二.本音と建前
「……だっ、大丈夫か!?」
ぶつかった相手が慌てた様子で、冽然の手を引く。冽然は血の気の引いた顔を伏せながら、大人しく立ち上がった。
どの立場の者だろうか。何を言われるのだろうか。
焦りに鼓動を速めていると、冽然とぶつかった青年はそのまましゃがみこみ、彼と目線の高さを合わせた。青年の同僚と思しき二人の連れも、背後で同じようにして首を傾げている。刑部の下級官吏の立場を示す佩玉が、三人の腰元で揺れていた。
「――こんなところに一人きりで、どうしたんだい?」
「……随分しっかりした身なりをされてるから、外から迷い込んできたってことはないよな?」
「どなたか高官様のお子かなぁ」
口々に投げかけられた言葉に、冽然は瞬いた。皇子がこんなところにいるとは想像出来なかったのか、外廷勤めの官僚の息子か何かだと思われたようだ。高官の息子が皇族の将来の側近候補として、その遊び相手を務めるため、幼い頃から宮城に上がることはままある。
素朴なその様子は、演技であるのか素であるのか。相手を警戒しながら、冽然は無言を貫いたまま俯いた。三人の官僚は困惑したように、互いに目を合わせている。
やがて、そのうちの一人がおもむろに立ち上がって告げた。
「……俺、ちょっとその辺見てくるよ。誰か、探しておられるかも」
「それなら俺も。お前はここで一緒に待っててくれな」
冽然とぶつかった青年を残して、二人の官僚が駆け出そうとする。焦って一歩踏み出した冽然に、青年たちは振り返り、気の抜けた笑みを浮かべた。
「大丈夫! 騒動を大きくして父君に叱られないよう、さり気なく探すから」
「男なら一度は、大冒険に憧れるもんさ」
親指を立てて請け負った彼らは、足早にその場を立ち去った。
冽然が思わず、傍らに残った青年を見やると、彼は「よいしょ」と声を出しながら、木陰に胡座をかいて座った。懐から取り出した手巾を丁寧にはたいた後、地面に敷き、冽然にも座るように声を掛ける。
しばらくの逡巡の後、冽然は大人しく彼の隣に腰を下ろした。
建物の屋根の隙間から差し込んだ日差しを受け、枝葉がキラキラと輝いている。活気づく外廷の中で、影になったこの場所だけは、妙に時間の流れが穏やかだった。
日光を浴びて、気持ち良さそうに目を細める青年を、冽然はじっと見上げた。
彼の視線に気付き、青年はにこりと微笑む。
「……大丈夫、すぐに見付かるよ」
冽然をただの一人の子どもとして扱うその笑顔に、彼の緊張は物心ついて以来、初めて緩んだ。俯く冽然の頭を、青年はポンと優しく撫でる。
目元が熱くなる感覚に、冽然は戸惑った。頬を温かい何かが伝い落ちていく。
「大丈夫」
青年の柔らかな声音に、冽然は肩を震わせた。
傍らに座す青年は敢えて冽然の方を見ずに、頭を撫で続ける。やがて冽然が落ち着いた頃を見計らって、彼は気負いのない様子で尋ねてきた。
「……何か、辛いことがあった?」
冽然はしばらく言葉に迷い、やがて首を左右に振って口を開いた。
「――辛くはない。しょうがないことだから」
「そうか」
不意に彼は小さく微笑みを浮かべる。
きょとんと目を開き、自身をじっと見詰める冽然の戸惑いをよそに、彼は滔々と語った。
「……三年前に娘が産まれた時、すごくびっくりした。子どもって、こんなに泣くものなんだなって。世話を手伝ってくれてる乳母に聞いたら、『泣くのが仕事なんですよ』って。『腹が減ったことに戸惑って泣いて、眠いから泣いて、伝える手段がないから泣いて、理由は分からないけどとにかく泣いて』。
……今は、大好きな本を、『もう寝なさい』って取り上げたら、怒って泣くかな」
何かを思い出したように、青年はくすりと笑いを零す。
「生まれた時の感情表現って、本当に単純だ。――なのに人間は、どんどん複雑な生き物になっていく」
君は、何故泣くの?
