一.皇太子
「──第三皇子冽然を、皇太子に任じる」
居並ぶ父の群臣たちの物言いたげな視線を背に受けながら、蘇 冽然は跪いたまま、典部の忠勝が読み上げた父の詔勅を受け取った。外交や宮中儀礼を取り仕切る部門の長は、複雑な顔をして、幼い皇子をじっと見下ろしてくる。
冠礼の儀を終えて、五日。与えられたばかりの字は未だ、彼自身の耳に馴染まない。
「……謹んで、お受けいたします」
幼さの残る声に、様子を伺うような背後の空気はどこか落ち着かない。皇帝の御前、厳粛な儀式の最中であるにも関わらずだ。
(……弛んでいるな)
伏せた面持ちに、冽然は冷ややかな眼差しを隠した。
皇帝の側妻、上級妃の第三位・忍妃の息子である冽然は、幼い頃から、その明晰な頭脳と冷静な判断力を絶賛されてきた。
それでも皇太子候補の筆頭はやはり、正妻たる皇后の息子。今、冽然の隣できつく拳を握り締めている、第二皇子だった。始祖の末の妹の血を継ぐ許家出身の母を持つ彼は、血筋と温厚な人柄から、多くの家臣の支持を受けていた。
だが、父帝の「皇太子選定にあたっては、民に必要とされるかどうか、その能力や品性を何よりも重視する」という宣言を受け、候補の最右翼に躍り出たのが冽然だった。
ある程度子どもの数が増え、一定の年齢まで育ったのちは、父帝は夜分に后妃のもとへ通うことをやめてしまった。
第一皇子は幼少期から複数の持病を抱え、早々と皇太子候補から外された。
冽然と同い年の第四皇子も、万事において凡庸で、父帝の告げた条件を満たすとは到底思われない。
そのため、皇太子位争いは、当初から第二皇子と第三皇子の一騎打ちの様相を見せていた。
そして今、勝者は冽然に決まったのだ。
共に跪き、父の勅宣を聞いていたた義兄の身体が、細かく震えている。冽然より二歳上の彼はとうに冠礼を終え、今は皇都にほど近い、豊かな封地を与えられていた。
久しぶりに顔を合わせた義兄を横目で盗み見ていると、冽然は不意に父帝から名を呼ばれた。
「──冽然。面を上げよ」
ぐっと頭を深く下げたのち、冽然は姿勢を正す。
目が合った父帝は、いつも通り背筋を真っ直ぐに伸ばして玉座に腰掛け、感情の読めない瞳で息子を見下ろしていた。冽然は地に膝を着いたまま、そんな父を平然と見上げる。
父子の視線が空中でぶつかり、父帝は厳かな声音で告げた。
「――私情を排し、甘えや驕りを捨てよ。この日より、お前の命も身体も、民のためだけのものとなった。その軛から逃れられるのは、お前が永遠の眠りについた後だ。……そのことを、ゆめゆめ忘れるな」
重々しいその言葉に、思わず冽然は息を飲む。そんな息子を嗤うように、父帝は微かに口元を歪めた。
むっとして冽然が顔を顰めると、父はふと真顔に戻り、彼の背後を指し示した。
促されるように振り返った冽然の目に、謁見殿を埋め尽くすほどに数多ひしめく官僚たちの姿が入る。
父帝は、声を張り上げて言った。
「次代を担う皇太子は、我が三皇子、冽然と決まった。……異論はあるか!」
もちろん、馬鹿正直に異を唱える者はいない。彼らは一斉に頭を垂れて、唱和した。
「皇帝陛下、万歳! 万歳! 万々歳!」
「皇太子殿下、千歳! 千歳! 千々歳!」
三唱の響きが地鳴りのように、謁見殿を満たす。そこに滲む様々な声音を、冽然は冷静に聞いていた。
景清七年、晩春。
大礼国第四代皇帝・蘇 昇寂の第三皇子である冽然は、父から皇太子の冕冠を賜ることとなった。
蘇氏は、礼の前身である、暁の文官を祖先とする一族だ。
前王朝は、連綿と続く歴代王朝と方針を明確に異にしており、皇帝が国の全てを決めるのではなく、民の自発的な決断を皇帝が追認するという、前代未聞の統治を行った。
当初は高い志と共に、国も制度も大きく発展したが、やがて一部の力持つ者たちに政治を牛耳られ、国はひどく荒れた。急速に傾いていく国を憂い、立ち上がったのが、彼らの祖先である蘇 子泰だった。
他ならぬ民衆の大きな賛同を受け、暁を倒した彼は、儒の教えを礎とし、従来の皇帝による統治を絶対とする、新たな王朝を建てた。
始祖・文立帝を名乗った子泰は、儒の教えに則るかたちで、国の在り方の基礎を作り上げた。
第二代・恭和帝が制度や典礼を細かく整備し、有名無実となっていた官僚登用試験、英玄試についても見直した。
第三代・懐徳帝の時代には、安定した国の雰囲気のもと、様々な文化が花開いていった。
そして、三年前に至上の地位に就いた第四代・景清帝は、新たな国の在り方を模索していた。
彼は民の教育を推奨し、職業選択の難易度を下げた。他国を力で押さえつけるのではなく、共栄共存を図った。
昇寂の統治は、今の世の中に閉塞感を覚える者からは絶大な支持を受け、歴史の再来に怯える者かは冷ややかな目を向けられている。
その相反する民の思いは、当然、彼の息子たちにも向けられている。自分たちの望む国の在り方を引き継がせようと、それぞれが優秀な皇子を取り込もうと策を練った。
皇太子に任じられる前の幼い頃から、神童と崇められてきた冽然には、多くの大人たちが、様々な思惑を持って近づいてきた。
冽然を、自分たちに都合のいい操り人形に仕立てようとする者、将来の引き立てを狙って阿る者、存在を危ぶみ、生命を狙う者。
その中には、自分の息子の立場を脅かされることを嫌って、皇后が手引きした者もいた。
冽然の母は、息子の身体の成長と、学習の進捗具合以外には、興味を持たない女だった。
息子が皇太子となれるかどうか。彼女が気にしていたのは、それだけだ。
そんな母でも、幼い冽然は、関心を引こうと奮闘していた。
今思えば愚かなことだが、師に絶賛された詩を母に捧げ、母の寝付きが悪いと聞けば、安眠を誘うという楽曲を覚えて披露した。
母はただ、「無駄なことをしていないで、四書の一文でも覚えろ」と冷ややかに言うのみだった。
九歳になった年のある日のこと。その日も母に、冷ややかにあしらわれた冽然は、衝動的に母と共に暮らす殿舎を飛び出していた。
どこをどう走ったものか。気が付けば、内廷はおろか、央廷すらも駆け抜け、見慣れぬ建物が立ち並び、大柄な男たちが多数行き交う外廷に立っていた。
冽然は咄嗟に、手近な建物の影に隠れた。
誰かに見つかれば面倒なことになるのは、火を見るよりも明らかだった。
ありもしない醜聞をでっち上げ、冽然の品位を貶めようとするか。気に入らない相手に拐かしの罪をなすり付け、引きずり下ろすことに利用されるか、保護したことを恩に着せ、褒賞を強請るか。
自分の失態を自覚し、冽然は顔を顰めて踵を返した。
その瞬間、建物から出てきた青年とぶつかり、冽然は勢いよく尻もちをついていた。




