第5話 オスカル様を見つけた
その日の朝、隆史は食パンをかじりながら、ぼんやりテレビを見ていた。
芸能ニュースの流れで、舞台特集が始まる。
大階段。拍手。派手な照明。
画面の中で、男役のスターが剣を持って立っていた。
隆史は、口元まで持っていったパンを止めた。
「……こういうのも、あるのか」
普通のイケメンとは違った。
顔だけじゃない。首の角度、目線、肩の開き方まで含めて、一つの完成した形になっている。線は細いのに弱く見えず、むしろ、そう見せるために作られた体みたいだった。
頭の中で、勝手に分析が始まる。
鼻筋はただ高ければいいわけじゃない。
顎は尖らせるんじゃなく、首へ流す。
目元は大きさじゃなく、まぶたと目尻の置き方だ。
重心は少し上。首元は細く長く見せる。
「……できるかな」
つぶやいた瞬間には、もう落ち着かなくなっていた。
隆史は立ち上がる。洗面所へ向かう。鏡の前に立つ。
昨日、少しだけ整えた自分の顔がそこにあった。あれでも確かに反応はあった。女子の視線が変わった。松岡も違和感を覚えていた。
でも、今日はその続きじゃない。
別の型を作る。
ちゃんと、別人になる。
隆史は鼻筋へ指を当てた。
「高くするんじゃない。流れを通す」
ぐに、と形が動く。
顎へ触れる。
「ここは削るんじゃなくて、落とす感じ……」
正面ではなく、斜めから見たときの線を意識する。
目元。眉。頬。口元。
少しずつ。少しずつ。
パーツ単体ではなく、全体の収まりを見ながら動かしていく。
「首も……少しだけ」
そこで一度、手が止まった。
顔だけでは足りない。画面の中のあの印象は、首元の見え方まで入っていた。
昨日までなら、そこはやらなかった。
でも結局、やる。
喉元へ手を当てる。
鎖骨の位置。首筋の流れ。肩とのつながり。
ぞわ、と背中が粟立った。
「っ……」
鏡に片手をつき、息を詰める。
痛いわけじゃない。
ただ、自分の体が内側から組み替わっていく感じには、どうしても慣れない。
数秒後、隆史はゆっくり顔を上げた。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
そこにいたのは、見慣れない男だった。
元の顔の部品は残っている。
なのに印象がまるで違う。
鼻筋はまっすぐ通り、頬から顎へ落ちる線がはっきりしている。目元には少しだけ強さがあり、首が長く見えるせいで、ただ立っているだけでも普段の自分とは別の生き物みたいだった。
大学の廊下より、舞台袖の方が似合いそうな顔。
「宝塚じゃん……」
自分で言って、少し笑う。
だがその笑いは、すぐに消えた。
腹の奥が、ぐっと縮んだからだ。
「……っ」
来た。
昨日より明らかにきつい。
胃が空っぽというより、体のどこかを削って材料に回した感じがする。頭は妙に冴えているのに、内側だけが獣みたいに騒ぎ始めた。
肉。
頭に浮かぶのは、その一語だけだった。
「いやいやいや」
言いながら台所へ向かう。
冷蔵庫を開ける。
卵。豆腐。ヨーグルト。食パン。残り物。
「違う」
口から自然に出た。
ハムをつまんで食う。
塩気はある。肉っぽさもある。だが、全然足りない。
「足りねえ……」
もう一枚食う。
さらに食う。
それでも駄目だ。
欲しいのは、もっとはっきり肉だと分かる肉だった。焼いたやつ。油のあるやつ。噛んだ瞬間に脳が納得するやつ。
隆史は財布をつかんだ。
「……買うしかねえ」
◇
コンビニ横のベンチで、隆史は唐揚げを頬張っていた。
熱い。うまい。
肉が腹に落ちるたび、さっきまでの狂ったような飢えが少しずつ引いていく。
「人体いじると、こうなるのか……」
小さくつぶやく。
顔だけではない。首も、肩の見え方もいじった。
そのぶん、体が露骨に肉を求めてくる。
これは対策がいる。
今後も使うなら絶対にいる。
隆史は追加で、サラダチキンとハンバーグ弁当と肉まんを買った。ついでにおにぎりと牛乳も抱え、ようやく部屋へ戻る。
机の上に食い物を並べる。
「……部活かよ」
自分で言って、少し笑った。
だが、こうして並べてみると笑えなかった。これがないと危ない。今の顔は、金も腹も食う。
ノートを開く。
記録した方がいい気がした。
ページの上に書く。
造形メモ
・顔を少し整える → 空腹(中)
・顔+首+肩 → 空腹(大)
・人体をいじると肉に強く寄る
・事前に食料が必要
書いてみると、少し落ち着く。
次に問題なのは学校だ。
