第9話:一人で頑張りすぎな隣人と、踏み込んだ境界線
学校を欠席した冬月さん。昨夜、限界を超えて筆を走らせた彼女を待っていたのは、容赦ない高熱でした。
それでも「氷の令嬢」は、誰にも助けを求めず、一人で病院へと向かいます。
一方、学校で彼女の描いたイラストに心奪われた朝陽くんは、胸騒ぎを抱えて彼女の部屋を訪ねますが……。
「……冬月さん、休みか」
二時間目の休み時間。僕は無意識に隣のクラスの空席を見つめていた。
いつも凛と座っているはずの彼女がいない。ただそれだけで、教室の空気が少しだけ薄くなったような気がする。
「おい朝陽、これ知ってる?昨日発売のラノベ。」
大輝が一冊の本を差し出してきた。
『溶ける氷のその先に』。
表紙に描かれた少女の瞳を見た瞬間、僕は言葉を失った。
(……なんだ、この絵。……すごく綺麗だ。)
サブカルチャーに疎い僕でも、その絵に込められた熱量は伝わってきた。
どこか懐かしくて、今の僕の不安をそっと包み込んでくれるような、不思議な既視感。
「……知らないな。……いいな、この絵。流行ってるのか?」
大輝は得意げに。
「やっぱり知らなかったか!料理本も良いけど、こういうのもいいもんだぞ!」
「そうそう、瀬戸くん! 今回の『Fuyu』さんのイラスト、本当に凄いの」
紗季さんが目を輝かせて表紙を指差す。
「……うん。……いいな、これ。僕も読んでみたい」
「おっ、珍しいじゃん! じゃあ貸してやるよ、読み終わったら感想聞かせろよな!」
僕は、吸い寄せられるようにその本を鞄にしまった。
放課後。部活もない僕は、スーパーで買い出しをして真っ直ぐにアパートへ帰った。
作ったのは、鶏出汁をしっかり効かせた、卵と三つ葉の雑炊。
(……食欲がなくても、これなら食べられるかな)
体が弱っている時に、僕がいつも自分に作ってきた「一番落ち着く味」だ。
いつもの夕食の時間。
けれど、五分経ち、十分経っても、インターホンは鳴らない。
窓の外では、昨日からの雨がまだしとしとと降り続いている。
「……様子、見に行こう。お盆、まだ返しに来てないし」
僕はラップをした雑炊のお椀を手に、部屋を出た。
彼女の部屋のインターホンを鳴らす。
――ピンポーン。
返事はない。ただ、ドアの隙間から、ビニール袋が擦れるようなカサリという音が微かに聞こえた。
「冬月さん? 瀬戸です……入るよ?」
恐る恐るドアノブに手をかける。
カチャリ、と軽い音を立ててドアが開いた。
鍵は、かかっていなかった。
「……失礼、します。……冬月さん?」
暗い玄関に足を踏み入れる。
たたきには、濡れたままの彼女のローファーが乱雑に脱ぎ捨てられていた。
そして、そのすぐそばに――。
白いレジ袋からこぼれ落ちた、薬の袋。
そして『〇〇内科クリニック』と書かれた領収書が、床に散らばっていた。
「……っ! 病院、行ってたのか……一人で」
廊下を進んだ先。
リビングの入り口で、彼女は力尽きたように倒れていた。
制服のまま、病院でもらってきたのであろう薬の袋を握りしめて。
「冬月さん! おい、しっかりしろ!」
駆け寄り、その肩を抱き起こす。
触れた体は、驚くほどの熱を帯びていた。
高熱の中、一人で着替えて、一人で歩いて病院まで行って、誰にも頼らずに帰ってきたんだ。
「……あ……、せと……くん……?」
虚ろな瞳が、わずかに僕を捉える。
「……大丈夫……。お薬、もらってきたから……。……一人で、できるわ……」
こんな状態になってもなお、彼女は「氷の令嬢」の鎧を纏おうとしていた。
震える声で、必死に自分を保とうとしている。
「……何が『一人でできる』だよ。鍵も閉め忘れるくらい、フラフラじゃないか」
僕は、彼女の冷え切った指先から薬の袋をそっと取り上げた。
ふと、彼女が倒れていたすぐそばの机が目に入る。
そこには、僕が今日学校で見たあの「ラノベ」のイラストに似た、繊細な筆致の描きかけのデータが、液晶タブレットに映し出されていた。
「…………」
彼女が何を命懸けで守り、何を一人で背負ってきたのか。
その一部を、僕は知ってしまった。
「非常時だ、文句はあとで聞く。」
僕は彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
これまで「深入りしない」と決めていたはずの境界線を、僕は自らの足で踏み越えていた。
お読みいただきありがとうございました!
一人で病院へ行き、限界を超えて帰ってきた冬月さん。
ついに朝陽くんが彼女の部屋に踏み込み、看病が始まります。




