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四.陽だまりの中で

 (ちょう)氏の言葉が、妙に頭に残っている。


 存在すら忘れかけていた女、父に押し付けられた厄介な側妻だ。情のようなものがあるはずもない。

 ただ、あの趙氏があそこまで気を許した雰囲気を出していたことへの純粋な興味と、初対面の時の彼女の掴めない印象が、胸の奥に引っかかっているだけだ。


 何より、配下と碁の勝負をしても、忖度(そんたく)されるばかりで、何も面白くない。(たま)には違う人間を相手にしてみたいという、子どもじみた願いを抱いただけだ。


 数日の逡巡(しゅんじゅん)のあと、冽然(れつぜん)は昼間に時間を作り、彼女を召し出した。後宮に()らぬ騒ぎを引き起こしたくなかったので、あくまで秘密裏にと命じた上での行動だった。






 潜んで来いとの命令通り、司率局(しそつきょく)の女官に(ふん)して、(しん)貞花(ていか)は冽然が書斎として使っている小部屋にやって来た。

 先導した皇帝付きの宦官(かんがん)が、そのまま部屋の隅に控えるのを横目で見遣り、冽然は感情のない声音で呼びかける。


「……顔を上げよ」


 するりと身体を起こした女の顔を、冽然はまじまじと見入った。ともすれば、彼女の輿入れ以来となる間近に見るその顔に、「こんな容貌(ようぼう)をしていたか」と考え込む。

 彼女は不思議そうに首を傾げた。


「私の顔に、何かついていますか?」

「……枕の痕が、くっきりと」

「あら」


 沈貞花は目を瞬かせて、自身の右頬に触れる。「逆だ」と冽然が告げると、彼女はあっけらかんと笑った。


「昨晩手に取った書物がとても面白くて、気付けば朝を迎えてしまって。皇后様への朝の拝礼(はいれい)の後、お召しまで時間があったので、支度してもらってから昼寝してました」

「……」


 彼女の侍女の苦労が(しの)ばれ、冽然は思わず半眼になる。

 確か、沈妃には二人の侍女がいたはずだ。せめて支度前に寝てくれていれば、まだ何かと誤魔化しがきいただろうに。よく見れば、着ている服も(しわ)まみれだ。

 きょとんとした表情でこちらを見る沈貞花に「何でもない」と告げ、冽然は咳払いをした。


「……碁が打てるそうだな。相手を命じる」

「……はあ」


 脈絡のない冽然の言葉に、沈貞花はぽかんとしている。構わず、宦官たちに碁盤と碁石を運び込ませると、冽然は問答無用とばかりに冷たく命じた。


「……早く座らぬか。先手は譲ってやろう」

「コミは必要ですか?」


 椅子に腰掛けつつ不遜(ふそん)に応じた女に、先手の黒石を取らせながら、冽然は口元を歪めた。


「要らん。──その言葉、後悔するなよ」









 結論として、冽然(れつぜん)完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされた。


 確かに、手並みを拝見――などと、余裕を(にじ)ませてはいた。相手は年下の女だと、油断もあった。

 それを差し引いてもなお、勝負は拮抗(きっこう)どころか、あっという間に決着してしまったのだ。

 顔を引き()らせる冽然をよそに、(しん)貞花(ていか)は呑気に感想を言い始める。


「まず、六手目ですかね。あそこに置かれたのが、そもそも不用意で……」


 最早、それは感想ではなく、情け容赦ない論評だった。冽然が袖に隠した拳を密かに震わせていると、壁際に控えた宦官が血相を変え、彼女に食ってかかった。


「陛下になんと無礼な……!」

「え?陛下はこんなことで怒るような、狭量な方には見えないですけど」

 目を丸くして言ってのけた沈貞花に、宦官は顔を真っ赤にして彼女に詰め寄ろうとする。冽然は鋭く声を上げた。滅多にない彼の怒りの声音に、宦官の肩がびくりと跳ねる。その場に跪く彼を制して、冽然は質素な装いの妻に向き直った。

