タイムカプセル
「なあ、少年。話をしよう」
「……誰ですか、あなたは」
不審者に向けるような、いや、それ以上に得体の知れないものに対する警戒心を丸出しにして俺が問い返すと、彼女はふっと片方の口角だけを上げて笑った。
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。ただの通りすがりのお姉さんだよ」
声は少し低く、けれどどこか鼓膜にねっとりと絡みつくような響きがあった。
照りつける真夏の日差しの中、アスファルトから立ち昇る陽炎。その向こうで微動だにしない彼女の姿は、周囲の風景から完全に浮き上がっていた。
彼女が立っていたのは、道端にひっそりと口を開ける古びた神社の石段、そのすぐ脇だった。鬱蒼と茂った木々の奥には、色褪せた朱色の鳥居が見える。真昼だというのに、その向こうだけは陽の光が届かず、ぽっかりと黒い穴でも開いているように薄暗かった。
その暗がりを背に、彼女は両手を身体の前でゆるく重ねて立っていた。片足をわずかに後ろへ引き、重心をもう片方の脚に預けている。まるで待ち合わせの相手が来るのを、ずっとそこで待っていたかのような佇まいだった。
――まるで、ここを通る俺を待っていたかのようだ。
風が吹いてもいないのに、トレンチコートの裾だけがかすかに揺れたように見えた。
俺は額から流れる汗を拭うことすら忘れて、しばらく彼女を見つめていた。
年齢は二十代の後半といったところか。少し色を抜いた金髪のツインのお団子ヘア。
肌を突き刺すような猛暑日だというのに、彼女は重たいブルーグレーのトレンチコートを羽織っていた。
コートの下から覗く黒いTシャツの首元にはレザーのチョーカーがあり、シルバーのネックレスが幾重にも重なっている。
華奢なはずの腕には分厚い腕時計が巻かれ、指という指にはゴツゴツとしたシルバーリングがはめられていた。肩からは、ところどころ革の擦れた大ぶりの黒いショルダーバッグを提げている。留め具やバックルまで銀色で、その全身はまるで黒と銀だけを寄せ集めて作ったようだった。
不自然なほどにファンデーションが厚塗りされた顔は、まるで精巧な仮面だ。
不気味なほどの存在感。なのに、その目つきや、ふとした仕草の端々に、ひどく見覚えのあるような……奇妙な既視感が付きまとっていた。
「ほら、あそこの日陰。少し涼んでいかないか?」
彼女に顎で促され、俺は道の脇にある神社の石段に腰を下ろした。
両手には、さっきニ〇リで買い込んだばかりの真っ白な皿やマグカップ、タオル、ハンガーなんかが詰まったビニール袋が食い込んでいる。
ほんの一時間ほど前、不動産屋で一人暮らし用の小さな部屋に申し込みを済ませてきたばかりだった。まだ審査に通ったわけでも、契約書に判を押したわけでもない。
それでも、何か一つでも「自分の生活」を手に入れたくて、その足で店に寄ってしまったのだ。
我ながら気が早いとは思う。
それでも、新品の食器が袋の中でカチャカチャと鳴るたびに、本当にあの家から出るのだ、という実感が少しだけ湧いた。
限界を迎えていた指先をさすっていると、彼女は肩に掛けていた黒いレザーバッグを膝の上に下ろし、中をごそごそと漁り始めた。
「ほらよ。暑いだろ」
差し出されたのは、どこで買ったのか、まだ霜がうっすらと付いているソーダ味のアイスバーだった。
「あ……どうも」
見ず知らずの、しかも異様な風体の女からもらったものを口にする気にはなれず、俺は袋を破ることもなく、ただそれを右手で握りしめた。冷たい感触が、火照った掌にひんやりと心地よかった。
「むかしむかし、とあるところにね」
唐突に紡がれた言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「……は?どうしたんですか、急に」
ただでさえ得体の知れない女が、会って間もない男に向かって、まるで子供に絵本でも読み聞かせるような抑揚で昔話を始めたのだ。暑さで頭がおかしくなったのか、それとも新手の宗教勧誘か何かか。急激に気味が悪くなり、思わず腰を浮かしかけた。
