絶望的な逃避行
(どうすれば……どうすればいいんだ?)
草陰にメリッサを横たえて頬に軟膏を塗り、ゼイゼイと苦しそうに息をする小さな胸と背に湿布薬を塗り、包帯でグルグル巻きにしながら、ニコラウスはしきりに考えた。
このままでは死んでしまう。かといって、安静にしてゆっくり治療する場所はない。
「……ニコ……ラ……み、みず……」
「姫様、ゆっくり飲んでください」
水筒の蓋に水を入れ、リュックから麻薬入りの痛み止めと睡眠薬の粉を出して混ぜ、少しずつメリッサに飲ませた。肩でやっと息をしている。辛そうで見ていられない。
「いた……痛い……はっ……はっ……」
(あぁ、どうすれば……)
ニコラウスは、魔国民の中でもひときわ魔力の高い祖父から語られた伝説を思い出した。
『クロウカシス山脈の奥、エメラルドが採れる地には不死の泉があるらしい。その泉は魔力の源泉なのだそうだ。もともと魔族はそこに住んでいた。
かつて魔族は永遠に近い生命を持っていた。しかしやがてその泉は枯れ、魔族は不死ではなくなった。その後建てた国がこの魔国なのだそうだ。
今や我々は、魔族と言ってもわずかな魔力を有する単なる人間にすぎない。驕り高ぶれば、いつかは滅ぼされるだろう』
――クロウカシス山脈――エメラルド――不死の泉。
(真実かどうかは分からないが、今はそこを目指すしかない。枯れた伝説の泉が復活していれば、あるいは……いずれにしても、しばらく身を隠せる山中へ行きたい)
「姫様、返事はしなくてもいいので、私がこれから言う事を聞いて下さい。クロウカシス山脈には、魔力の源泉となる泉が存在するという伝説があります。不死の泉です。私たちは今からそこを目指します」
「……ニコ……」
「しゃべってはいけません」
ニコラウスはリュックから地図を取り出して広げた。
東西に広がるクロウカシス山脈が南の国境をなしている。地図に載っているエメラルド鉱床は数か所。いずれも山脈の中央だ。この地のエメラルドは高価だが、ほんのわずかしか採れない。
ここに至る街道は二つ。ひとつは王宮を通る『王の道』、もうひとつは丘陵地帯から真下に通る一般街道。行くとしたらその道しかない。
幸い王の道よりは、南下する一般街道の方がエメラルド鉱床に近かった。
ニコラウスは留学のため魔国を離れた事がある。古都アテナへは巨大な湖を船で行ったので、急峻なクロウカシス山脈へ行くのは初めてだ。
不死の泉を捜すには自身の体力と魔力だけが頼りだった。
「行くしかない」
逃亡の証拠品になる花嫁のヴェールとアクセサリーをリュックに押し込み、夏とはいえ夜は冷えるので、ニコラウスはメリッサを抱くように横になって黒いマントを掛けた。
――魔国は豊富なラピスラズリで潤っている小国だ。ラピスラズリ鉱山では奴隷や移民が働いている。アウロラの一族も鉱山にいる。
この国は、建国当時は強力な魔力があったかもしれないが、代を重ねるにしたがって魔力は弱まっている。いつまでもそんなものに頼っていては、祖父が恐れていたように、遅かれ早かれ強力な軍事力を持つ国に滅ぼされるだろう。
見限るなら今。
そんな事を考えるうちに、ニコラウスの意識が遠のいた。
※
「姫様、眠れましたか? 辛いかもしれませんが、出発しましょう」
日の出とともに、ニコラウスはメリッサを背負って一般街道を南下した。彼女には黒いマントをかぶせているので、婚礼衣装と金色の髪を見られることはないだろうが、用心はしなければ。
何者かが襲って来たら魔法を放てばいい。もう自分の魔力を隠す必要はない。とにかく山中へ紛れ込むことさえできれば……。
メリッサには早朝痛み止めと睡眠薬を飲ませたから当分は起きないはず。今のうちに山岳地帯へ入ろう。
ニコラウスはできるだけ早く足を進めた。一般街道は旅人や行商人が行き交う。『王の道』ではないにしても、魔国の兵士が通るかもしれない。できるだけ人目は避けたい。
「……ニコ……」
「目が覚めましたか? いま少し進んだら休憩しましょう」
※
夏でも山頂に雪が残る、魔国と南の国との壁になっているクロウカシス山脈。
何日か野宿し、人目を避けるため街道から少し逸れた、山から流れる緑色の川沿いをしばらく歩くと、前方から歌声が聞こえた。金の髪の一族が故郷の歌を口ずさみながら山脈を越えようとしている。
「あれは……アウロラの一族かもしれない。警告通り魔国を去るんだな。メルクリ家はどうしたんだろう……」
家族に会うことはもうないだろうな――自分のことを心配してくれた祖父のことを思うと心が痛むが、きっと理解してくれるだろう。運命は時に残酷だ。
ラピスラズリ鉱山で過酷な労働を強いられていた北の一族。見たところ数十人はいそうだ。歩みが遅いのは子供がいるからか。男女ともズボンと上着という、労働者特有の姿だ。
鉱山からの逃亡は重罰だが、それも覚悟してのことなんだろう。
本当ならこのままメリッサを一族に託すべきなのかもしれない。しかし今は治療を優先しなければ。
――それに、万が一政治に利用されでもしたら。
しばらく考えた後、一族がすっかり見えなくなった頃を見計らい、ニコラウスは川の支流に入る別の道へ進んだ。
支流に沿った道は上り坂の獣道だった。
(もう少しでエメラルド鉱床が点在する地だ)
広めの川原に出たニコラウスは、草地の上にマントを敷いてメリッサを丁寧に横たえ、腰を下ろした。
「姫様、少し食べましょうか」
わずかな干し果物をリュックから取り出しメリッサの口へ近づけたが、ぐったりしたまま動かない。呼吸は浅く、声も出せない。
「姫様!」
軟膏はかかさず、包帯も毎日変えてはいるけれど、劣悪な環境からか治癒の気配はない。自分が癒しの魔法さえ使えたら……と思っても、どうにもならない。
汚れた包帯を川で洗い、木の枝で乾かしながら覚悟を決めた。
――自分は蛮族国へ嫁ぐ王女を攫った犯罪者。
「死ぬときは一緒です」
※モデルにした地帯をgoogle mapでたどりました。氷河がある険しい山中で独ソ戦(ブラウ作戦)があったらしいです。スターリングラード攻防戦はその作戦の中のひとつに過ぎなかったらしいです。今まで知りませんでした。




