はじまりの器
引き戸を開けた瞬間、いつもと少し違う香りがした。
桃李堂の空気は、ふだん静かで、ほんのりと古い木の匂いが混ざっている。けれど今日のそれには、どこか香ばしくて、あたたかい香りがふわりと重なっていた。
私は鼻先をくすぐるその匂いに気づきながら、足を踏み入れる。
「……なんだか、いつもと違う香りがしますね」
カウンターの奥にいた律さんが、少し照れくさそうに、ほんのり笑みを浮かべてこちらを見た。
「鼻、いいんですね。実は豆を変えてみたんです。あまり冒険しないんですけど、たまには、と思って」
「コーヒー豆ですか?」
「はい。やや浅煎りのエチオピアの豆です。さわやかな酸味があるやつ。あまり得意じゃなかったんですけど、今日飲んでみたら、思ったより美味しくて」
彼の手元にあるカップから、ほのかに甘い香りが立ちのぼっていた。いつもはビターチョコのような香りだと思っていたのに、今日は果物のような甘さを感じる。
香りだけでも、けっこう印象が違うのだと少し驚いた。
「由梨さんも、いかがですか? ちょうど淹れたばかりです」
「いただきます。なんだか、いい匂いで」
温かいカップを両手で包むようにして受け取る。唇を寄せた器の口あたりがやわらかくて、ゆっくりと息がほどけていった。
味もやさしかった。舌にほんのりと酸味が残るけれど、それが嫌味にならず、むしろ身体をゆっくり目覚めさせてくれるようだった。
「……おいしいです。朝に飲みたくなるような味ですね」
「そう言ってもらえると、買ったかいがあります」
律さんは、相変わらず控えめな口ぶりでそう言って、カウンターの棚に手をのばす。今日もその何気ないしぐさを目で追いながら、私はふと思う。
――こんなふうに、ひとつのものを手にして、味わって、大事にする。
そういう時間が、少しずつ、自分のなかにも必要になってきたのかもしれない。思えば慌ただしい日々の中で、ただ手元にあるものを適当に使ってきた気がする。
けれど、ここで過ごす時間の中で、ものと向き合う静けさが、少しずつ自分の内側に染みこんできた。
「……そろそろ、なにかひとつくらい、欲しくなってきたんです」
気づけば、ぽつんと口にしていた。
律さんは、棚から器を取り出しかけていた手を止め、こちらを一瞥した。
その視線には、驚きよりも、どこかやわらかな安堵のようなものがあって、それがかえって、胸に残った。
「そうですね。……それなら」
彼は小さく頷くと、静かに立ち上がって、奥の展示棚の方へ歩いていく。手を伸ばしたのは、低い位置に置かれていた木箱だ。開けられた中には、小ぶりな器がいくつも収まっていた。
「古伊万里のそば猪口なんて、入門にはちょうどいいかもしれませんよ」
ひとつ、またひとつと、律さんの手が器を選んでいく。まるで、それぞれの器が律さんを待っていたかのように、迷いのない動きでいくつかのそば猪口が取り出された。
テーブルの上に、そば猪口が並びはじめる。白地に藍の染付、赤や緑で色絵が入ったもの、色合いも絵柄も大きさも、どれも似ているようで、よく見るとまるでちがう。
「大きさも文様もさまざまですが、時代はどれも江戸の中期から後期ごろです。生活の中にあったものなので、気取らず使えるんですよ」
ひとつひとつの小ささが、かえって緊張感を呼ぶ。だけど、それを越えて、触れてみたいと思った。
私は目の前に並んだそば猪口たちに手をのばした。指先でふちをなぞる。ひんやりとして、そこだけ時間の流れが違うようだ。
「……選ぶって、なんだか、ちょっと緊張するけど、たのしいですね」
「そうでしょう。自分が使っている場面を想像してみると、しっくりくるのが見つかるかもしれませんよ」
律さんの声は低く、でもやさしくて、ひとつひとつの器の表情と同じように、静かに響いてきた。
私は、そっと視線をそば猪口たちに落とした。
お昼の光が差し込む台所。茹でたばかりのそばと、そば猪口にそそがれた冷たいそばつゆ。
あるいは、眠れない夜に、一杯だけの冷たいお茶をいれてみるのもいいかもしれない。
そんな小さな場面を想像するだけで、不思議と器との距離が縮まる気がする。
テーブルに並ぶそば猪口の中に、ひとつだけ、何度も目が合うようなそば猪口があった。
(律さん、たしか雨降り文って言ってたっけ……)
それは以前、この店で見つけて興味を惹かれたそば猪口だった。ゆっくり持ち上げてみると、思ったよりもずっしりとした重さが手に伝わってくる。その重さが、かえって安心感につながるように思えた。
今日はまだ、連れて帰らなくてもいい。でも、もしこの中でひとつだけ選ぶとしたら、たぶん、あれになる気がする。
そんな思いを胸に抱きながら、私は手に持っていたそば猪口をそっと置いた。
◆
午後の陽が、窓の向こうからゆるやかに差し込んでいる。店内の器たちはその光を受けて、ひとつひとつが控えめに輝いて見える。