だが、逃げ出そうとした俺の体は、中腰のままピタリと凍りついた。
彼女がすっとこちらを見上げ、俺の瞳を真っ直ぐに捉えて放さなかったからだ。
先ほどまでの軽薄な笑みは消えていた。
彼女は瞬きもせず、ただ俺を見ている。
「座れ」と言われたわけでもない。なのに、その目を見ていると、なぜか立ち去ってはいけないような気がした。
有無を言わせぬその静かな眼差しに射抜かれ、俺は立ち去ることも、目を逸らすことすらできず、ただ息を呑むしかなかった。
「……」
俺が無言のまま石段に座り直すと、彼女は何事もなかったかのようにふわりと甘ったるい香水の匂いを漂わせ、遠くの陽炎へと視線を戻して言葉を続ける。
「家がたまらなく嫌で、息が詰まるような現実から逃げ出したくて、ついにすべてを捨てて飛び出した男がいました。男が手に入れたのは、念願の『自由』。誰にも文句を言われず、干渉されない、完璧な一人きりの王国」
「……へえ、そいつは気の毒に」
適当に相槌を打ちながら、俺は再び石段に腰を下ろし、内心で少しだけ自嘲した。
奇妙な偶然だ。俺もまさに今日、家を出る決意をして、こうして生活用品を買い込んできたばかりだった。
「……奇遇ですね。実は俺も、今すぐとは言いませんが、ちょうど家を出る準備を始めたところなんですよ」
少しの皮肉を込め、パンッと石段に置いていたビニール袋を叩きながらそう言うと、彼女は俺の足元にある膨れ上がったそれに視線を落とした。
「そりゃあ、すごくよく買い込んだもんだね。まあ、半分くらいは使わないんだろうけどさ」
「必要なものしか買ってませんよ。中身を見てもいないくせに、なんでそんなこと言うんですか」
ムッとして言い返すと、彼女は「ふふっ」と楽しげに喉の奥で笑った。
「悪かったよ。少し話が逸れてしまったね。……もう少しだけ、私に昔話をさせてくれ」
彼女は再び視線を遠くの陽炎に戻し、ねっとりとした声で言葉を紡ぐ。
「その男の仕事はね、家から一歩も出なくてもできる仕事だったのさ」
「……へえ」
「朝起きて、パソコンを開けば仕事が始まる。満員電車に揺られる必要もなければ、雨の日に傘を差して会社へ向かう必要もない。最初のうちは、ずいぶん恵まれた働き方だと思ってたみたいだよ」
そこまで聞いて、俺は手の中のアイスバーを何となく握り直した。
別に珍しい話でもない。今時、在宅勤務の人間なんていくらでもいる。
「でも、家にいる時間が長いとさ、不思議なものでね。家族からすれば、『家にいる人』になっちゃうんだ」
彼女は石段に肘をつき、頬杖をついた。
「宅配便が来たら出る。洗濯物が溜まっていたら回す。ゴミの日ならまとめて出す。昼休みにちょっと掃除して、夕方になれば晩飯のことを考える。仕事中だっていうのに、『ついでだから』ってね」
「……まあ、それくらいなら」
口にしてから、わずかに引っかかった。
宅配便。洗濯。ゴミ出し。風呂洗い、晩飯づくり。
やって当たり前のこと。そんな家庭はいくらでもある。
「男も最初はそう思ってた。別に大したことじゃないって。自分が家にいるんだから、自分がやればいい。家族が少し楽になるなら、それでいいってさ」
女はそこで一度言葉を切った。
蝉の声だけが、やけに大きく耳に響いた。
「でもね。人間ってのは厄介なもので、毎日続けているうちに、少しずつ勘違いし始めるんだよ」
「勘違い?」
「『自分ばかりやっている』って」
心臓が、ほんの少し強く脈打った。
彼女は俺の顔を見るでもなく、足元のアスファルトを眺めている。
「誰も気づいてくれない。ありがとうとも言われない。仕事をしながらやっているのに、家にいるってだけで当然みたいな顔をされる。そういう小さな不満を、男はずっと飲み込んでた」
俺は何も言わなかった。
喉の奥が、妙に乾いていた。
「それである日、とうとう口にしちゃったのさ」
彼女が、くすりと笑った。
「『俺がいなかったら、この家どうすんの』って」
「…………」
握っていたアイスの袋が、かすかに鳴った。
そんな言葉を、俺は知っている。
いや。
知っているどころじゃない。
今日、言った。
「そしたら母親はさ、呆れた顔でこう返したんだって」
