第2話 魔王がくれたのは、ろくでもない力だった
朝から、ずっと落ち着かなかった。
大学へ行く支度をしても、講義に出ても、頭の隅にあるのは昨夜の夢のことばかりだった。
巨大な魔王。
赤く光る魔法陣。
鳥、豚、羊、牛、二人分の人間の血。
そして――
ベントラ、ベントラ、魔王様。
「……ださすぎるだろ」
経済学の講義中、ノートの端に意味もなく線を引きながら、小さくつぶやく。
前の席のやつが少しだけ振り返った。
俺は何でもない顔をして、教授のほうを向く。
だが頭には、別のことしか入っていない。
夢だけならいい。
問題は、机の上に残っていた赤い粉だ。
あれは夢じゃない。
今朝、ちゃんと見た。
ティッシュで包んで、まだ机の端に置いてある。
講義なんてまるで頭に入らなかった。
需要曲線も市場均衡も、今日は全部どうでもよかった。
昼休みになるなり、俺はスマホを取り出して松岡にメッセージを送った。
『今日、来い』
『命令かよ』
『大事』
『女?』
『違う』
『じゃあ行かない』
『焼肉』
『どこ』
こいつは食い物が絡むと異様に早い。
結局、学食裏のベンチで落ち合うことになった。
松岡は缶コーヒーを片手に来て、俺の顔を見るなり言った。
「で? 焼肉って何」
「まず人の話を聞く姿勢を持て」
「焼肉って書いたやつが何言ってんだよ」
それはそうだった。
俺は周りを見て、人が少ないのを確かめてから言う。
「……昨日、変な夢見た」
「帰るわ」
「待てって」
「焼肉で呼び出しといてオカルト相談はない」
「夢だけじゃないんだよ」
松岡は露骨に面倒くさそうな顔をしたが、俺の顔を見て少しだけ真面目になった。
「何」
俺は昨夜のことを、そのまま話した。
魔王フィギュアを買ったこと。
夢に巨大な魔王が出てきたこと。
儀式の方法を教えられたこと。
必要なもの。
呪文。
百回。
そして、朝になったら机の上に赤い粉が残っていたこと。
話しながら、自分でも頭がおかしいと思う。
でも松岡は途中で吹き出した。
「ベントラ、ベントラ、魔王様?」
「そこだけ拾うな」
「いや無理だろ。急に昭和のニセ呪術なんだよ」
「俺もそう思った」
「で、焼肉は?」
「最後まで聞けよ」
赤い粉のことまで話すと、松岡は少し黙った。
「……粉って何の粉」
「分からん」
「触った?」
「触ってない」
「舐めた?」
「舐めるわけないだろ」
「じゃあ何で俺を呼んだんだよ」
俺は一瞬、言いづらくなる。
でも、ここまで言ったらもう同じだ。
「今夜、やってみようと思う」
「何を」
「儀式」
松岡は数秒、完全に無言になった。
それから缶コーヒーを見下ろして言う。
「お前、寝不足?」
「そうじゃなくて」
「いや寝不足だろ。あと油吸いすぎ」
「やめろよ。自分でも分かってるんだから」
「分かってるならやるな」
まっとうだった。
客観的に見ればその通りだ。
夢を真に受けて儀式をする大学生なんて、だいぶ終わっている。
でも、それでも気になった。
「……ちょっとだけ試したいんだよ」
「人の血いるんだろ」
「少しでいいなら、指刺せば済むじゃん」
「済まねえよ」
松岡は本気で嫌そうな顔をした。
「しかも鳥、豚、羊、牛って何だよ。焼肉の注文か?」
その言い方で、俺の頭に一つ浮かぶ。
「……焼肉でよくないか?」
「は?」
「牛、豚、鶏あるだろ」
「羊は?」
「ラム出す店ある」
「お前、そんなノリで儀式やる気か?」
最低だと思う。
でも妙に筋は通っていた。
松岡は缶を握ったまま、呆れた目をした。
「で、二人分の人間の血って」
「俺と、お前」
「俺を数に入れるな」
「一番仲いいだろ」
「その理由で生け贄候補にされるの最悪なんだけど」
「生け贄じゃないって。たぶん一滴とかだろ」
「その“たぶん”が嫌なんだよ」
