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第9話 二つの顔、同じ腹

 日曜の夜に持ち帰った肉は、その日のうちにほとんどなくなった。


 机の上にラップの切れ端だけが残っている。


 ローストビーフも、ハムも、チキンもない。


 腹の奥のざらつきは、ようやく静かになっていた。


 その代わり、別のものが残っている。


 罪悪感と、満足感。


 その二つが同時に部屋に残っているのが、隆史は妙に嫌だった。


「……終わってるな」


 小さくつぶやいて、ベッドに倒れ込む。


 悪いことをした、とは思う。


 ホテルの余りだろうが何だろうが、勝手に持って帰ったことに変わりはない。


 しかも土曜だけじゃない。日曜もやった。


 もう一回だけ、のつもりだったのに、翌日には少し手際がよくなっていた。


 それが何より嫌だった。


 なのに、助かったのも本当だった。


 部屋で肉が食えた。


 腹の奥が落ち着いた。


 その事実だけは、どれだけ気分が悪くても消えない。


「……最悪だ」


 そう言いながら、まぶたが落ちる。


 疲れていた。ホテルの仕事は普通にきつい。そのうえ、ずっと気を張っていた。


 罪悪感も自己嫌悪もあるくせに、体の方は満足している。


 その食い違いを抱えたまま、隆史は眠りに落ちた。


     ◇


 月曜の朝、目が覚めたとき、隆史はまだ宝塚の顔のままだった。


 天井を見たまま、しばらく動かない。


 腹の奥が、じわっと減っている。


 強い。


 昨日と同じ、あの感覚だ。


 肉を入れろ、と体の内側がはっきり言ってくる。


「……朝からかよ」


 小さくつぶやく。


 時計を見る。


 八時前。


 変身の持続は二十四時間。日曜の朝に整えた顔が、まだ残っている。


 隆史はゆっくり起き上がって、キッチンへ向かった。


 冷蔵庫を開ける。


 弱い。


 昨日の夜でほとんど食い尽くしてしまったせいで、まともなものは残っていない。


 卵。豆腐。安い麦茶。半端な調味料。


 この状態で宝塚のままは、正直きつい。


「……持って帰っといてよかったな」


 思わず口に出してから、少しだけ顔をしかめる。


 その言い方が、もうよくない。


 助かったのは本当だ。


 でも、それを口にしてしまうと、自分の中で一線がさらに薄くなる気がした。


 麦茶をコップに注いで飲む。


 意味はほとんどない。


 腹の奥は、それでごまかせる感じじゃなかった。


 時計を見る。


 まだ数分ある。


 時間を潰すしかない。


 部屋の中をうろうろして、また時計を見る。鏡を見る。冷蔵庫を見る。もう一度時計を見る。


 八時を少し回ったあたりで、ふっと体の感覚が変わった。


 顔に触れていないのに、何かが抜ける。


 鏡の前に立つ。


 そこに映っていたのは、いつもの小野隆史だった。


「……戻ったか」


 小さく息を吐く。


 さっきまであった強い肉欲求が、すっと引いている。


 完全に消えたわけじゃない。


 でも、さっきまでの「今すぐ食わないとまずい」感じではない。


 普通の空腹に近い。


 これなら、パンでもなんとかなる。


 そう思って食パンを焼く。


 一口かじる。


 問題ない。


 ちゃんと腹に落ちる。


 でも、どこか物足りない。


「……」


 その違和感だけが、残った。


 肉がないと無理、というほどではない。


 でも、一度知ってしまった基準が頭のどこかに残っている。


 ホテルのローストビーフ。


 あのときの満ち方。


 それと比べてしまう。


「……めんどくせえな」


 小さくつぶやく。


 体は普通に戻っている。


 でも、基準だけは戻らない。


 それが一番、面倒だった。


     ◇


 普通の顔で歩く構内は、ちゃんと普通だった。


 誰も振り向かない。


 女子の視線も止まらない。


 昨日までの自分がいた場所に、そのまま戻っている。


 何もおかしくない。


 何も変じゃない。


 なのに、胸のどこかが少しだけしらけていた。


「お、小野。生きてたか」


 教室に入ったところで、松岡が手を上げた。