女はそこで初めて俺の方を向いた。
片方の口角だけを、ゆっくりと持ち上げる。
「『あんたが好きでやってるんでしょ。誰も頼んでないわよ』」
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てた。
「……なんで」
自分でも驚くほど、小さな声が漏れた。
真夏だというのに、背中を冷たいものが伝っていく。
あれは、ほんの数時間前のことだ。
俺と母親しか知らないはずの、あの言葉。
「男は何も言い返せなかったみたいだよ」
彼女は何事もなかったかのように、再び前を向いた。
「自分は家族のために頑張っているつもりだった。でも、向こうからすれば頼んでもいないことを勝手にやって、勝手に恩を着せていただけだった」
「……やめろ」
「善意だと思ってたものが、ただの独りよがりだったって突きつけられたんだ。そりゃあ、堪えるよねえ」
「やめろって」
彼女は聞こえていないふりをして続ける。
「その日のうちに男は家を飛び出した。ずっと頭の中で思い描いていた、『ここではないどこか』へ逃げるためにね」
俺は足元のビニール袋を見た。
真っ白な皿。
一人用のマグカップ。
束になった新品のハンガー。
不動産屋でもらってきた部屋の間取り図と、申し込みを済ませたばかりの書類一式。
一人分の生活を始めるために、今日買い込んできたもの。
さっきまで新生活の象徴に見えていたそれらが、急にひどく不気味なものに思えた。
「……あんた」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「どこで、それを聞いたんだよ」
俺の問いには直接答えず、彼女はふたたび遠くの陽炎へと視線を戻した。
「でもね、彼はすぐに気づくことになるの。自由と引き換えに、圧倒的な『孤独』を手に入れてしまったことに。夜、暗い部屋に帰っても『おかえり』と言う声はない。その静寂は次第に彼の精神を削り取っていったわ。孤独を埋めるために、男は必死にもがいた。プロテインを買い込んで筋トレをして、マッチングアプリにも手を出した。筋肉がつけば、外見を磨けば、誰かが自分を愛してくれるんじゃないかって」
……まただ。
なぜ、この女は俺の過去を寸分違わず語り、さらには俺が今まさに思い描いていた「ここではないどこかへ行けば変われる」という浅ましい計画まで、あざ笑うかのように暴いていくんだ。
「結果として、肉体改造は成功した。均整の取れた、そこそこに魅力的な男にはなれて、何人もの女性と実際に出会うことができた。でもね」
彼女はそこで言葉を区切り、ゆっくりと俺の方を向いた。
「結局のところ、恋は実らなかったのよ」
「……どうして」
無意識のうちに、俺は震える声で聞き返していた。
「いざ女性と深く向き合おうとした時、外見だけじゃ誤魔化しきれなかったのさ」
彼女の声のトーンが、一段低く、冷ややかなものに変わった。
「女の子からLINEの返信が数時間ないだけで、嫌われたんじゃないかって一晩中スマホを握りしめて冷や汗を流す。せっかく相手が『一緒にいて楽しい』と言ってくれても、『こんな俺を好きになるなんて、どうせ嘘だ』『何か裏があるに決まってる』って疑ってかかる。少しでも本心に踏み込まれそうになると、自分が傷つく前に、震える指で自分から連絡先をブロックして逃げ出すんだ」
「っ……!」
「まあ、そうなった理由なんていくらでもあるさ。実家でずっと人の顔色を窺ってきたことも、その一つなんだろうね。相手の顔色ばかり窺って、いつもビクビクして。そのくせ、見捨てられるのが怖くて深夜に『俺なんてどうせ』って重たい長文を送りつける。……そんな薄気味悪い男に、誰がついてくると思う?近づいてきた女性たちは皆、やがて潮が引くように離れていったわ」
全身の毛穴から、じわっと冷たい汗が噴き出した。
ただの偶然じゃない。
俺が心の奥底にひた隠しにし、自分自身でさえ直視することを避けていたみっともない本性を、彼女は一つひとつ具体的な光景にして、目の前に突きつけてくる。
「あんた……何者なんだよ。何が言いたいんだ」
