お隣の氷の令嬢は、お腹の鳴る音が可愛い
はじめまして、作者の比津磁界です。
お疲れの皆様に、少しでも癒やしと「ニヤニヤ」をお届けできれば幸いです。
美味しいご飯と、ちょっと不器用な二人の甘い日常をどうぞ。
ゆっくり楽しんでいってくださいね。
第1話:お隣の氷の令嬢は、お腹の鳴る音が可愛い
高校生活において、放課後は青春の代名詞だ。部活に励む者、恋人と帰路につく者、友人たちとカラオケに繰り出す者。
だが、高校二年生の俺、瀬戸朝陽にとっての放課後は、少し意味合いが違う。
「……よし、今日は卵が一人一点限りで特売日。鶏肉もグラム八十八円か。勝ったな」
校門を出るなり、俺は脳内の献立表を更新する。趣味は料理と掃除。特技は節約。クラスメイトからは「お前、中身は主婦だろ」と呆れられているが、放っておいてほしい。美味しいものを安く作る、これ以上の快楽がこの世にあるだろうか。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、不意に周囲の空気がピリリと凍りついた。
「あ、冬月さんだ……」
「今日も相変わらず、綺麗だけど近寄りがたいな」
生徒たちの視線の先にいたのは、冬月凛。
廊下ですれ違うたび、周囲の空気が数度下がるような錯覚を覚える。
腰まで届く夜の帳を切り取ったような黒髪は、一筋の乱れもなく、左サイドで留められた銀の三日月が、彼女が動くたびに鋭い光を反射する。
陶器のように白く滑らかな肌と、スラリと伸びた長い手足。制服というありふれた衣服さえ、彼女が纏えばドレスに見えた。
そして、すべてを見透かすような冷たくも美しい双眸。
俺とは住む世界が違う、高嶺の花。
そう。この時の俺は、彼女が同じアパートの隣室に住んでいることさえ、知る由もなかったんだ。
スーパーで戦利品を抱え、俺は古びているが手入れの行き届いたアパートへと帰ってきた。
階段を上がり、二〇一号室である自室の前まで来た時――。
「……え?」
隣の二〇二号室のドアの前。そこに、一人の少女が力なく座り込んでいた。
見覚えのある制服。そして、見間違えるはずのない美しい黒髪。
「冬月……さん?」
「…………っ」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
学校での凛とした表情はどこへやら。顔色は青白く、目の下にはうっすらとクマがある。今にも消えてしまいそうなほど、衰弱しきっていた。
「どうしたんだ? 鍵を忘れたとか……」
「……いえ。……ただ、少し、力が入らなくて……」
蚊の鳴くような声。
その直後だった。
――ぐぅぅぅぅぅ〜〜〜〜……。
静かな廊下に、なんとも可愛らしく、そして切実な音が響き渡った。
冬月さんの顔が、一瞬で耳の付け根まで真っ赤に染まる。
「…………今の、は……」
「……聞かなかったことにするよ。それより、いつから食べてないんだ?」
「……二日、くらい……? 仕事……いえ、作業に没頭して、気づいたら冷蔵庫が空で……」
氷の令嬢の正体は、どうやら極度の生活破綻者だったらしい。
放っておけるはずもなかった。俺の「オカン気質」が警報を鳴らしている。
「……立てる?とりあえず、うちで何か食わせるから」
「えっ、でも……」
「いいから。お隣さんの危機を見過ごしたら、明日から寝覚めが悪い」
俺は彼女を無理やりリビングのソファに座らせると、すぐにキッチンに立った。
今の彼女に必要なのは、消化が良くて、心の芯まで温まるもの。
まずは、鰹と昆布で丁寧に出汁を取る。
黄金色の出汁が鍋の中で踊り、豊かな香りがキッチンいっぱいに広がった。そこに鶏もも肉を投入し、旨味を閉じ込める。薄切りの玉ねぎがしんなりとしてきたところで、秘伝の割り下を投入。
そして、主役の登場だ。
ボウルに割り入れた新鮮な卵を、あえて白身が残るくらいに軽く解く。
ぐつぐつと沸騰した鍋に、円を描くように二回に分けて流し込む。
一回目で土台を作り、二回目でとろとろの質感を出す。
「……いい匂い」
いつの間にかキッチンの入り口までふらふらと歩いてきていた冬月さんが、潤んだ瞳で鍋を見つめていた。
「できたよ。瀬戸家特製、『ふわとろ卵の親子丼』だ」
炊きたての白米の上に、ぷるぷると震える卵のベールを滑らせる。
仕上げに三つ葉を添えれば完成だ。
「……いただきます」
冬月さんは震える手でスプーンを持ち、一口、口に運んだ。
ハフハフと熱そうにしながらも、ゆっくりと咀嚼する。
「…………っ」
彼女の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「おいしい……。……甘くて、温かくて……こんなに優しい味、初めて食べました……」
それは、学校で見せる「氷の仮面」が完全に溶け去った、年相応の少女の笑顔だった。
一心不乱に親子丼を頬張る彼女を見て、俺の胸の中に、これまでにない満足感が広がっていく。
「ふふっ……、おいしいです、瀬戸くん」
不意に見せられたその破壊力抜群の笑顔に、俺の心臓が跳ねた。
完食した後、彼女は少し落ち着いたのか、ポツリポツリと話してくれた。
あまり家事が得意ではなく、忙しいと食事どころか睡眠も忘れてしまうこと。
「……あの、瀬戸くん。今日のことは、学校では……」
「ああ、わかってる。二人だけの秘密だ」
俺がそう言うと、彼女は安心したように吐息を漏らし、それから少しだけ期待を込めたような目で俺を見た。
「……その、図々しいのは分かっています。でも、また……あなたの料理、食べに来てもいいですか?」
上目遣いでそんなことを言われて、断れる男がいるだろうか。
「……わかった。どうせ一人分作るのも二人分作るのも手間は変わらないしな。明日も、夕飯多めに作っておくよ」
「……はい! 約束、ですよ?」
氷の令嬢の、自分だけが知る可愛らしい素顔。
俺たちの、胃袋から始まるちょっと不思議な共同生活が、こうして幕を開けた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
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