第8話 余りものを、こっそり
月曜の夜、冷蔵庫を開けた隆史は、すぐに閉めた。
卵が二つ。豆腐。納豆。安い麦茶。
それだけだ。
「……弱い」
思わず口に出る。
普通に暮らすなら、別に困るほどじゃない。いままでの自分なら、これで数日は回せたと思う。
でも今は違う。
人体をいじると、体の奥が肉を欲しがる。
パンでは足りない。米でも埋まらない。豆腐や納豆では、どうにもごまかせない場所がある。
隆史は冷蔵庫の扉に額をつけた。
金がない。
食わないわけにもいかない。
そして、あのホテルには余り肉がある。
そこまで考えたところで、自分で顔をしかめた。
「……いや」
食っていいと言われたのは、その場でだ。
持って帰るのは違う。
分かっている。
分かっているのに、頭の中では妙に具体的なことばかり浮かぶ。
ラップ。
脇ポケット。
更衣室までの距離。
料理長の目線。
先輩が厨房を離れるタイミング。
「ほんと、嫌だな……」
小さくつぶやく。
嫌なのは、考えてしまう自分なのか、考えずにはいられない体なのか、自分でもよく分からなかった。
◇
火曜、隆史はほんの少しだけ顔を触った。
ほんの少しだけのつもりだった。
鼻筋を通す。
目元を整える。
顎の線を締める。
宝塚隆史にするほどではない。ほんのわずか、今の顔をマシにする程度。
それだけなのに、腹の奥がじわっと薄くなる。
「……やっぱ来るのかよ」
水を飲む。
意味はほとんどない。
昼には唐揚げ定食を食った。夜はスーパーの安売りの鶏肉を焼いて食った。
それでも、何かがきれいに埋まった感じがしない。
ホテルのローストビーフを思い出す。
ハム。ソーセージ。
冷めていても、腹の奥にすとんと落ちた肉の感じ。
あれを思い出した瞬間、自分の中で何かが少しだけ静かになった。
「……土曜まで長いな」
口に出してから、また嫌な気分になる。
もう待っている。
次のホテルを。
次の余り肉を。
そこまで来てしまっている自分が、少し気持ち悪かった。
◇
土曜の朝、鏡の前で顔を作りながら、隆史はなるべく余計なことを考えないようにしていた。
今日は仕事だ。
金のため。
それだけだ。
肉のためじゃない。
余りを持って帰るためでもない。
そうやって、頭の中で言い訳を並べる。
鼻筋を通す。
首を少し長く見せる。
目元を締める。
ホテルの空気に合う、整った若い男の顔を作る。
「……よし」
鏡の中の宝塚隆史は、今日もよくできていた。
その顔で制服を着て、駅前のホテルへ向かう。
ロビーを抜けて、更衣室へ入る。出勤の打刻をする。会場準備に回る。
やることは先週と同じだった。
白いクロスを敷く。
グラスを並べる。
ナイフとフォークの角度を揃える。
皿の位置を直す。
先輩の指示は相変わらず細かい。
「小野、そこ一センチずれてる」
「はい」
「返事だけはいいね」
「すみません」
笑われた。
きついが、理不尽ではない。
むしろ、こういう空気は嫌いじゃなかった。
披露宴が始まると、また客席からちらちら視線が来る。新婦の友人らしい女の子たちが、料理より先にこっちを見ているのも分かった。
その視線はやっぱり気持ちいい。
でも、それ以上に腹のことが気になる。
昼を過ぎるころには、もう体の奥がざらつき始めていた。
今日も朝から顔を触っている。
そのぶん減る。
運ばれていく肉料理の皿が、嫌でも目に入る。
ローストビーフ。
チキンのソテー。
ハムの盛り合わせ。
客のテーブルに置かれるたび、体のどこかがそっちへ引かれる。
終わるまで長い。
早く厨房に回りたい、と思っている自分に気づいて、少しだけぞっとした。
◇
披露宴が終わったあと、先週と同じように厨房の手伝いへ回された。
「残り片づけるから、皿運んで」
「はい」
熱気がある。
湯気がある。
皿のぶつかる音がある。
会場とは別世界の、せわしない空気。
その中で、大皿に残った料理がまとめられていく。
ローストビーフ。
ソーセージ。
ハム。
まだ十分うまそうな肉が、何皿もある。
料理長が手を止めずに言う。
「新人、食うなら今のうちに食っとけ。捨てるだけのもある」
「……はい」
もう一人の先輩が笑う。
「小野くん、先週すごい勢いで食べてたもんね」
「そんなにでしたか」
「そんなに」
少し恥ずかしかったが、否定できない。
隆史は皿を運びながら、隙を見てローストビーフを口に入れた。
うまい。
やっぱり、これだ。
冷めているのに、体の奥のざらつきがすっと引く。
もう一枚。
さらにもう一枚。
ソーセージも食う。
ハムも食う。
それでも、今日は少し違った。
食っているあいだ、胃袋より先に頭が動いてしまう。
全部ここで食べきるのは無理だ。
今は落ち着いても、また減る。
部屋に帰れば、冷蔵庫は弱い。
財布も軽い。
だったら――
その考えが、今度は前より自然に出てきた。
皿を積む。
ラップの位置が見える。
厨房の端に、まとめ用の小さい保存容器があるのも見えた。
更衣室までの廊下は短い。
スタッフの出入りはあるが、ずっと誰かが見ているわけじゃない。
隆史は自分の心臓が少し速くなっているのを感じた。
やるのか。
本当に。
手が少し汗ばんでいる。
「小野、これ下げて」
「はい」
返事をして皿を持つ。
そのまま動きながら、視線だけで厨房の流れを見る。
料理長は奥。
先輩はシンクの方。