絞り出すように尋ねると、彼女は歪な微笑みを浮かべた。
至近距離で見る彼女の顔に、俺は明確な恐怖を覚えた。不自然に厚塗りされたファンデーション。女性にしては少し骨張った顎のライン。トレンチコートのポケットに突っ込まれた、節くれだった大きな手。そして、チョーカーの下でかすかに上下する、隆起した喉仏。
「タイムカプセルって、知ってる?」
彼女は、男のように低い地声で唐突にそう言った。
「普通はさ、過去の自分から未来の自分へ、希望や思い出を送るものでしょ?でもね、私が持ってきたのは逆。未来から過去の自分へ送る、絶望と警告のタイムカプセル」
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
彼女の顔のパーツ。その目つき、鼻の形。笑う時に片方の口角だけが少し上がる癖。
嘘だろ。まさか。そんなこと、あるはずがない。
「男はね、あまりの孤独と、誰からも愛されない現実に耐えきれなくて、ついにおかしくなっちゃったの。いくら外見を磨いても愛されない。誰にも抱きしめてもらえない。だったら……『自分が、自分の望む最高の女になればいい』って、そう思っちゃったのよ」
頭の芯が、ガンと殴られたように痺れた。
「ねえ、少年。これから一人暮らしを始めようとしている、過去の私」
彼女の冷たい手が、俺の頬に触れた。ジャラジャラと鳴るシルバーリングの金属的な感触にビクッと体を震わせたが、逃げることはできなかった。
「あんたが手に入れようとしている『自由』の先には、私というバケモノが待っているわ。家族という鎖を断ち切った先にあるのは、輝かしい東京でも、何者かになれた自分でもない。狂気に逃げ込むしかなくなった、哀れな男の末路よ」
そう言って、彼女は俺の頬から冷たい手を離し、ゆっくりと立ち上がった。ヒールの不慣れな足取りで背を向け、歩き出そうとする。
「……待ってくれ」
俺は思わず、その異様な背中に向かって声を絞り出していた。
自分でも信じられないほど、掠れた声だった。
「あんたは……今、幸せなのか?」
これが絶望的な俺自身の未来だというなら。実らない恋に懸命に足掻き、苦しみ抜いた末に、自らの手でここまでの『美しい女』を作り上げたのだとしたら。
それは結果的に、彼女を――いや、未来の俺を救ったのだろうか。
ここまで己のすべてを作り変えた結果として、あんたは幸せを手に入れたのか。
俺はどうしても、それが気になってしまったのだ。
足を止めた彼女は、ゆっくりと振り返った。
陽炎の中で、精巧な仮面のような顔に、哀しいほどの微笑みが浮かぶ。
「君から見て」
彼女は、ひどく静かな、感情の抜け落ちた声で問い返した。
「過去の君から見て、今の私は……幸せそうに見えるかい?」
「…………」
俺は、息を呑んだまま何も答えることができなかった。喉の奥が張り付き、言葉が完全に詰まってしまった。
幸せそうに見えるか。
そんなこと、俺にわかるはずがなかった。
笑っている。綺麗に化粧をして、自分の好きな格好をしている。
なのに、どうしてだろう。
俺には、その顔がひどく寂しそうに見えた。
ただ、圧倒的な絶望だけが、そこにはあった。
俺が黙り込むのを見て、彼女はふっと視線を外した。
「……せいぜい足掻いて、私を裏切ってみせてよ」
それだけ言うと、彼女は背を向けた。
コツン、コツンという不規則なヒールの音が、鼓膜を劈くような蝉時雨の中に溶けて消えていく。
一人残された俺は、ただ呆然と神社の石段に座り込んでいた。
ふと、右手に生ぬるい、べたつく感触を覚えた。
視線を落とす。手の中のアイスバーは、いつの間にか袋の中で完全にドロドロに溶け切っていた。青いソーダ味の甘ったるい液体が、袋の隙間から俺の指を伝い、熱を帯びたアスファルトに向かって、ポタ、ポタと不気味な音を立てて滴り落ちている。
空を見上げると、残酷なほど青い夏の空が広がっていた。
アスファルトを溶かすような熱気の中、俺は溶け落ちる雫を見つめたまま、まるで氷点下の世界に放り込まれたように、いつまでも震えを止めることができなかった。