 彼女の物言いは遠慮の欠片もない。だが、その真っ直ぐな様子は、何故か冽然の心に残った。冽然は気まずさからやや目線を外しながら、彼女に告げた。

「……次は負けんぞ」

「……はあ」

 相変わらず要領を得ない返答をし、沈貞花は部屋を後にした。




 冽然(れつぜん)はその後、公務の僅かな空き時間を見つけては、(しん)貞花(ていか)と時折、碁を打つようになった。

 最初の勝負を終えたあと、彼女自身はこちらの指示通り周囲に何も言わなかったようだが、彼女の出入りを目撃した女官たちが騒いだ。

 それが沈妃の変装姿だとは気づかなかったようだが、彼女たちは、「冽然が新たな女官を妻に迎えようとしている」と思い込み、ちょっとした騒動になってしまった。


 以来、余計な詮索(せんさく)(わずら)わされたくないと、冽然は彼女に、宦官(かんがん)の振りをして忍んで来るように命じている。

 これはこれで見つかれば騒ぎになるが、冽然自身も宦官が書斎の片付けに入ったように装っているので、気づかれることはないだろう。






 その日も冽然は、沈貞花と碁盤を挟んで座っていた。


 終盤まではどちらが勝ってもおかしくない状況であったが、最後には彼女に押し切られた。

 最初の対戦から三月程が過ぎ、通算戦績は冽然の六勝十九敗となった。

 冽然がもうひと勝負を主張すると、彼女はいつも通りの辟易(へきえき)とした表情を浮かべる。それでも、沈貞花は文句を言いながら、黒白それぞれの石を碁笥(ごけ)に戻している。

 その姿を眺めながら、冽然はポツリと呟いた。


「──余に何か、言いたいことはないのか」

「……はあ」


 不思議そうに瞬いて、沈貞花は首を傾げる。


「『陛下も懲りないですね』、とか、『いつまでやるつもりですか』、とかですか?」

「違う」


 嫌味ではなく、本心から理解出来なかったための発言だと分かっていたので、冽然は溜息とともに視線を逸らした。


「……『今まで歯牙(しが)にもかけなかったくせに』、だとか、『娘に会おうとは思わないのか』、だとかだ。

──先日も申したではないか。『必要ないと言っていたのに』と」

「ああ」


 眼前の彼女は苦笑し、真っ直ぐに冽然を見つめた。


「陛下には陛下のお考えと、立場がおありでしょう。私も娘が居て、書物が読めて、友も出来て、何だかんだでこの生活に満足しております。

……娘が父に会いたいと泣くのならば、陛下の首根っこを掴んででも、殿舎(でんしゃ)に連れて行きますけど。娘と友と侍女たち、(でい)少監(しょうかん)とで、楽しくやっておりますから」


 嘘偽りのないその笑顔に、冽然は瞑目(めいもく)した。


 ここで彼女が、表立っての(ちょう)や、刑部(けいぶ)に籍を置く父の優遇を強請(ねだ)ったところで、冽然には応じるつもりはなかった。

 即位して間もなく二年、未だ彼の足元は磐石(ばんじゃく)とは言い難い。先帝の方針との決別を掲げる冽然は、その経緯すら忘れられているとは言え、先帝の命で嫁いできた彼女に関心を持っていることを、知られる訳にはいかなかった。

 また、冽然自身も、彼女がそんなことを口にした瞬間、興醒(きょうざ)めして二度と関わることはなかっただろう。


 それなのに何故、こんなことを口にしてしまったのか、自分でも理解出来なかった。


 沈黙する冽然に、沈貞花は静かに語りかける。


「真っ直ぐな、良い子に育ってくれていますよ。好奇心旺盛で、学ぶことが大好きで。笑顔が可愛らしい娘です」

「……そうか」


 (おう)氏の娘、昭琳(しょうりん)とは、三日と開けずに顔を合わせている。彼女がどんなことで、どんな顔で笑うのかは、苦もなく思い出せる。だが、沈貞花との間の娘――昭瑶(しょうよう)のことは、顔すらもろくに思い出せなかった。

 可愛らしいと、眼前の彼女が愛おしげに評するその笑顔も、一度も見たことがない。



 内心で苦さを噛み締める冽然に、沈妃は黙って碁石を片付け続ける。


 その顔をそっと盗み見れば、彼女はただ穏やかな表情で碁石に目線を向けていた。





 部屋に差し込む午後の穏やかな光を見上げ、沈貞花はふと、目を細めた。柔らかく弧を描くその口元に何故か見覚えがあり、冽然は戸惑う。


(この表情……どこかで……)


 冽然の視線に気付き、顔を上げた彼女に無言で首を振り、冽然も碁石に手を伸ばした。







 沈妃と二人、碁盤を挟んで向き合う時間は、ただひたすらに静かだった。互いに機嫌を取る必要も、腹の探り合いをする必要もなく、純粋に勝負に打ち込める時間。


 その沈黙はどこか落ち着かず、けれど何故か懐かしく、温かかった。





 

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