第31話:不敵な笑みと、嫌な予感
「明日、お返しにマッサージしてあげる」
そんな凛ちゃんの爆弾発言に、朝陽は一晩中悶々と過ごすことになります。
しかし、冷静になった朝陽は「絵師である彼女の手を疲れさせるわけにはいかない」という、完璧な?お断り理由を思いつきました。
これで一安心……と思いきや、凛ちゃんはさらに斜め上の提案を仕掛けてきます。
さらに学校では、友人たちから「家に行きたい」という打診や、凛の親友・佐藤さんからの意味深なエールまで!?
結局、あまり眠れなかった。
時計の針が午前三時を回った頃、僕はベッドの中でようやく一つの「真理」に辿り着いたのだ。
(……待てよ。そもそも僕は、凛の『手の疲れ』を癒やすためにマッサージを始めたんだ。なのに、僕が彼女にマッサージをさせたら、彼女の手を疲れさせて本末転倒じゃないか?)
そうだ。僕は料理人で、彼女は絵師だ。お互いに「手」は何よりも大切な商売道具。
自分の癒やしのために彼女の指を酷使させるのは違うよな。
「よし……。これで、角を立てずに断れる」
完璧な論理武装を整えた僕は、夜明け前になってようやく、深い安堵と共に眠りにつくことができた。
「……凛、やっぱり昨日のマッサージのお返し、いいよ」
朝食の席で、僕は厚揚げを口に運びながら、努めて冷静に切り出した。
案の定、凛は「えっ、なんで?」と不満げに頬を膨らませる。
「いや、冷静に考えたんだ。凛はプロの絵師だろ? 指先の疲労は死活問題だ。僕を揉んで君の手が疲れたら、それこそ僕のせいで仕事に支障が出たら悲しいわけで。だから、気持ちだけで十分だよ」
我ながら完璧な正論だ。凛も「……それは、そうかもしれないけど」と一度は引き下がった。
だが、彼女が玄関で靴を履き終えた瞬間だった。
凛がくるりと振り返り、見たこともないような不敵な笑みを浮かべた。
「……そっか。朝陽くん、私の手の心配をしてくれてるんだね。じゃあ、手じゃなければいいんだよね?」
「……は?」
「ふふ、いい方法を考えておくよ。……行ってきます、朝陽くん!」
「あ……おい! 行ってきます……って……」
パタン、とドアが閉まる。
一人残された玄関で、僕は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
今の「行ってきます」の響きが、あまりにも当たり前のように家庭的で。
そして、彼女が残した「手以外」という言葉の響きが、あまりにも不穏で。
「朝陽ー、明後日から夏休みだな! どっか行く予定あるか?」
昼休みの教室。親友の大輝が、彼女の寺田さんを連れて僕の席にやってきた。
二人の仲睦まじい様子に当てられながら、僕は「特にないかな。家でゆっくりしてると思う」と答える。
「勿体ないなー。たまには遊ぼうぜ、俺らともさ」
大輝の屈託のない言葉に、心が少し温かくなる。
……けれど、次の一言でその温度は一気に氷点下まで叩き落とされた。
「そうだ。今度、お前の家に遊びに行ってもいいか? 紗紀もさ、朝陽の料理が美味そうだってずっと言ってるんだよ」
「げほっ……!? ごほっ、ごほっ!」
むせた。全力でむせた。
「……ああ。まあ、事前に言ってくれればOK、だけど……」
なんとか絞り出した返事は、自分でも驚くほど声が震えていた。
絶対、凛と鉢合わせるわけにはいかない。このアパートの「秘密の境界線」が大輝たちにバレたら、僕の社会生活は終わる。
放課後、一人で校門へ向かっていると、不意に前を塞がれた。
凛の親友の佐藤さんだ。彼女はなぜか、顔を真っ赤にして口元を抑えながら、プルプルと震えている。
「……っ、ふふ……。……朝陽くん」
「……佐藤さん? どうしたの、顔赤いけど」
「なんでもない、なんでもないから! ……ただ、その、今日……頑張ってね。おじいちゃんによろしく」
「……おじいちゃん?」
佐藤さんはそれだけ言い残すと、笑いを堪えながら帰っていった。
(……なんだ? 絶対に凛関係だな。嫌な予感しかしない……)
夜、凛がいつものように晩御飯を食べにやってきた。
彼女はずっと、何かを企んでいるような顔でニヤニヤしている。
「今日の肉じゃがも美味しいね、朝陽くん」
「……そうか。なら良かったよ」
結局、食事中も、その後の片付けの間も、何も起きなかった。
嵐の前の静けさというやつだろうか。
凛は食器を拭き終えると、自分のバッグを掴んで軽やかに立ち上がった。
「ごちそうさま! ……じゃあ、仕事終わらせたらまた来るね!」
「…ああ……ああ!?……来るの!?呼ぶんじゃなくて?」
「楽しみにしててね。……ふふっ」
凛は期待といたずら心が入り混じったような、最高に不吉で可愛い笑みを残して自分の部屋へ戻っていった。
一人残されたリビングで、僕は頭を抱える。
手を使わない。佐藤さんのニヤニヤ。
……嫌な予感は、もう確信に変わっていた。
第31話をお読みいただき、ありがとうございました。
せっかく「論理的な言い訳」を編み出したのに、凛ちゃんの小悪魔スキルが一枚上手でしたね。
さらに、佐藤さんからの謎のエール……。凛ちゃんが「おじいちゃん」という苦しい嘘で相談していたとは露知らず、朝陽くんの心拍数は上がりっぱなしです。
やっぱりあれしかないよなと思ってくださった方は、ぜひ【評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!




