表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

第8話 余りものを、こっそり

 月曜の夜、冷蔵庫を開けた隆史は、すぐに閉めた。


 卵が二つ。豆腐。納豆。安い麦茶。


 それだけだ。


「……弱い」


 思わず口に出る。


 普通に暮らすなら、別に困るほどじゃない。いままでの自分なら、これで数日は回せたと思う。


 でも今は違う。


 人体をいじると、体の奥が肉を欲しがる。


 パンでは足りない。米でも埋まらない。豆腐や納豆では、どうにもごまかせない場所がある。


 隆史は冷蔵庫の扉に額をつけた。


 金がない。


 食わないわけにもいかない。


 そして、あのホテルには余り肉がある。


 そこまで考えたところで、自分で顔をしかめた。


「……いや」


 食っていいと言われたのは、その場でだ。


 持って帰るのは違う。


 分かっている。


 分かっているのに、頭の中では妙に具体的なことばかり浮かぶ。


 ラップ。


 脇ポケット。


 更衣室までの距離。


 料理長の目線。


 先輩が厨房を離れるタイミング。


「ほんと、嫌だな……」


 小さくつぶやく。


 嫌なのは、考えてしまう自分なのか、考えずにはいられない体なのか、自分でもよく分からなかった。


     ◇


 火曜、隆史はほんの少しだけ顔を触った。


 ほんの少しだけのつもりだった。


 鼻筋を通す。


 目元を整える。


 顎の線を締める。


 宝塚隆史にするほどではない。ほんのわずか、今の顔をマシにする程度。


 それだけなのに、腹の奥がじわっと薄くなる。


「……やっぱ来るのかよ」


 水を飲む。


 意味はほとんどない。


 昼には唐揚げ定食を食った。夜はスーパーの安売りの鶏肉を焼いて食った。


 それでも、何かがきれいに埋まった感じがしない。


 ホテルのローストビーフを思い出す。


 ハム。ソーセージ。


 冷めていても、腹の奥にすとんと落ちた肉の感じ。


 あれを思い出した瞬間、自分の中で何かが少しだけ静かになった。


「……土曜まで長いな」


 口に出してから、また嫌な気分になる。


 もう待っている。


 次のホテルを。


 次の余り肉を。


 そこまで来てしまっている自分が、少し気持ち悪かった。


     ◇


 土曜の朝、鏡の前で顔を作りながら、隆史はなるべく余計なことを考えないようにしていた。


 今日は仕事だ。


 金のため。


 それだけだ。


 肉のためじゃない。


 余りを持って帰るためでもない。


 そうやって、頭の中で言い訳を並べる。


 鼻筋を通す。


 首を少し長く見せる。


 目元を締める。


 ホテルの空気に合う、整った若い男の顔を作る。


「……よし」


 鏡の中の宝塚隆史は、今日もよくできていた。


 その顔で制服を着て、駅前のホテルへ向かう。


 ロビーを抜けて、更衣室へ入る。出勤の打刻をする。会場準備に回る。


 やることは先週と同じだった。


 白いクロスを敷く。


 グラスを並べる。


 ナイフとフォークの角度を揃える。


 皿の位置を直す。


 先輩の指示は相変わらず細かい。


「小野、そこ一センチずれてる」


「はい」


「返事だけはいいね」


「すみません」


 笑われた。


 きついが、理不尽ではない。


 むしろ、こういう空気は嫌いじゃなかった。


 披露宴が始まると、また客席からちらちら視線が来る。新婦の友人らしい女の子たちが、料理より先にこっちを見ているのも分かった。


 その視線はやっぱり気持ちいい。


 でも、それ以上に腹のことが気になる。


 昼を過ぎるころには、もう体の奥がざらつき始めていた。


 今日も朝から顔を触っている。


 そのぶん減る。


 運ばれていく肉料理の皿が、嫌でも目に入る。


 ローストビーフ。


 チキンのソテー。


 ハムの盛り合わせ。


 客のテーブルに置かれるたび、体のどこかがそっちへ引かれる。


 終わるまで長い。