夏の初めの薫風のように穏やかな声で問われ、冽然は膝を抱える両腕にぐっと力を入れて俯いた。
「──出来て当たり前だと、言われる。誰も本当の私を見てくれない。私が本当は何を思っているか、誰も興味を持たない」
必要なのは、立場に相応しいと大人たちが判断する、『器』だけ。
抽象的な物言いでは、相手は何が言いたいのか理解出来なかっただろう。けれど、自身の立場を明かすことも出来ない。相手が気付いていないのならばなおのこと、不用意に泣き言は零せない。
「……そうか」
彼は囁き、再び冽然の頭に右手を伸ばした。人差し指の節が不自然に固くなっており、長時間筆を握っているのであろうことが察せられる。大きな掌は温かかった。
彼の娘は、今も泣き声を上げる度に、こんな風に彼に頭を撫でてもらうのだろうか。
黙り込む冽然に、彼は呑気にすら見え笑顔を浮かべた。
「君がどれだけ頑張っても、口さがなくあれこれ言う者はいる。……ならいっそのこと、無視するのはどうだろう」
思いがけない言葉に、弾かれたように冽然は顔を上げる。目線が合うと、彼は口元に柔らかな弧を描いた。
「自分の都合で君に好き勝手を言う相手のことは、『また言っているのか』と、心の中で盛大にこき下ろしてしまおう。表向きだけ殊勝な顔でやり過ごすのも、一つの手だ。どうしても我慢ならない時だけ、とっておきの傷付いた顔をして見せれば、相手も怯む。
……怒りや悲しみ、自尊心は、自分の中で大切に抱き締めてやると良い。いつか、本心を打ち明けられる相手が出来たら、その時は相手に頼っても良いと思う」
「そんなことは……赦されるのか?」
呆然と、冽然は尋ねた。
「許されるとも」
力強く頷き、青年は笑う。
「内心で何を思うかは、君の自由だ。もし君が、君の立場と引き換えに何かを得るのだとしたら、その『何か』に見合う振る舞いをすべきだとは思う。……それでも、君の心は君だけのものだ。心まで、大人が押し付ける『良い子』になる必要はない」
長年、胸の奥に居座っていた冷たいつかえが、取れた気がした。
冽然は、名も知らない青年の顔をじっと見上げる。気付けば涙も止まっていた。
何かを言おうと、冽然は口を開きかけるが、不意に響いた聞き慣れた声に、言葉を遮られた。
「……こんなところにいらしたのですか!」
慌てて振り返ると、そこには、先ほどの二人の官僚を従える、彼の武芸の稽古役である兵部の中級官僚がいた。いつも涼しい顔をしている彼が珍しく、額に汗を浮かべ、息を乱している。
冽然の側近たちは、彼の出奔を表沙汰にするつもりがないのか、外廷に居ても不自然ではない人間を、捜索に遣わしたようだ。皇子の教育係を示す身分証は全て、注意深く外されている。
冽然も、自分の失態を喧伝するつもりはないので、ただ黙って頷きを返した。
隣に座していた官僚の青年は、ほっとしたように笑い、冽然を教育係に引き渡す。
後ろ髪を引かれる思いで冽然が振り返ると、彼は一度頷き、同僚たちと共に頭を下げてその場を辞した。
「早く戻らないと叱られる!」
「まったく、如松がちょっと休憩とか言い出すから……! 迷子を助けられたのは良かったけど!」
同僚二人に小突かれながら、彼は小走りに駆け去っていく。「悪い」と詫びながら頭を搔くその指は、やはり節が歪に固まっていた。
(――じょしょう、というのか)
賑やかに言い合いながら遠ざかる三人の後ろ姿を、冽然は無言で見つめていた。彼の耳元に屈み込んだ稽古役が、そっと囁く。
「……調べさせましょうか?」
「良い」
冽然は間髪入れずに答え、首を振る。
名を知ったところで、次に彼らが顔を合わせることがあったとしても、それは皇子と下級官僚としてだ。親しく言葉を交わすことなどありえず、お互いに顔を覚えているかも怪しい。
それならば、敢えて知る必要もない。
決然と顔を上げ、冽然は何事もなかったかのように、内廷への道程を辿り始める。
『立場と引き換えに何かを得るのだとしたら、その「何か」に見合う振る舞いをすべきだとは思う。……それでも、君の心は君だけのものだ』。
明け透けなほどに真っ直ぐなその言葉は、いつまでも冽然の耳に残り続けた。




