掌に残るもの
その日は、何かにすがるような気持ちで桃李堂へ向かっていた。
数日前のこと。自分の名で送ったメールに誤字があり、それが取引先とのやりとりの中で思わぬ問題を引き起こした。
仕事の失敗なんて誰にでもある。そう頭では分かっていても、実際に問題になったと上司から聞かされた瞬間には、胸の奥がひやりと凍った。その冷たさは、時間が経っても溶けないまま、ずっと心のどこかに張りついている。
夜になると、あの瞬間がふとよみがえってきては、「なぜもっと注意できなかったのか」と、自分の声が問いかけてくるのだ。
たかが一文字、されど一文字。真面目すぎると言われても、それが私の癖なのだから仕方がない。
桃李堂にたどり着いたのは、暑さが少しだけやわらぎはじめた午後3時すぎ。
引き戸を開けると、店の中にはあの香ばしいコーヒーの香りと、ほのかに冷えた空気が広がっていた。
冷房の効きすぎない、ちょうどよい温度。それだけで、少しだけ心がほどける。
「こんにちは」
声に張りがなかったかもしれない。でも、カウンターの向こうにいた律さんは、そんな私の様子をとがめることもなく、静かに顔を上げて微笑んだ。
「こんにちは。おかけになりますか?」
私は小さくうなずいて、店の奥のソファーに腰を下ろした。
外の喧騒がふっと遠ざかって、少しずつ、呼吸が整っていく。「外、暑かったでしょう」と、律さんが差し出してくれた一杯の麦茶に、指先が冷たさを覚えた。
「……あの」
ふと、視線の端にとまった棚の一角。
そこに、薄布をかけられた木箱がひとつ置かれているのが目に入った。
きちんと整頓された展示のなかで、その存在だけがどこか異質で、けれど気配を消すように静かに佇んでいた。
「あれ……見てもいいですか?」
律さんは一瞬だけ目を見開いたあと、小さくうなずいて、ゆっくりとその箱のもとへ歩いていった。
「珍しいものなんです。展示には、あまり……いや、まだ一度も出したことがないかもしれません。常連さんには、何人かお見せしたことがあるんですけどね」
布を外した律さんの指が、優しく木箱の蓋をそっと開ける。
そこにあったのは、山深い泉の水のように澄んだ薄翠の釉薬の下から、渦をまくようにして混ざりあう白と黒の素地が透けて見える、そんな不思議な茶碗だった。
底から縁までスッキリと開きながら立ち上がる朝顔の花のような均整のとれた形に、釉薬のやわらかな艶。
ひと目見て、息を呑んだ。瞬間、周囲の音がすっと消えた気がした。時間までも、その茶碗の中に閉じこめられてしまったように。
「……綺麗、ですね……」
「高麗時代の練上茶碗です。朝鮮半島では練里と呼ばれていて、三種類の土――青磁土、白土、赫土――を練り合わせて作られています」
律さんの声は、まるで器に添うようだった。
その手つきも、まるで掌で話しかけるように柔らかい。
「でも、よく見ると……」
私はそっと、茶碗の底のあたりに視線を移した。
ほんのわずかに、斬りつけられたような細いひび割れがある。釉薬でなめらかに補われているけれど、そこだけ、光の反射が違っていた。
「はい。少しだけ傷があります。窯傷といって、焼いている時に窯の中でできた傷です。……でも、それがあったからこそ、僕の手元に来たんだと思っています」
「売り物じゃ……ないんですか?」
「ええ。僕のコレクションです。昔、知人から譲ってもらって……そうですね、どうしても手放したくなくて」
律さんは静かに微笑んだ。
その笑みが、少しだけ寂しげに見えたのは、気のせいだろうか。
私は、そっと茶碗に触れた。
掌の中に広がる、しっとりとした質感。ひやりとした温度の奥に、確かに柔らかさがあった。
「土の種類が違えば、その収縮率も異なります。この茶碗は三種類の土を使った練上だから、その収縮率の違いで、焼いている途中や冷ますときに割れてしまうことが多いんです。なので、遺っているものは、ほんのわずかです」
「……壊れやすい技法なんですね」
壊れやすい。けれど、残った。
まるで、それだけで奇跡みたいに感じる。
ふと、心の奥であの日のことが疼いた。
あのメール、あの誤字、忘れたい一言。そして、ずっと心に残っている上司の目。
傷があっても、こうして誰かの手に残っているこの器が、ふいに自分と重なって見えて、気づけば思いが言葉になって零れていた。
「……自分を見てるみたい、って思ったこと、ありますか?」
口にしてから、少し後悔する。唐突だったかもしれない。でも、律さんは驚くふうでもなく、少しだけ目を細めて言った。
「ありますよ。――この茶碗が、最初から完璧だったら、たぶん僕は欲しいと思わなかったかもしれません」
その言葉が、胸の奥に、静かに沁みていく。
完璧じゃないからこそ、惹かれるもの。
傷があっても、それでも誰かに美しいと思ってもらえるもの。
私はもう一度、練上の茶碗にそっと指を添える。
その底にある小さな傷が、あの日の自分の痛みと静かに重なって見えた。
そして気づく。
――私も、まだ、ここにいる。壊れてない。ちゃんと、息をしている。
◆
桃李堂を出たのは、夕方に差しかかったころだった。
静かに歩きながら、私はさっき触れた器の感触を思い出す。