 早く厨房に回りたい、と思っている自分に気づいて、少しだけぞっとした。


     ◇


 披露宴が終わったあと、先週と同じように厨房の手伝いへ回された。


「残り片づけるから、皿運んで」


「はい」


 熱気がある。


 湯気がある。


 皿のぶつかる音がある。


 会場とは別世界の、せわしない空気。


 その中で、大皿に残った料理がまとめられていく。


 ローストビーフ。


 ソーセージ。


 ハム。


 まだ十分うまそうな肉が、何皿もある。


 料理長が手を止めずに言う。


「新人、食うなら今のうちに食っとけ。捨てるだけのもある」


「……はい」


 もう一人の先輩が笑う。


「小野くん、先週すごい勢いで食べてたもんね」


「そんなにでしたか」


「そんなに」


 少し恥ずかしかったが、否定できない。


 隆史は皿を運びながら、隙を見てローストビーフを口に入れた。


 うまい。


 やっぱり、これだ。


 冷めているのに、体の奥のざらつきがすっと引く。


 もう一枚。


 さらにもう一枚。


 ソーセージも食う。


 ハムも食う。


 それでも、今日は少し違った。


 食っているあいだ、胃袋より先に頭が動いてしまう。


 全部ここで食べきるのは無理だ。


 今は落ち着いても、また減る。


 部屋に帰れば、冷蔵庫は弱い。


 財布も軽い。


 だったら――


 その考えが、今度は前より自然に出てきた。


 皿を積む。


 ラップの位置が見える。


 厨房の端に、まとめ用の小さい保存容器があるのも見えた。


 更衣室までの廊下は短い。


 スタッフの出入りはあるが、ずっと誰かが見ているわけじゃない。


 隆史は自分の心臓が少し速くなっているのを感じた。


 やるのか。


 本当に。


 手が少し汗ばんでいる。


「小野、これ下げて」


「はい」


 返事をして皿を持つ。


 そのまま動きながら、視線だけで厨房の流れを見る。


 料理長は奥。


 先輩はシンクの方。


 もう一人はワゴンを押して会場側へ戻った。


 今なら、一瞬だけ死角ができる。


 隆史は皿を置き、自然な動きのふりでラップを引いた。


 ローストビーフを数枚。


 ハムを少し。


 ソーセージを二本。


 ほんの少し。


 ほんの少しだけだ、と自分に言い聞かせる。


 手早く包む。


 制服の内側では無理だ。


 更衣室までは危ない。


 だが、脇の備品棚の下に、自分の作業用バッグを一瞬置いていたことを思い出す。


 そこまで三歩。


 誰も見ていない。


 いや、見ていないはずだ。


 喉が渇く。


 呼吸が浅い。


 隆史は包んだ肉をバッグの脇ポケットへ滑り込ませた。


 すぐに皿へ手を戻す。


 何でもない顔で、次の皿を持つ。


 たったそれだけなのに、背中に汗が出た。


 ばれたかもしれない。


 いや、今のところ誰も何も言っていない。


 料理長も、先輩も、普通に動いている。


 だったら大丈夫か。


 いや、大丈夫なわけがない。


 でも今さら戻せない。


 隆史はそのあともしばらく、必要以上に真面目に皿を運んだ。


 手を止めない。


 視線を泳がせない。


 呼吸だけ整える。


 心臓はずっと早かった。


     ◇


 更衣室でバッグを開いたとき、そこに肉があるのを見て、妙な実感が出た。


 本当に持ってきてしまった。


 ローストビーフ。


 ハム。


 ソーセージ。


 量は多くない。


 でも、部屋へ持って帰るには十分だった。


「……やったのか、俺」


 小さく口に出す。


 うれしいわけじゃない。


 誇らしくもない。


 むしろ、少し引いた。


 なのに、バッグを閉じる手は止まらなかった。


 ホテルを出て、駅まで歩く。


 夜風が冷たい。


 脇ポケットの中身が、やけに重く感じる。


 誰かに呼び止められる気がした。


 後ろから「ちょっと」と声が飛ぶ気がした。


 でも何もなかった。


 そのまま改札を通り、電車に乗り、下宿へ帰る。


