第32話:新しい扉と、回避しなければならない日課
「手じゃなければいいんだよね?」
そう不敵に笑った凛ちゃんの真意が分からぬまま、22時がやってきます。
理性を守るために「彼女の手を疲れさせない」という正論を盾にした朝陽でしたが、凛ちゃんが用意していたのは、それを軽々と飛び越える「全身全霊」のいたわりでした。
時計の針が22時を回った頃、玄関のチャイムが控えめに鳴った。
僕は夏休みの宿題を少しでも減らそうと机に向かっていたけれど、凛が入ってきた瞬間に集中力は霧散した。
「……朝陽くん、まだお風呂入ってないでしょ? 先に入ってきなよ。身体を温めてからの方が、マッサージの効果も高いし」
「あ、ああ……。わかった」
促されるままにお風呂場へ向かう。
シャワーを浴びながらも、頭の中は「手以外」という言葉でいっぱいだった。一体、何をされるんだろう。何かの道具を使うのか?
(……落ち着け。余計なことを考えるな。さっさと上がって、宿題の続きをするんだ)
そう自分に言い聞かせるものの、心拍数は上がる一方だった。
部屋着に着替え、リビングに戻った僕は、その光景に足を止めた。
凛が、リビングのど真ん中で「正座」して僕を待っていたのだ。
それも、顔をこれ以上ないほど真っ赤にして。
「……凛? なんで正座してるんだ? やっぱり、無理にお返しなんてしなくていいぞ?」
「……ううん。やるって、決めたから」
凛は俯いたまま、膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。
「……よくよく考えたら、親戚以外の男の人に……その、自分から触れるのって……すごく、緊張しちゃって」
「……っ」
あまりにも純粋な告白に、僕の理性が悲鳴を上げる。
そんなことを言われたら、僕だって意識しないわけにはいかない。
けれど、凛は意を決したように顔を上げると、自分の隣のスペースをポンポンと叩いた。
「いいから、座って。……手じゃなければいいんでしょ? まずはストレッチからやるね」
僕は促されるまま、彼女の隣に座って足を投げ出した。
「はい、そのまま前に倒れてー。前屈ね」
凛の指示に従って身体を曲げるが、元々身体が硬い上に、料理の立ち仕事で凝り固まった僕の背中は、驚くほど曲がらない。
「えいっ……えいっ! 全然ダメだよ朝陽くん、もっと力抜いて」
「……言われても、これ以上は……っ」
見かねた凛が、僕の背後に回り込んだ。
「腕の力だけじゃ無理そうだから……押すよ!」
次の瞬間、背中に「全身」の重みがかかった。
凛が僕の背中に自分の身体を預けるようにして、グーッと押し込んできたのだ。
(……ちょ、待って! 凛! いろいろ当たってる! 当たってるって……!)
パーカー越しに伝わる彼女の体温、背中に触れる柔らかな感触。そして、お風呂上がりの石鹸の香りが、逃げ場のない距離で僕を包み込む。
パニックになって振り返ると、凛も凛で、顔を真っ赤にしながら必死に目を瞑って僕を押し続けていた。
「……ふぅ、疲れた。次はマッサージね。……朝陽くん、うつ伏せになって」
ストレッチを終えて肩で息を吐きながら、凛が次の指示を出す。
僕が言われるまま床にうつ伏せになると、彼女は僕の背中に、そっと「足」を乗せた。
「……えっ?」
「手を使わない方法。これなら、私の手も疲れないでしょ?」
凛が僕の背中や腰を、足の裏で優しく、丁寧に踏み始めた。
適度な重みと、足裏の絶妙な圧迫感。
(……なるほど。これが『手を使わない』の正解か。……って、これ……なんだか、新しい扉が……)
踏まれる、という背徳感。けれど、それが驚くほど気持ちいい。
「いたたたっ!」と声を上げるポイントもあるが、それが解れると一気に血行が良くなるのがわかる。
凛はバランスを取るために、時折僕の肩を掴んだりしながら、満足げに僕の身体を解していった。
「はい、終わりー! いつもありがとうね、朝陽くん!」
一通り踏み終えて、凛がぴょんと床に降りた。
振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたまま、やり遂げたという達成感に満ちた彼女の笑顔があった。
湯気に当てられたようなその眩しい笑顔に、僕は目を細める。
「……こちらこそ。ありがとう、凛」
「ふふ、おやすみなさい!」
凛が自分の部屋へ戻っていくのを見送り、僕は一人、リビングで深呼吸をした。
新しい扉が開きそうになったのは内緒だけど、心も身体も、これまでにないほど軽かった。
その夜。
悶々と眠れない夜を覚悟していた僕は、凛に解してもらった身体の心地よさに抗えず、吸い込まれるように深い眠りについたのだった。
第32話をお読みいただき、ありがとうございました。
理性を守るために提案した「手を使わない」という条件が、まさかの「踏みマッサージ」という新境地(?)を拓いてしまいました。凛ちゃんの緊張しきった正座からの、必死の密着ストレッチ……朝陽くん、よく耐え抜きました!