それでも、こいつは完全には帰らない。
最後の最後で、面白そうだと思ったことを捨てきれない。
俺はそこを押した。
「終わったら焼肉、おごる」
「おごれないだろ、お前」
「一回だけなら何とかする」
「場所は?」
「近所の公園」
「最悪だな」
「夜なら人いないし」
「もっと最悪」
松岡は長く息を吐いて、それから言った。
「……ほんとに焼肉おごるなら、付き合ってやる」
「マジ?」
「ただし、何も起きなかったら、お前が全部片づけろ」
「分かった」
「あと、変なことになったら俺は逃げる」
「俺も逃げる」
「だろうな」
松岡はようやく少し笑った。
「何時」
「十一時半、俺の部屋集合」
「大学生のすることじゃねえな」
「今さらだろ」
◇
午後の授業はほとんど記憶にない。
頭の中は、魔法陣の線でいっぱいだった。
夢で見ただけのはずなのに、ノートの端に試しに描いてみると、驚くほど手が止まらなかった。円の位置、交差する線、置くものの順番。前から知っていた図形を思い出しているみたいだった。
自分で描いていて、少し気味が悪い。
授業が終わると、俺はそのままスーパーを何軒か回った。
鶏肉。
豚肉。
牛肉。
羊は少し探したが、駅前のちょっと高いスーパーに冷凍のラムがあった。値段を見て少し迷ったが、ここまで来てやめるのも気持ち悪い。
買い物袋の中身は、完全に焼肉の買い出しだった。
これで魔王の儀式をするつもりだというのが、我ながらどうかしている。
部屋へ戻ると、まず机の上の魔王フィギュアを見た。
昼の光の中では、ただの古いフィギュアだ。
台座の下の赤い粉は、今朝ティッシュで包んだまま机の端にある。
「……お前のせいで、今日は散々だぞ」
ぼやいても、返事はない。
でも、じっと見ていると、ただの置物より少しだけ“待っている”感じがあった。
松岡が来たのは十一時二十分だった。
「うわ、本当に肉ある」
部屋に入るなり、買い物袋を見て最初にそれを言う。
「まずそこかよ」
「ラムまで買ってるじゃん。やる気ありすぎだろ」
「お前が牛多めとか言うからだろ」
「それは儀式のあとだ」
松岡は机の上のフィギュアを見て、ふうん、と近づいた。
「これか。三百円の魔王」
「どう?」
「思ったよりしょぼい」
「言うな」
「でも、ちょっと嫌だな」
最後の一言だけ、声が少し落ちた。
「何が」
「いや……見られてる感じする」
俺は黙った。
同じことを思っていたからだ。
松岡もそれ以上は言わず、視線を外した。
「で、どこでやる」
「公園」
「本当に行くのか」
「ここまで来てやめる?」
「それはそう」
近所の小さな公園は、夜になるとほとんど人がいない。ベンチとブランコと砂場だけの、味気ない場所だ。
俺たちはレジャーシート、肉、紙皿、ライター、紙コップ、ペットボトルの水を袋に詰めた。
どう見ても深夜の焼肉セットだった。
ただ一つ違うのは、そこに魔王フィギュアが入っていることと、俺のポケットにカッターとばんそうこうが入っていることだった。
公園には誰もいなかった。
街灯が二本だけ。
滑り台の影が妙に黒い。
遠くで犬が一回吠えた。
俺は夢で見た図形を思い出しながら、砂の上に白いチョークで魔法陣を描いた。
驚くほど手が迷わない。
円を引いて、線を重ね、四方に小さな印を置く。描いているうちに、松岡が後ろで言った。
「うわ」
「何」
「お前、気持ち悪いくらいスラスラ描くな」
「俺もそう思ってる」
描き終えた陣の中央に魔王フィギュアを置く。
それから四方に肉を並べた。
鶏、豚、羊、牛。
夜気にさらされた生肉は、どう見ても儀式というより悪ふざけの焼肉だった。
「本当にこれでいいのか」
「夢ではこうだった」
「夢を根拠にするなよ」
言いながらも、松岡はちゃんと付き合っている。
俺はポケットからカッターを出した。