冷たさと、なめらかな柔らかさ。そして、見えづらいけれど確かにあった傷。
――でも、それがあったからこそ、僕の手元に来たんだと思っています。
律さんのその言葉が、まだ胸の奥に、灯のように残っている。
会社のデスクで、上司に言われてメールを見返したときの冷たい焦り。
あのときの私は、自分を使いものにならないと、そう思いかけていた。
でも今日、あの茶碗を見て少しだけ、そんなことはないと思えたのだ。
足元の石畳に目を落としながら、私はふと立ち止まる。
――このまま帰りたくない、と思った。
踵を返して、再び桃李堂の戸を開ける。
からん、と控えめな鈴の音が、今度はあたたかく響いた。
「あれ、由梨さん。忘れ物ですか?」
カウンターの奥で片づけをしていた律さんが、少し驚いたように顔を上げた。
「いえ……あの……、さっき言えなかったことがあって」
私の声に、律さんは少しだけ首をかしげて、表情をやわらげた。
「言いそびれることって、ありますよね」
再びあのソファに腰を下ろすと、律さんはまた麦茶を差し出してくれた。
グラスの表面に小さな水滴がにじんでいる。
「……傷があるってこと、それだけでダメなことだって思ってました。でも今日、それでも美しいことがあるって、初めて思いました」
自分でも、口にして驚くくらい素直な言葉だった。
律さんは少しだけ微笑んで、やがて静かに言った。
「傷もまた、その器の景色の一部。……そう言う人もいますよ」
「景色、ですか?」
「はい。茶人の言葉です。器の景色とは、釉薬の流れ、土の具合、そして時に、焦げや歪みや傷まで含めて、その器だけの風景――個性なんです」
器の景色。それは完璧とは違った美しさ。
真面目すぎる、と私はよく言われる。
完璧じゃないといけない、そうどこかでずっと思っていた。
でもそれでは、自分の中のどんな小さな傷でも、許してあげられない気がする。
「由梨さんは、きっと自分の景色を持ってる人です」
唐突にそう言われて、私はぽかんとしてしまった。
「えっ……?」
「自分を見てるみたい、って思ったことがあるか、僕に訊きましたよね。……あのとき由梨さんも、この茶碗を自分みたいって思ったんでしょう? この茶碗を見て、僕と同じようなことを感じる人は、初めてでした。――その視点、とても素敵だと思いますよ」
どきん、と心臓が音を立てた。
恥ずかしさと、どこかくすぐったいような気持ちが、胸の奥にひろがる。
素敵だなんて言葉を、まっすぐ向けられたのは、いつぶりだっただろう。
「……そんな風に言ってもらえるとは、思いませんでした」
「僕の方こそ、茶碗を持っていてよかったと思いましたよ」
そう言って、律さんはテーブルの上に置かれていた練上の茶碗を、もう一度そっと撫でる。まるで、大切な記憶をなぞっているようだった。
その日はそれ以上、器には触れなかった。
何かがそっと手のひらに残っているような気持ちで、私は店をあとにする。
通りには街灯が灯りはじめている。その下を通りながら、私はそっと深呼吸をした。
明日は、新しい気持ちで出社しよう。
失敗してもいい。私は、まだ、ここにいる。
小さな決意が、胸の奥に灯った。
◆
翌朝、いつものように目覚ましが鳴り、いつものように着替えて、鏡の前に立った。
けれど今日は、ほんの少しだけ、姿勢が違う気がした。まるで昨日の私は、もう遠い場所にいるみたいだった。
通勤電車のなか、私は窓の外をぼんやりと眺める。
人の波、ビルの窓、信号の明滅。何も変わらないいつもの朝の景色。
私はそっと掌を握り込んだ。あの茶碗は、確かに私の何かを変えたのだと思う。
職場に着くと、いつものようにパソコンを立ち上げた。
その手順に何ひとつ変わりはないのに、不思議と焦りも緊張もなかった。
むしろ、「さあ、やってみよう」と、小さく頷けるような感覚があった。
「おはようございます」
通りかかった上司にそう声をかけると、少し意外そうな顔でこちらを見てきた。
「あ、おはよう。……顔色、良くなったね」
「はい。ご心配おかけしました!」
そう言えた自分に、私自身が少し驚いていた。
ごまかしているのでも、強がっているのでもない。昨日までと違う何かが、ちゃんと私の中にある。
――たとえ傷があっても、それは景色になる。
それは、昨日の私が初めて知った、柔らかくてあたたかな真実だった。
帰り道。ふと思い立って、手近な文房具屋に寄った。
いつか、律さんに手紙を書いてみようと思ったのだ。
律さんなら、手紙を喜んでくれそうな気がした。あの店の空気のように、穏やかで、少し懐かしい手触りのあるものを、大切にしていそうだから。
便箋と封筒を選びながら、私は思い出す。
「由梨さんは、きっと自分の景色を持ってる人です」――そう言ってくれた声のあたたかさを。
あの言葉が、掌に触れた器の質感と重なって、今も私の中に残っている。
傷ついたままでいられる強さ。そして、傷のあるまま美しいと感じられる優しさ。
少しずつでいい。
完璧じゃなくてもいい。
私は、私のままで進んでいく。
そう思えることが、今は少しだけ誇らしい。気づけば私の中にも、新しい景色が生まれていた。
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