第8話:シチューの余韻と、静かな予感
第7話でシチューを囲み、少しだけ心の距離が縮まった二人。
でも、その余韻に浸る暇もなく、夜はそれぞれの色に染まっていきます。
自分の「変化」に戸惑う朝陽くんと、限界まで自分を追い込む冬月さん。
二人の部屋を隔てる壁の向こう側で、静かに、でも確実に何かが動き始める回です。
Side:瀬戸 朝陽
冬月さんが帰り、玄関の鍵が閉まる音が響く。
一人になった途端、部屋の温度が数度下がったような錯覚に陥った。
「……さて。片付け、しちゃうか」
彼女が座っていた椅子を片付け、テーブルを拭く。
さっきまでそこに、あの「氷の令嬢」が座って、シチューを食べて、頬を赤くしていた。
……意識しないなんて、無理だ。
僕は熱くなった顔を冷ますように、作業的に洗い物を済ませた。
彼女が夜通し何をそんなに切り詰めて頑張っているのか、今の僕には知る由もない。
でも、さっき僕の目の前でシチューを啜っていた彼女は、学校で『令嬢』なんて呼ばれているのが嘘みたいに、今にも壊れてしまいそうに脆く見えた。
(……あんなにフラフラになるまで、何を頑張ってるんだよ)
最後に彼女が漏らした「瀬戸くんのご飯は、ズルいわね」という言葉。
あれは、ただの冗談には聞こえなかった。
まるで、張り詰めていた何かが限界まで来ていて、僕のご飯で辛うじて繋ぎ止めているような……そんな危うさ。
せっかく僕のご飯を食べてくれても、それ以上に命を削って何かを成そうとしているような、そんな危うさが、どうしても頭から離れなかったんだ。
隣の部屋から物音は聞こえない。
窓を叩く雨音だけが、僕のざわつく心を静かに急かしているようだった。
2. Side:冬月 凛
自室のドアを閉めた瞬間、私はその場にへなへなと座り込んだ。
「…………熱い」
顔が、耳が、火を吹いたみたいに熱い。
でも、嫌な熱じゃない。胃の奥からじんわりと体中に栄養が巡っていくような、心地よい充足感。
『お菓子、すごく美味しかった。あんなガレット初めて食べたよ。……ありがとう』
瀬戸くんが言ってくれた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
お世辞じゃない。料理に真剣な彼が、私の選んだ物を認めてくれた。
私のセンスが全否定されなかったことに、言葉にできないほどの救いを感じていた。
私は這うようにして立ち上がり、液晶タブレットの電源を入れた。
プロのイラストレーター『Fuyu』として、私は常に結果を求められる。
いつもなら、この時間は眠気と空腹で指先が凍りつくはずなのに。
「……描ける。……今の私、無敵だ」
不思議と、指先が軽い。
お腹の底に残っているシチューの温かさが、そのまま創作のエネルギーに変換されていく。
私は、最新話のキャラクターの「口元」を描き直した。
さっき、瀬戸くんの前で緩んでしまったかもしれない、だらしない自分の口元。
幸せで、安心していて、世界で一番温かい場所にいるような……今の私なら完璧に理解できる、そんな「幸せ」の形。
「……終わった」
朝方。最後のデータを納品し終えた瞬間、全身から力が抜けた。
達成感と同時に、これまでシチューの温かさで誤魔化していた疲労が、一気に津波となって押し寄せてくる。
「……あ。……これ……ダメなやつ……」
一度は玄関へ向かおうとしたけれど、膝に力が入らない。
目の前がチカチカする。頭が、さっきとは違う種類の熱を帯び始めているのが分かった。
(……少しだけ。……一瞬だけ、寝て、病院行かなきゃ……)
私はベッドに辿り着くことさえできず、そのまま柔らかな絨毯の上へ倒れ込んだ。
意識が急速に遠のいていく。
最後に頭をよぎったのは、明日もきっと届くであろう、あの温かい湯気の匂いだった。
お読みいただきありがとうございました!
第8話は、シチューを食べた後の、二人の静かな夜の心境を描きました。
朝陽くんは「一人の女の子」としての心配を募らせ、冬月さんは限界まで走り抜けた後の、深い眠りの中へ。
雨音に急かされるような朝陽くんの胸騒ぎは、一体何を意味するのでしょうか。
このまま、何事もなく穏やかな朝が来ればいいのですが……。