 玄関のドアを閉めた瞬間、ようやく息が出た。


「……っは」


 笑ったのか、息を吐いただけなのか、自分でも分からない。


 バッグから肉を出す。


 机の上に並べる。


 たったこれだけなのに、冷蔵庫の中身よりずっと強く見えた。


 隆史はローストビーフを一枚つまんで、口へ入れた。


 うまい。


 やっぱり、これだ。


 ホテルで食ったときと同じように、腹の奥のざらつきが静まる。


 もう一枚。


 ソーセージ。


 ハム。


 止まらない。


「……これ、反則だろ」


 誰に言うでもなくつぶやく。


 金を払っていない。


 見つかっていない。


 部屋で食える。


 体は楽になる。


 条件だけ見れば、あまりにも都合がいい。


 都合がよすぎて、まずい。


 まずいのに、口と手が止まらない。


 その夜、持ち帰った肉はほとんどなくなった。


 少しだけ残して冷蔵庫に入れようと思ったが、結局それも食ってしまった。


 腹の奥がようやく静かになるころには、時計はだいぶ進んでいた。


 ベッドに倒れ込む。


 天井を見る。


「……最悪だな」


 そう言った声に、あまり力はなかった。


 最悪だと思っている。


 でも、助かったのも本当だ。


 その二つが同時にあるのが、自分でも嫌だった。


     ◇


 日曜もホテルのシフトが入っていた。


 朝、目が覚めると、昨日の夜ほどではないが、また少し腹が減っていた。


 冷蔵庫の中には、何も残っていない。


 隆史はしばらく黙って、その空っぽを見ていた。


「……行くか」


 自分に言うようにつぶやく。


 今日は持ち帰らない。


 そう決める。


 昨日は、たまたまだ。


 初回で、ちょっと切羽詰まっていて、頭がおかしくなっていただけだ。


 今日は普通に働く。


 余りはその場で少し食うだけ。


 それで終わり。


 そうやって言い聞かせながら、また鏡の前で顔を作る。


 ホテルへ行く。


 働く。


 視線を浴びる。


 腹が減る。


 肉が出る。


 そこまで来たところで、昨日の「決意」はだいぶ弱くなっていた。


 厨房の流れも、昨日より読める。


 どこで人が切れるかも、どこにラップがあるかも、何が余りやすいかも、少し分かっている。


 知ってしまうと、動きが早くなる。


 その日の隆史は、昨日よりずっと自然に皿を運び、昨日よりずっと自然に余り肉へ目をやり、昨日よりずっと短い迷いでラップを手に取った。


 ローストビーフは少なかった。


 代わりにチキンが残っていた。


 ハムもある。


 ソーセージもある。


 量を見て、包み方まで考えている自分に気づいて、少しだけ嫌になる。


 でも、手は止まらない。


 昨日より上手くできた。


 昨日より怖くなかった。


 それが、いちばん嫌だった。


     ◇


 夜、部屋へ戻ってバッグを開いたとき、隆史はしばらく何も言えなかった。


 昨日より少し多い。


 机の上に並べる。


 肉。


 また、肉だ。


「……慣れてんじゃねえよ」


 自分に向かって言う。


 でも、返事はない。


 あるのは、腹の奥のざらつきだけだった。


 ローストビーフはない。


 今日はチキンが多い。


 それでも十分だった。


 食う。


 噛む。


 飲み込む。


 静まる。


 その繰り返しをしているうちに、罪悪感より先に満足が来る。


 それが、何よりまずかった。


 日曜の夜に持ち帰った肉は、その日のうちにほとんどなくなった。


 部屋には、食い終わったあとの静けさだけが残る。


 ベッドへ倒れ込み、隆史は腕で目を隠した。


 ホテルの仕事はきつい。


 でも、金になる。


 見た目も使える。


 そして、肉もある。


 その全部が、今の自分には都合がよすぎた。


 少しずつ、自分の中の線が薄くなっていく気がする。


 けれど、それを止めるほど強くは、もう腹が空いていなか

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