に毎晩のように交通事故が起きているなら、何か聞こえるはずだった。救急車のサイレン。パトカー。無線。人の声。
ところが、
キーッ。
ドン。
そのあとには、何もない。
音だけが、毎晩置き去りにされる。
私は工事ではないかと思った。
夜間工事の資材を動かす音。鉄板を置く音。トラックの荷台を閉める音。
それなら説明がつく。
説明がつけば、それでよかった。
けれど土曜日にも鳴った。
日曜日にも鳴った。
雨の日にも鳴った。
午後八時四十三分の日もあったし、八時四十七分の日もあった。
それでも、だいたい八時四十五分だった。
毎日ぴたりと同じ時刻なら、機械だと思えたかもしれない。
少しだけずれるのが、かえって気味が悪かった。
誰かがやっている。
そんな感じがした。
*
音には順番があった。
まず、キーッ。
それから、ドン。
二つの音の間には、一秒か二秒ほど間がある。
ある晩、私はテレビを消して待ってみた。
八時四十四分。
私は時計を見た。
「何してるの?」
背後から声をかけられた。
「いや、別に」
「音、待ってる?」
「待ってないよ」
そう答えた直後だった。
キーッ。
二人とも黙った。
ドン。
顔を見合わせた。
「やっぱり聞こえるよね」
「聞こえる」
「何だろうな」
「知らない」
「事故みたいじゃない?」
「でも、毎日事故なんか起きないでしょ」
その通りだった。
その通りなのに、私には事故の音にしか聞こえなかった。
急ブレーキ。
衝突。
けれど、よく考えると妙なことが一つあった。
金属の音がしない。
車同士がぶつかったなら、もう少し硬い音がしてもよさそうだった。ガシャン、とか、バキッ、とか。
あの音は違う。
ドン。
低い。
鈍い。
柔らかいものに、重いものが当たったような音だった。
そこまで考えて、私は考えるのをやめた。
*
八時四十五分に外へ出ないようになったのは、そのころからだ。
別に怖かったわけではない。
私はそう思っていた。
夕食を買いに出るなら八時半までに帰った。
八時半を過ぎたら、九時まで家を出なかった。
帰宅が八時四十五分ごろになりそうなら、コンビニに寄った。
たった十五分か二十分ずらせばいい。
何の不便もなかった。
だから、それを恐怖と呼ぶ必要はないと思った。
単なる習慣だ。
縁起の悪い数字を避けるのと同じようなものだ。
「最近、八時半になると時計見るね」
ある日、言われた。
「そう?」
「見るよ」
「気のせいだよ」
「昨日も八時四十分にゴミ出しに行こうとして、やめたじゃない」
「雨が降りそうだったから」
「降ってなかったけど」
私は笑った。
相手は冷蔵庫を開け、牛乳パックを手に取った。残りを確かめるとき、いつも一度軽く振る。
ちゃぷ、と音がした。
「明日の朝まではあるね」
そう言って元に戻した。
毎朝、牛乳を飲む。
なくても死にはしないのに、切らすのを嫌う。
私はその癖を昔から知っていた。
音は相変わらず鳴っていた。
キーッ。
ドン。
私はもう窓を開けなかった。
一度、ベランダに出て確かめてみようかと思ったことはある。
音の方向くらい分かるかもしれない。
けれど、やらなかった。
理由は簡単だった。
実害がないからだ。
何かが壊れるわけでもない。
眠れないほど大きな音でもない。
毎晩数秒。
それだけだ。
原因を突き止めるために、わざわざ夜の八時四十五分に外をうろつくほうが馬鹿げている。
私はそう考えた。
だから、
八時四十五分には帰らない。
八時四十五分には出歩かない。
それだけ守ればよかった。
*
いつの間にか、音を時計代わりにするようになった。
キーッ。
ああ、もう八時四十五分か。
ドン。
食後の薬を飲もう。
そんな具合だった。
不思議なもので、毎晩鳴るものは、どれほど気味が悪くても日常になる。
踏切の音。
寺の鐘。