この顔で松岡に会うのはまずい。昨日の段階ですら、あいつは「何か違う」と言った。今の顔を正面から見せたら、そもそも小野隆史だと分からないかもしれない。
隆史はスマホを取り出し、松岡への画面を開いた。少し考えてから打つ。
『悪い、ちょっと体調崩した。しばらく授業きついかも』
送信。
これでいい。
本当に学校へ行かないわけじゃない。ただ、小野隆史としては出ないだけだ。
ノートにさらに書き足す。
学校での注意
・松岡は避ける
・人の多い授業で様子を見る
・女の子の反応を見る
「……まあ、そこ大事だよな」
認めると、少し気分が良くなった。
結局、知りたいのはそこだ。
どこまで作れば、人は振り向くのか。
どこまで寄せれば、世界の反応が変わるのか。
新しい行に書く。
宝塚隆史 仮設計
顔
・鼻筋を通す
・顎を流す
・目元は強め、でもきつすぎない
体
・首を長く見せる
・肩をすっきり
・背筋を伸ばす
服
・首元が出る
・少し細身
・普通すぎない
書き終えてから、鏡を見る。
そこにはまだ、さっき作った顔がいた。
少し現実感のない顔。普段の自分とはまるで違うのに、たしかに自分の手で作った顔。
「よし」
隆史は小さく言う。
「明日、学校行くか」
小野隆史としてではなく。
別の誰かとして。
◇
四コマ目が終わっても、高田翔子はすぐには立ち上がらなかった。
教室の空気は一気に昼休みへ切り替わっている。椅子を引く音。筆箱をしまう音。誰かが食堂へ行こうと声をかける。いつもと同じ、少しだけ騒がしい時間だ。
その中で、翔子だけがノートの上に手を置いたまま、廊下の方を見ていた。
男が一人、廊下の先に立っていた。
見覚えがない。
少なくとも、翔子の記憶にはない顔だった。
背が高い。
肩幅は広すぎず、細い。ただ、弱そうには見えない。首から肩へ落ちる線が妙にはっきりしていて、立っているだけなのに形が目に入る。
横顔が見えた。
鼻筋がすっと通っている。頬から顎へ落ちる線が曖昧じゃない。目元も派手ではないのに、視線が引っかかる。
(誰)
同じ大学なら、一度くらい見たことがあってもよさそうだった。
ああいう顔は、見たら残る。なのに記憶にない。
他学部か。外部の人か。
そう思いかけて、首から下がった学生証に気づく。
(うちの学生なんだ)
でも、やっぱり見た覚えがない。
その男は、そこで誰かを待っている様子でもなく、ふいに歩き出した。
それを見た瞬間、翔子の頭に言葉が浮かんだ。
(宝塚だ)
自分でも変な連想だと思った。
けれど、それ以外に近い言葉が出てこない。
男らしい顔、というのではない。
かといって女っぽいわけでもない。
線は細いのに弱く見えず、むしろ人の目を引く。舞台の上でライトを浴びたら、そのまま役になるような顔だ。
(髪が黒いからアンドレっぽいのに、顔立ちは……)
(いや、違う)
(あれはオスカル様だ)
そこまで思ってから、翔子は少しだけ引いた。
(何考えてるの私)
でも、そう見えてしまった以上、もう普通の大学生には戻らなかった。
男は教室の前を通り過ぎる。
翔子はノートを鞄にしまい、立ち上がった。
別に、変な意味じゃない。
ただ、気になるだけだ。
人物デッサンのときでもそうだ。顔全部が気になるというより、どこか一か所、どうしてももう少し見たくなるときがある。そういうものは、放っておくと頭に残り続ける。
だから確認したいだけ。
たぶん。
◇
男は正門を出て、駅前の方へ向かった。
翔子は少し距離を空けて、その後ろを歩く。
我ながらだいぶ怪しい。
でも、ここまで来ると引き返すのも変な気がした。
外へ出ると、さっきよりよく見えた。
やっぱり顔は目立つ。
鼻筋。目元。顎の線。どこか一つが派手なのではなく、全部の置き方がうまい感じがする。
(作ったみたいな顔)
思ってから、自分で変な表現だと思った。
でもそう見えた。
そこでようやく、別の違和感に気づく。
(服が違う)
顔に対して、服が普通すぎる。
どこにでもあるようなパーカー。色も形も無難だ。下のパンツも悪くはないが、ただの大学生で終わっている。
その「普通」が、かえって合っていない。
(違う)
頭の中で、何かがはっきりそう言った。
(その顔に、その服は違う)
男は繁華街のブティックの前で足を止めた。
ショーウィンドウの中には、白いシャツ、細身のパンツ、少し古風な雰囲気のジャケットが並んでいる。
翔子は通りの向こう側で立ち止まり、ガラス越しに男を見る。
男は店に入らない。
ただ、服を見ていた。
値札やブランドを見る感じではない。もっと、線を追っているような見方だった。首元。肩。袖。全体の落ち方。