「うわ、マジでやるのか」
「ほんの少しでいい」
「先にお前な」
「分かってる」
左手の人差し指を浅く切る。
思ったより痛い。
「っ……」
「ざっこ」
「うるせえ」
にじんだ血を、魔法陣の線へ一滴落とす。
赤がチョークの白ににじむ。
何も起きない。
当然だ。
「次、お前」
「嫌だなあ」
「焼肉」
「その言い方、割に合わないんだよ」
文句を言いながらも、松岡は自分で指を切った。
「痛っ。最悪」
「大げさ」
「お前が平気そうな顔してるだけだ」
松岡の血も、陣の別の場所に落ちる。
その瞬間だった。
風が、すっとやんだ。
さっきまで揺れていた木の葉が止まる。
遠くの車の音も、急に薄くなった気がした。
俺と松岡は同時に顔を上げる。
「……今」
「何か、静かじゃないか」
嫌な沈黙が落ちる。
でも、そこでやめる気にはなれなかった。
ここまで来て、何も起きないほうが逆に気持ち悪い。
俺は喉を湿らせ、小さく息を吸った。
「ベントラ、ベントラ、魔王様」
言ってしまうと、やっぱり間抜けだった。
松岡が吹き出しかける。
でも笑い切らない。
空気が変わっているのを、こいつも感じているからだ。
「ベントラ、ベントラ、魔王様」
二回。
三回。
四回。
最初のうちは、自分でも馬鹿みたいだと思った。深夜の公園で、大学生が魔王フィギュアを前に変な呪文を唱えている。どこから見ても終わっている。
でも、十回を過ぎたあたりから気分が変わった。
声を出すたび、胸の奥が少しずつ熱くなる。
足元の砂が、ほんのわずかに震えている気もした。
十五回。
二十回。
松岡が何か言った。
聞き取れない。
三十回。
四十回。
公園の街灯が一度だけ明滅した。
五十回。
そこで、松岡の返事が途切れていることに気づいた。
「……松岡?」
横を見る。
動いていない。
さっきまで腕を組んで立っていた姿勢のまま、ぴたりと止まっている。まばたきもしない。呼吸しているのかどうかも分からなかった。
「おい」
心臓が跳ねる。
近づこうとした。
でも、足が前へ出ない。
いや、出せない。
何かが、俺を魔法陣の前へ縫いつけていた。
頭の中で、夢の声がよみがえる。
――百回だ。
喉が乾く。
逃げろ、と本能が言う。
でも、その本能より少しだけ強く、最後まで聞きたいと思っている自分がいた。
六十回。
七十回。
言うたびに、フィギュアの目が赤く深くなっていく。
八十回。
足元の影が揺れた。
風はない。
街灯も動いていない。
なのに、俺の影だけが水面みたいに波打っている。
九十回。
耳鳴りがした。
違う。
耳鳴りじゃない。
誰かが笑っている。
地面の下で。
九十五回。
九十六回。
九十七回。
声が震える。
でも、止まらない。
九十八回。
九十九回。
そして――
「ベントラ、ベントラ、魔王様」
百回目を言い終えた瞬間、公園の音が全部消えた。
遠くの車も、風も、犬の鳴き声も。
何もかもが薄い膜の向こうへ押しやられたみたいに遠のく。
魔法陣の中央で、魔王フィギュアが微かに浮いた。
「――は?」
声にならない。
その小さな像の下から、俺の影がゆっくり盛り上がり始める。
液体みたいな黒だった。
地面に落ちているはずの影が厚みを持って立ち上がっていく。角の形。肩の広がり。杖の先。人間じゃない輪郭が、闇の中から一つずつ生えてくる。
目の前の空気が重くなる。
息がしづらい。
松岡は動かない。
焼肉用に並べた肉は、いつのまにか皿ごと消えていた。
黒い影はなおも膨らみ、ついに俺の頭より高くなった。
角が街灯を隠す。
赤い目が、闇の中でゆっくり開いた。
そして、頭の奥を直接叩くような声が響く。
「よくぞ唱えきった、小野隆史」
俺は、一歩も動けなかった。
目の前にいたのは、三百円で買ったはずの魔王だった。