隣家の犬。
救急車。
そして、何かが何かにぶつかる音。
ある日、私は午後八時三十分に家へ帰った。
外は蒸し暑かった。
冷房の効いた部屋に入って、シャツを脱ぎ、冷蔵庫から水を出した。
「今日も暑かったね」
「ひどいね」
そんな話をした。
テレビをつけた。
八時四十分。
私は時計を見た。
自分でも気づかないふりをした。
八時四十五分。
何も聞こえなかった。
私はテレビの音量を下げた。
「どうしたの?」
「いや」
八時四十七分。
何もない。
私は窓のほうを見た。
「今日、鳴らないね」
先に言ったのは、私ではなかった。
「そうだね」
私は答えた。
九時になった。
それでも鳴らなかった。
ほっとした。
そうなるはずだった。
工事が終わったのかもしれない。
何かの設備なら、修理されたのかもしれない。
正体は分からないままでも、もう聞かなくて済むなら、それでいい。
私はそう思った。
けれど、その夜はなかなか眠れなかった。
音がしないことが、こんなに気になるとは思わなかった。
キーッ。
ドン。
頭の中では、いつもの二つの音が何度も鳴った。
私はそのとき、まだ知らなかった。
毎晩鳴っていたことよりも、
鳴らなかった夜のほうに、意味があったことを。
*
翌晩、音は戻った。
八時四十四分。
キーッ。
ドン。
私は息を吐いた。
安心したことに気づいて、自分でおかしくなった。
「鳴ったね」
「鳴った」
「よかった?」
「まさか」
そう答えたが、たぶん、よかったのだと思う。
鳴るべきものが鳴った。
それだけで、世界が元に戻った気がした。
*
次の日から、録音することにした。
スマートフォンを窓際に置き、八時四十分から録音を始めた。
一日目。
八時四十四分三十二秒。
キーッ。
ドン。
二日目。
八時四十六分十一秒。
キーッ。
ドン。
三日分たまったところで聞き比べた。
どの日も、キーッという音の最後に、ほんの少しだけ高くなるところがある。
ドンの直前に、カッ、とも、コッ、とも聞こえる小さな音が混じる。
そしてドンのあと、遠くで短く二回。
トン、トン。
それまで同じだった。
「ちょっと聞いて」
イヤホンを片方渡した。
「何?」
「同じじゃない?」
「そりゃ毎日同じ音なんだから」
「そうじゃなくて」
説明しようとして、やめた。
波形も表示してみた。
詳しいことは分からない。
それでも、細長い山、大きな山、その後ろの二つの小さな山。
よく似ていた。
似ているだけだ。
私は画面を閉じた。
*
その晩、初めて窓を少し開けた。
八時四十二分だった。
冷房の冷気が逃げていった。
「開けるの?」
「方向だけ知りたい」
「やめれば?」
「別に外に出るわけじゃない」
外は暑かった。
車の音がする。
遠くで誰かが笑っていた。
八時四十五分。
キーッ。
思ったより近かった。
ドン。
右。
いや、下。
違う。
建物の間で反響して、方向が分からない。
ただ、一つだけ分かった。
車道から聞こえている感じがしなかった。
「どこ?」
「分からない」
「閉めようよ。暑い」
窓を閉めた。
鍵をかけた。
そのとき、なぜ鍵までかけたのか、自分でも分からなかった。
*
二度目に音がしなかったのは、その三日後だった。
その日は朝から雨だった。
八時四十五分。
雨の音だけがした。
八時四十七分。
鳴らない。
「まただね」
「うん」
九時まで待った。
私はノートに、
八月二十五日 雨。音なし。
と書いた。
それから、前に音がしなかった日の欄を見た。
八月十八日 晴れ。音なし。
二日。
何か共通点があるのだろうか。
曜日は違う。
天気も違う。
考えていると、
「ねえ」
後ろから声がした。
「何?」
「今日、下のコンビニ、閉まってたね」
「ああ」
近所に小さなコンビニがある。
二十四時間営業ではない。