もう一人はワゴンを押して会場側へ戻った。
今なら、一瞬だけ死角ができる。
隆史は皿を置き、自然な動きのふりでラップを引いた。
ローストビーフを数枚。
ハムを少し。
ソーセージを二本。
ほんの少し。
ほんの少しだけだ、と自分に言い聞かせる。
手早く包む。
制服の内側では無理だ。
更衣室までは危ない。
だが、脇の備品棚の下に、自分の作業用バッグを一瞬置いていたことを思い出す。
そこまで三歩。
誰も見ていない。
いや、見ていないはずだ。
喉が渇く。
呼吸が浅い。
隆史は包んだ肉をバッグの脇ポケットへ滑り込ませた。
すぐに皿へ手を戻す。
何でもない顔で、次の皿を持つ。
たったそれだけなのに、背中に汗が出た。
ばれたかもしれない。
いや、今のところ誰も何も言っていない。
料理長も、先輩も、普通に動いている。
だったら大丈夫か。
いや、大丈夫なわけがない。
でも今さら戻せない。
隆史はそのあともしばらく、必要以上に真面目に皿を運んだ。
手を止めない。
視線を泳がせない。
呼吸だけ整える。
心臓はずっと早かった。
◇
更衣室でバッグを開いたとき、そこに肉があるのを見て、妙な実感が出た。
本当に持ってきてしまった。
ローストビーフ。
ハム。
ソーセージ。
量は多くない。
でも、部屋へ持って帰るには十分だった。
「……やったのか、俺」
小さく口に出す。
うれしいわけじゃない。
誇らしくもない。
むしろ、少し引いた。
なのに、バッグを閉じる手は止まらなかった。
ホテルを出て、駅まで歩く。
夜風が冷たい。
脇ポケットの中身が、やけに重く感じる。
誰かに呼び止められる気がした。
後ろから「ちょっと」と声が飛ぶ気がした。
でも何もなかった。
そのまま改札を通り、電車に乗り、下宿へ帰る。
玄関のドアを閉めた瞬間、ようやく息が出た。
「……っは」
笑ったのか、息を吐いただけなのか、自分でも分からない。
バッグから肉を出す。
机の上に並べる。
たったこれだけなのに、冷蔵庫の中身よりずっと強く見えた。
隆史はローストビーフを一枚つまんで、口へ入れた。
うまい。
やっぱり、これだ。
ホテルで食ったときと同じように、腹の奥のざらつきが静まる。
もう一枚。
ソーセージ。
ハム。
止まらない。
「……これ、反則だろ」
誰に言うでもなくつぶやく。
金を払っていない。
見つかっていない。
部屋で食える。
体は楽になる。
条件だけ見れば、あまりにも都合がいい。
都合がよすぎて、まずい。
まずいのに、口と手が止まらない。
その夜、持ち帰った肉はほとんどなくなった。
少しだけ残して冷蔵庫に入れようと思ったが、結局それも食ってしまった。
腹の奥がようやく静かになるころには、時計はだいぶ進んでいた。
ベッドに倒れ込む。
天井を見る。
「……最悪だな」
そう言った声に、あまり力はなかった。
最悪だと思っている。
でも、助かったのも本当だ。
その二つが同時にあるのが、自分でも嫌だった。
◇
日曜もホテルのシフトが入っていた。
朝、目が覚めると、昨日の夜ほどではないが、また少し腹が減っていた。
冷蔵庫の中には、何も残っていない。
隆史はしばらく黙って、その空っぽを見ていた。
「……行くか」
自分に言うようにつぶやく。
今日は持ち帰らない。
そう決める。
昨日は、たまたまだ。
初回で、ちょっと切羽詰まっていて、頭がおかしくなっていただけだ。
今日は普通に働く。
余りはその場で少し食うだけ。
それで終わり。
そうやって言い聞かせながら、また鏡の前で顔を作る。
ホテルへ行く。
働く。
視線を浴びる。
腹が減る。
肉が出る。
そこまで来たところで、昨日の「決意」はだいぶ弱くなっていた。
厨房の流れも、昨日より読める。
どこで人が切れるかも、どこにラップがあるかも、何が余りやすいかも、少し分かっている。
知ってしまうと、動きが早くなる。
その日の隆史は、昨日よりずっと自然に皿を運び、昨日よりずっと自然に余り肉へ目をやり、昨日よりずっと短い迷いでラップを手に取った。
ローストビーフは少なかった。
代わりにチキンが残っていた。
ハムもある。
ソーセージもある。
量を見て、包み方まで考えている自分に気づいて、少しだけ嫌になる。
でも、手は止まらない。
昨日より上手くできた。
昨日より怖くなかった。
それが、いちばん嫌だった。
◇
夜、部屋へ戻ってバッグを開いたとき、隆史はしばらく何も言えなかった。
昨日より少し多い。
机の上に並べる。
肉。
また、肉だ。
「……慣れてんじゃねえよ」
自分に向かって言う。
でも、返事はない。
あるのは、腹の奥のざらつきだけだった。
ローストビーフはない。
今日はチキンが多い。
それでも十分だった。
食う。
噛む。
飲み込む。
静まる。
その繰り返しをしているうちに、罪悪感より先に満足が来る。
それが、何よりまずかった。
日曜の夜に持ち帰った肉は、その日のうちにほとんどなくなった。
部屋には、食い終わったあとの静けさだけが残る。
ベッドへ倒れ込み、隆史は腕で目を隠した。
ホテルの仕事はきつい。
でも、金になる。
見た目も使える。
そして、肉もある。
その全部が、今の自分には都合がよすぎた。
少しずつ、自分の中の線が薄くなっていく気がする。
けれど、それを止めるほど強くは、もう腹が空いていなか




