第5話:お菓子の感想と、揺れる境界線
前回のレモンチキン、美味しそうでしたね。
今回は、冬月さんが勇気を出して買ってきた「お礼のお菓子」が、朝陽くんの胃袋と心を刺激します。
そして、一度「一緒に食べる温かさ」を知ってしまった氷の令嬢は、今の『テイクアウト方式』に、実はちょっとだけ……?
今夜のメニューは、雨の日にぴったりの温かい『クリームシチュー』です!
冬月さんからもらった焼き菓子――ガレット・ブルトンヌを、僕は朝食代わりに一口かじった。
「……うわ、すごい」
口の中でホロホロと崩れる生地。それと同時に、これでもかというほど贅沢なバターの香りが鼻を抜ける。
ただ高いだけじゃない。素材の良さを最大限に引き出した、「職人の仕事」だ。
こんなに良いものを、親子丼のお礼に選んでくれた彼女の律儀さに、少しだけ背筋が伸びる思いがした。
学校では、大輝と紗季さんが「冬月さん、今日はいつもより機嫌良さそうじゃない?」なんて噂話をしていたけれど、僕はあえて輪に入らなかった。
隣のクラスから時折聞こえる彼女の凛とした声に、昨夜の少し震える指先を思い出して、落ち着かない気分になる。
僕は、ただの隣人だ。
美味しいものを共有して、それでおしまい。深入りはしない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
夕方。雨はまだ降り続いていた。
どんよりとした空気に包まれると、人は温もりを求めるらしい。
今日の献立は、『鶏肉と冬野菜のクリームシチュー』。
市販のルーは使わない。バターで小麦粉をじっくり炒め、牛乳を少しずつ加えてダマにならないよう丁寧に伸ばしていく。
ゴロゴロと大きめに切った鶏肉、ジャガイモ、人参。隠し味に少しの白味噌を溶かし入れると、コクがぐんと深まる。
コトコトと鍋が鳴り、白い湯気がキッチンを優しく包む。
これをお盆に乗せて渡そうとした、その時。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
「……はい」
「……こんばんは。お皿、返しに来ました」
ドアを開けると、そこには通学カバンを重そうに抱え、肩を少し濡らした冬月さんが立っていた。
昨日より、さらに疲れ果てているように見える。
「あ、うん。……あ、そうだ。冬月さん」
「……? なに、瀬戸くん」
「お菓子、すごく美味しかった。バターの香りが良くて、あんなガレット初めて食べたよ。……ありがとう」
僕がそう伝えると、冬月さんは一瞬、呆然としたように目を見開いた。
それから、白磁のような頬が、林檎みたいにじわじわと赤く染まっていく。
「……、……そう。……喜んでくれたなら、良かったわ」
俯く彼女の、耳の先まで真っ赤なのが見えて、僕の心臓が不規則な音を立てた。
いけない。ここで会話を広げてはいけない。
「……はい、今日の分。クリームシチュー。温かいうちに食べて」
「……。……ええ。ありがとう」
いつもなら、ここでお盆を受け取って「おやすみなさい」で終わるはずだった。
けれど、今日、彼女は動かなかった。
お盆の両端をぎゅっと握ったまま、僕の後ろ――オレンジ色の明かりが灯るリビングと、シチューの匂いが漂うキッチンを、じーっと見つめている。
「……冬月さん?」
「…………。……瀬戸くんの部屋、あったかそう」
ポツリと、彼女が呟いた。
その声は、雨の音に消えてしまいそうなくらい小さくて、ひどく寂しそうだった。
「……廊下、ちょっと冷えるしな」
「……うん。……昨日、一人で食べて思ったの。……瀬戸くんの部屋で食べた方が、ずっと美味しかったなって」
氷の令嬢と呼ばれ、誰も寄せ付けないはずの彼女が。
今、僕の目の前で、捨てられた子猫のような瞳で僕を見上げている。
「中で食べたい」とは言わない。でも、全身からそんなオーラが溢れ出していた。
(……やばい。断りづらい……)
僕の引いた境界線が、彼女の寂しげな一言で、今にも決壊しそうになる。
彼女が抱えている大きなバッグ。きっと今日も、これから遅くまで「勉強」をするのだろう。
ボロボロになりながら、一人で冷めたシチューを食べる彼女を想像して――。
「……、……一口。味見だけでも、していく?」
僕の口が勝手に動いていた。
平穏を守るための理性が、彼女の「寂しさ」に負けた瞬間だった。
「……っ。……ええ。一口だけ、お邪魔するわ」
冬月さんは、光の速さでそう答えると、滑り込むようにして僕の部屋へ足を踏み入れた。
その時の彼女の嬉しそうな横顔を見て、僕は「深入り」への恐怖よりも、不思議な安堵感を感じていた。
お読みいただきありがとうございました!
朝陽くん、ついに境界線を突破されてしまいました(笑)。
「お菓子が美味しかった」という素直な感想が、冬月さんの心を溶かし、そして彼女の「寂しい」という本音が、朝陽くんの心の鍵を開けたようです。
クリームシチューを囲む二人。
果たして「一口」で済むのでしょうか……?
「冬月さん、チョロ可愛い!」「シチュー食べたくなった!」という方は、ぜひ評価やブクマで応援お願いします!