夫婦でやっている店で、夜は十時に閉まる。
「珍しいね」
「貼り紙してあったよ」
「何て?」
「都合により休業します、って」
「ふうん」
翌朝、その前を通った。
シャッターは閉まったままだった。
貼り紙が一枚あった。
都合により、しばらく休業いたします。
その前に、警察官が二人立っていた。
一人が店の横の細い路地を見ていた。
私は通り過ぎた。
*
三日後、店は開かなかった。
近所の人から話を聞いた。
奥さんが帰ってこないらしい。
「いつからですか」
「この前の雨の日みたいよ」
私はそれ以上聞かなかった。
家へ帰って、ノートを開いた。
八月二十五日 雨。音なし。
偶然だ。
それ以外にない。
人が一人帰ってこないことと、近所で音がしなかったことに、何の関係がある。
私はノートを閉じた。
また開いた。
八月十八日。
最初に音がしなかった日。
その日、何があった。
思い出そうとした。
何もない。
少なくとも、私の周りでは。
そのとき、ふと、白い犬を思い出した。
毎晩、八時半すぎになると、小さな白い犬を連れた老人が家の前を通っていた。
私は仕事帰りに何度かすれ違っている。
老人はいつも帽子をかぶっていた。
犬のほうが先に私を覚えて、すれ違うたびにこちらを見上げた。
「こんばんは」
老人が軽く会釈する。
私も会釈する。
それだけの関係だった。
最後にすれ違ったのは、いつだったろう。
思い出せなかった。
「そういえば」
隣の部屋から声がした。
「あのおじいさん、最近見ないね」
私は顔を上げた。
「白い犬の?」
「そう」
「いつから?」
「知らないよ。そんなの」
私はノートを見た。
八月十八日 晴れ。音なし。
時計を見ると、八時三十九分だった。
*
八時四十五分。
キーッ。
ドン。
音は戻っていた。
私は窓を見なかった。
その夜から、私の中の決まりは少し変わった。
八時四十五分には帰らない。
八時四十五分には出歩かない。
それだけでは足りない。
八時四十五分に、誰が外にいるのかも見ない。
そう決めた。
*
それから三日間、音は鳴った。
キーッ。
ドン。
私はもう記録を取らなかった。
聞こえれば、それでよかった。
鳴っているあいだは、誰もいなくならない。
そう思うようになっていた。
もちろん、そんな証拠はない。
コンビニの奥さんが帰ってこなかった夜に音がしなかった。
あの老人を見かけなくなったころにも、音のしない夜があった。
それだけだ。
二つしかない。
二つでは規則とは呼べない。
私は何度もそう考えた。
けれど、八時四十分になると耳を澄ませた。
キーッ。
ドン。
聞こえるたびに、安心した。
それがいちばん嫌だった。
*
「今日、ちょっと買い物行ってくる」
そう言われたのは、七時半ごろだった。
「何買うの?」
「牛乳とパン。あと洗剤」
「明日でいいじゃない」
「牛乳ないよ」
冷蔵庫を開け、いつものようにパックを振った。
音はしなかった。
「ほら」
「なくても困らないでしょ」
「朝、困るよ」
時計を見た。
七時三十七分。
「八時半までには行ってきたほうがいいよ」
言ってから、しまったと思った。
「またそれ?」
「別に」
「八時四十五分?」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味でしょ」
笑われた。
私は黙った。
「分かった。八時半までには行くよ」
「いや、いいよ。別に」
そこで話は終わった。
*
八時二十八分。
隣の部屋で何かを探す音がした。
八時三十一分。
「行ってくるね」
「今?」
「すぐそこだよ」
立ち上がった。
「待って」
「何?」
「九時にしたら」
一瞬、黙った。
「本気で言ってる?」
「二十分くらいじゃない」
「だから二十分くらいで帰ってくるって」
「八時四十五分にかかる」