(……何その見方)
服を見ているというより、形を拾っているみたいだった。
翔子は腕を組む。
(違う)
(それじゃない)
(その隣)
(白いの)
もちろん口には出さない。
出さないが、頭の中では完全に指示を出していた。
(白いシャツ)
(袖に少し広がりがあるやつ)
(首元がもう少し見える方)
(あなたにはそっち)
パーカーだと首元が死ぬ。
顔の線が強いのに、服が全部鈍くしている。
もっと首が見える方がいい。
できれば少しだけ非日常感がある方がいい。
フリルまではいかなくても、そういう気配のある白いシャツ。
黒い細身のパンツ。
少しだけ舞台に寄った服。
(だってオスカル様だし)
そこまで考えて、翔子はまた自分で引いた。
(いや本当に何なの私)
男が、ショーウィンドウの前で少し首を傾けた。
その角度まで妙に様になる。
少し腹が立つくらいだった。
そのとき、男がふいに振り返った。
翔子は固まった。
目が合った。
一瞬だった。
男はすぐに視線を外したが、見られたことは分かった。
(やばい)
さすがに怪しまれたかもしれない。
けれど男は何も言わず、また服へ視線を戻した。露骨に不審がる様子もない。
翔子はそこで小さく息を吐く。
(……大丈夫)
たぶん。
いや、たぶん少しは怪しまれている。けれど追い払われたわけではない。
それなら、もう少しだけ見ていてもいい気がした。
◇
(ついてきてるな)
ウィンドウに映る気配で、隆史はそう確信した。
大学を出たあたりから何となく後ろにいる気はしていたが、ここまで同じ距離で来られるとさすがに分かる。
振り返ったときに見えたのは、メガネをかけた地味めの女の子だった。服もおとなしい。いかにも目立たない大学生、という感じだ。
ただ、目だけが違った。
人を見る目じゃない。
何かを観察する目だった。
「……何だあれ」
小さくつぶやく。
話しかけてくるわけでもない。近づいてくるわけでもない。ただ見ている。しかも、ちらちらではなく、ちゃんと見ている。
隆史はウィンドウの中の服へ視線を戻した。
白いシャツ。
少し開いた首元。
袖の広がり。
黒いパンツ。
「やっぱ、こういうのか」
今日の顔には、いつもの服が弱い。
顔だけ先に出来上がってしまって、全体のバランスが取れていない。フィギュアで言えば、頭部だけ原型師が本気を出して、胴体と塗装が量産品のまま残っている感じだ。
それはそれで面白い。
でも、やっぱり気になる。
今の顔に必要なのは、首の線を殺さない服だ。肩の落ち方がきれいに見えて、縦の印象が出る服。派手すぎず、でも普通の大学生では終わらないもの。
「人間も同じか」
思わず口に出る。
顔だけでは終わらない。服も、立ち方も、歩き方も含めて一つの見え方になる。
そこまで考えると、急に面白くなる。
フィギュアと一緒だ。パーツ単体ではなく、全体の収まりを見る。
そのときだった。
腹の奥が、ぐう、と鈍く鳴った。
「……あ」
来た。
朝に押し込んだ肉の効果が切れかけている。さっきまでは顔や服のことを考えていて誤魔化せていたが、止まった途端に意識が全部そっちへ向いた。
肉。
その一語が頭に浮かぶ。
焼肉。ハンバーグ。唐揚げ。
とにかく、肉として分かりやすい肉。
「先に補給だな……」
服を見るのは後だ。
今の状態で粘ると危ない。
隆史は店の前を離れ、駅前のコンビニへ向かった。
後ろの気配も、少し遅れて動いた気がした。
◇
家に帰ってからも、翔子は少し落ち着かなかった。
鞄からスケッチブックを取り出す。
小さいころからの癖だ。気になるものを見た日は、帰ってから手が動く。
鉛筆を持つ。
鼻筋。顎の線。目元。
数分後、ページの中にあの横顔がいた。
「……何してるんだろ、私」
小さくつぶやく。
でも手は止まらなかった。
首を少し長く。
目元をもう少し強く。
あの、舞台の上に立ちそうな感じ。
描き終えてから、翔子はページを見つめた。
やっぱり変だ。
あんな人、今まで大学で見たことがない。
突然現れて、普通の服を着ていて、でも歩いているだけで目が引っかかった。
翔子はスケッチブックの余白に、小さく書いた。
仮称 オスカル様
書いてから少し恥ずかしくなる。
でも消さなかった。
たぶん、明日見たら後悔する。
でも今は、これでいい気がした。
スケッチブックを閉じる。
少しだけ迷って、それから決める。
(明日も探そう)
別に、変な意味じゃない。
ただ、気になるだけだ。
それだけ。
……たぶん。