「勝手に殺すなよ」


「先週ほぼ見なかったぞ。お前」


「ちょっと体調崩してた」


「へえ」


 松岡はそう言いながらも、そこまで深くは追及してこなかった。


 いつもの調子だ。


 そのいつも通りが少しありがたくて、少しだけ物足りない。


 席に着いてノートを出す。


 教授の話が始まる。


 普通の隆史で受ける、普通の講義だ。


 それなのに、頭の片隅では別のことを考えている。


 次の土曜、ホテルか。


 まだ月曜だぞ、と自分で思う。


 早すぎる。


 でも、次にまともな肉が確保できる場所として頭に浮かぶのが、そこしかない。


 講義中に少し腹が鳴りそうになって、慌てて咳払いでごまかした。


 宝塚の顔じゃなくても、腹は腹だ。


 ただし欲求の強さは違う。


 今は普通の空腹で済んでいる。


 それでも、頭の中にある基準だけが勝手に高くなっている。


 それが妙に厄介だった。


     ◇


 昼休み、学食へ向かう途中で、高田さんを見かけた。


 教育学部の棟へ続く渡り廊下のあたりだった。


 友達と二人で歩いている。相変わらず地味めの服で、メガネもそのままだ。ぱっと見では目立たない。けれど、一度気づくとちゃんと分かる。


 あ、と思う。


 高田さんもこっちに気づいたらしく、少しだけ目を見開いた。


 それから、ほんの一瞬だけ困った顔をする。


 無理もない。


 学食で話した相手と、今ここにいる俺は、同一人物には見えない。


 向こうからしたら、ただの見知らぬ男に近いはずだ。


 けれど、俺の方は知っている。


 唐揚げをくれた子だ。


 オスカル様を見ていた子だ。


 その奇妙な片側性が、少しだけおかしかった。


 高田さんの友達が何か耳打ちする。


 高田さんは小さく首を振る。


 その動きが何となくかわいく見えて、俺は少しだけ視線を逸らした。


 普通の顔の俺が話しかけるのは変だろう。


 名前も知らないはずの相手に、自分だけ知ってるふうに近づくのは危ない。


 だから、そのまますれ違う。


 すれ違いざま、ほんの少しだけ高田さんのシャンプーの匂いがした気がした。


 何となく振り返りそうになって、やめる。


「……ややこしいな」


 自分の中でだけ小さくつぶやく。


 宝塚隆史で近づいた相手に、普通の小野隆史としてまた会う。


 しかも向こうは気づいていない。


 少し面白い。


 でも、下手をすると面倒だ。


 この二重生活は、思ったよりいろいろ混ざりやすいのかもしれなかった。


     ◇


 その日の昼はカツ丼にした。


 学食の安い肉だ。


 味は濃いだけで、肉も薄い。


 それでも、今の自分にはこっちの方がまだましだった。


 口へ入れる。


 飲み込む。


 少しだけ落ち着く。


 でも、ホテルの余り肉ほどではない。


 その比較が、勝手に頭に浮かんでしまう。


「……だめだな」


 箸を持ったまま、小さくつぶやく。


 もう基準がずれてきている。


 普通の隆史に戻っても、普通の食事で満足しにくくなっている。


 体の欲求は弱まる。


 でも、記憶は残る。


 ホテルのローストビーフ。


 冷めているのに、妙に体へ収まった感じ。


 あの満ち方を知ってしまったせいで、学食の肉が少し足りなく感じる。


 ろくでもない。


 分かっている。


 分かっているのに、頭は勝手に思い出す。


 厨房の熱気。


 皿の上の肉。


 ラップの位置。


 あの、妙に鮮明な記憶。


 食事は終わったのに、胸の内側が落ち着かない。


 肉そのものより、肉が手に入る場所を思い出している自分がいた。


     ◇


 火曜も、水曜も、変身しなければ肉欲求は強くならなかった。


 朝はパンで足りる。


 昼は学食で済む。


 夜はお好み焼き屋のまかないでも、何とかなる。


 それ自体は助かった。


 常にあの飢えが来るなら、たぶん生活が壊れていた。


 でも、安心しきれない自分もいた。


 強い欲求が来ないだけで、ホテルの肉を思い出さなくなるわけじゃない。


 空腹になれば、比較してしまう。


 何かを口に入れたとき、もっと効くものを知っていると思ってしまう。