「かかったら何なの?」
答えられなかった。
そんなわけがない。
ただの偶然だ。
コンビニの奥さんも、老人も、音とは関係ない。
そう言ってしまえば済むことだった。
「行ってくる」
玄関のドアが閉まった。
八時三十三分だった。
*
八時三十九分。
まだ帰らない。
八時四十一分。
外を車が通った。
八時四十三分。
私はスマートフォンを手に取った。
電話するほどではない。
コンビニまでは歩いて数分だ。
買い物をして、レジが混んでいれば十分くらいかかる。
いつもの、ただの買い物だ。
八時四十四分。
テレビを消した。
冷房の音だけがした。
八時四十五分。
私は待った。
何も聞こえなかった。
十秒。
二十秒。
三十秒。
キーッ。
来い。
私はそう思った。
鳴ってくれ。
八時四十六分。
鳴らなかった。
私は電話をかけた。
呼び出し音がした。
一回。
二回。
三回。
出ない。
切った。
もう一度かけた。
出ない。
八時四十八分。
私は玄関まで行った。
靴を履こうとして、やめた。
外に出る。
そのことを考えただけで、喉が乾いた。
「馬鹿らしい」
声に出して言った。
ただ買い物に行っているだけだ。
九時になれば帰ってくる。
*
九時。
帰ってこなかった。
九時二十分。
私はとうとう外に出た。
エレベーターに乗った。
鏡に自分の顔が映った。
ひどい顔だった。
ロビーを出る。
夜の街はいつも通りだった。
車が走っている。
自転車が通る。
向こうの信号で人が待っている。
警察署のほうには明かりがついていた。
消防署にも人の気配があった。
誰も騒いでいない。
事故など起きていない。
私はコンビニまで歩いた。
店は開いていた。
レジの若い店員に聞いた。
「さっき、こういう人来ませんでしたか」
スマートフォンの写真を見せた。
店員は画面を見た。
「ああ、来ましたよ」
心臓が一度、大きく鳴った。
「何時ごろ?」
「さあ……八時半すぎくらいですかね」
「買い物して?」
「はい」
「店を出ました?」
店員が少し変な顔をした。
「出ましたけど」
「一人で?」
「たぶん」
「どっちへ行きました?」
「そこまでは見てないです」
礼を言って外へ出た。
家までの道を戻った。
途中の路地も見た。
誰もいなかった。
電話をかけた。
呼び出し音。
出ない。
*
警察に相談した。
成人で、家を出てまだ数時間。
事件や事故を示すものはない。
携帯電話もつながっている。
もう少し様子を見てくださいと言われた。
もっともだと思った。
私は、八時四十五分の音のことは言わなかった。
言えなかった。
毎晩、急ブレーキと何かにぶつかる音がする。
その音がしない夜に、人がいなくなる。
そんな話をしたら、自分でもどう聞こえるか分かっていた。
十一時。
十二時。
一時。
電話は鳴らなかった。
私はリビングの灯りを消さずに待った。
ときどき廊下へ出た。
エレベーターの音がするたびに、玄関へ行った。
誰も来なかった。
*
朝になった。
ほとんど眠らなかった。
六時を過ぎたころ、外が明るくなった。
私はもう一度電話をかけた。
呼び出し音はした。
出ない。
警察へ行こうと思った。
着替えた。
財布とスマートフォンを持った。
玄関へ行った。
ドアを開けた。
足元に紙袋が置いてあった。
最初、それが何なのか分からなかった。
昨日の夜、持って出たエコバッグではない。
コンビニの白い袋だった。
中を見た。
牛乳。
食パン。
洗剤。
頼んだものが全部入っていた。
誰もいない。
廊下の左右を見た。
静かだった。
袋を持って部屋へ入った。
牛乳はぬるくなっていた。
食パンの下にレシートがあった。
私は取り出した。
店の名前。
牛乳。
食パン。
洗剤。
合計金額。
その下に、時刻が印字されていた。
20時45分。