 それが地味に嫌だった。


 水曜の夜、鏡の前でほんの少しだけ鼻筋に手をやりかけて、やめた。


「……触るな」


 小さく自分に言う。


 今ここで整えたら、また欲しくなる。


 また減る。


 また、あっちへ寄る。


 それが分かっているから、やめる。


 でも、その「やめる」を意識している時点で、もうだいぶ引っ張られている気もした。


     ◇


 木曜の夜、お好み焼き屋のバイト終わりに、香織が冷蔵庫から缶ジュースを出してよこした。


「おつかれ」


「ありがとうございます」


 プルタブを開ける。


 炭酸が喉にしみた。


「なんか最近、ちょっと顔色悪くない?」


 言われて、隆史は一瞬だけ固まる。


「そうですか?」


「寝不足っぽい。大学もあるし、無理してんじゃないの」


「まあ、ちょっと」


 それは本当だった。


 ホテルのシフトも入った。大学もある。肉のこともある。考えることが増えて、頭が休まらない。


 香織は鉄板の火を落としながら、ちらっとこっちを見る。


「彼女でもできた?」


「何でそうなるんですか」


「寝不足の大学生ってだいたいそのへんじゃん」


「違いますよ」


「ふーん」


 適当な返事だ。


 けれど、そういう軽い会話に少し救われる。


 香織の前では普通の隆史だ。


 ホテルのことも、宝塚の顔も、余り肉も知らない。


 その距離が、今はありがたかった。


「でも、ほんと無理しないでよ」


 香織はそう言って、余ったお好み焼きの端を小さく切った。


「食べる?」


「いただきます」


 ソースの匂いが立つ。


 うまい。


 ちゃんとうまい。


 腹にもたまる。


 なのに、やっぱりどこか違う。


 肉の塊じゃない。脂の層でもない。今の体が真ん中から欲しがっているものとは少しずれている。


 それを噛みながら理解してしまう自分に、また少し嫌になる。


     ◇


 金曜の夜、下宿で一人になってから、隆史はベッドの上で天井を見ていた。


 明日はホテルだ。


 その事実が、もう頭の中で一つの予定として固まっている。


 普通なら、バイトだ、面倒だ、くらいで済むはずなのに。


 今は違う。


 金になる。


 見た目も使える。


 そして、肉がある。


 最後の一つがいちばんまずい。


 分かっている。


 分かっているくせに、期待している。


「……ほんと終わってるな」


 口に出しても、少しだけ気分が軽くなるだけだった。


 やめるなら今だ。


 明日、持って帰らなければいい。


 厨房で余りを見ても、その場で少し食うだけで我慢すればいい。


 それで済む。


 たぶん。


 そう思いながら、隆史はスマホをいじる。


 高田さんのことが少し頭をよぎる。


 学食で唐揚げをくれた子。普通の顔の俺とはすれ違っただけの子。


 ああいうのも、本当なら普通にやればいいのかもしれない。


 普通の顔で、普通に知り合って、普通に仲良くなる。


 でも、自分がいま欲しがっているのは、そういう時間のかかる普通さじゃない。


 もっと即効性のある反応だ。


 見られること。欲しがられること。腹が満たされること。


 そこまで考えて、嫌になる。


 欲望が雑すぎる。


 でも、その雑さが今の自分には正直だった。


 土曜の朝になれば、また宝塚隆史の顔を作る。


 そう考えると、少しだけ胸が浮く。


 同時に、腹の奥もじわっと動いた気がした。


 顔が変われば、体の欲求もまた強くなる。


 普通の隆史でも、宝塚隆史でも、同じ腹ではある。


 ただ、強さが違う。


 そして、その強い方をもう知っている。


 その事実だけは、逃げようがなかった。


 隆史はベッドの上で寝返りを打つ。


 窓の外は静かだった。


 明日、またホテルへ行く。


 またあの顔になる。


 また見られる。


 また、厨房の肉を見る。


 その流れを頭の中でなぞったところで、隆史は小さく目を閉じた。


 やめるつもりの想像より、うまくやる想像の方が先に浮かぶ。


 その時点で、もうたぶん駄目だった。

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