私は、あれからずっと、まだ目の前にある器たちを眺めていた。
選ばなかったけれど、選びかけたもの。
手に取ったけれど、すぐに置いたもの。
ひとつを選ぶことは、ひとつを選ばないということでもある。そう思うと、これでいいのかなと、心のどこかで躊躇ってしまう自分がいた。
しかし、その境界線に立っている時間が、なぜか心地よくて、私はしばらく動けずにいた。
「迷っているみたいですね、顔に出てますよ」
ふいにかけられた律さんの声に、私ははっとして顔を上げた。
棚の上に別の器を戻していた律さんが、こちらにゆるやかな笑みを向けている。
「……すみません、ずいぶん長いこと、見てしまって」
「いえ。迷っている時間も、器との対話のうちですから」
律さんはそう言って、テーブルの向かいに腰を下ろした。視線の先には、やっぱりあの、雨降り文のそば猪口がある。
筆の腹をそっと押し付けて描かれた、薄い藍色の逆三角形が、ギザギザと縁を一周めぐっている。
その薄い藍色の中には濃い藍色の細かな点線をまばらに並べて、しとしとと降る雨の糸が表されていた。
藍色の濃淡が複雑に重なりあい、小さな器のなかに静かな詩のような情緒が生まれている。
「……これ、前に見たときから、気になっていたんです」
「覚えてました」
「え?」
「由梨さん、声には出してなくても、表情に出てましたよ」
くすっと律さんが笑った。私は恥ずかしくなって、視線を逸らす。
「そうなんですね……」
「でも、いいことだと思います。うちでお気に入りの器を見つけてもらえるのは、嬉しいものですよ。たとえ、買っていただけなくても」
その言葉に、私はもう一度、雨降り文のそば猪口に視線を戻した。
「雨、けっこう好きなんです」
ぽつりと呟いた。唐突だったかもしれないけれど、そう言わずにはいられなかった。
子どものころ、雨の日はよく窓の外に置いたグラスに雨粒が落ちる音を聞いていたのを思い出す。
外で遊べなくてがっかりしながらも、あの音がどこか好きだった。
「静かで、香りがあって、世間の雑音がちょっと遠くなる感じがして。……うまく言えないんですけど」
「なんとなく、わかる気がします」
律さんの声は、雨音のようにやわらかかった。
「雨降り文って、江戸時代に流行った意匠のひとつなんですけど、不思議ですよね。雨具とかの明確なモチーフは描かれてないのに、雨の情景と言われて納得できるんですよ」
「……すごいですね。こんな小さな器なのに、世界があるみたい」
私の指が器の肌に触れる。しっとりとした釉薬の質感が心地よい。
まるで江戸時代の雨の香りを閉じ込めたような小さな器。それをいま、自分の指先が感じているというだけで、少し胸が熱くなった。
「今日は、まだ決めないつもりですか?」
ふいに律さんが問う。
私は少し考えて、そして小さく頷いた。
「はい。……でも、近いうちに、もう一度、会いに来たいと思ってます」
それは、自分の中にようやく芽生えた、確かな感情だった。
律さんは、ゆっくりと頷いてくれた。
「そのとき、このそば猪口がまだここにいれば、ぜひ手にとってあげてください」
「売れちゃうことも、あるんですよね」
「ありますね。でも、縁があればきっと」
縁。
あんまり信じていなかった言葉だけど、この店に来るようになってから、それが案外、大事なものかもしれないと思いはじめている。
私は立ち上がり、そば猪口に目を向けて、小さく頭を下げた。
ありがとう。また、来ます。
それは言葉に出さなかったけれど、音のない雨が大地を濡らすように、器に伝わってくれた気がした。
◆
まだ朝の名残を感じさせる、柔らかな光が空気に溶けている午前10時頃。
駅から桃李堂までの道を歩きながら、胸の奥の小さく波打つような鼓動を感じていた。今日こそ、ひとつを買って帰ろう――そう決めているからだろう。
手に入れることを想像するたびに、胸が脈打つような気がした。
桃李堂の引き戸を開けると、またあの香ばしい香りが迎えてくれた。エチオピアの豆。律さんは気に入ったのだろうか。
「おはようございます」
カウンターの奥にいた律さんが、ゆっくりと顔を上げる。白いシャツに、今日は淡いグレーのエプロン。胸元にはさりげなくペンが差してあった。
「おはようございます。……来てくださって、嬉しいです」
その言葉に、私は少しだけ、胸の奥が温かくなった。
「また、会いたくなってしまって」
自分でも、その言葉の響きに少し驚いていた。
律さんが静かに首をかしげる。
「そば猪口、まだ気になっているんですね?」
一拍、ことばが喉で引っかかった。
たしかに――そう、あのそば猪口に会いたくて来た。けれど、それだけだったのだろうか。
あのそば猪口の、ひっそりとしたたたずまい。そして、それをそっと差し出してくれた静かな横顔。
思い浮かぶ景色の中に、あのそば猪口とともに律さんの姿が現れた。
「……はい。……あの、そば猪口に」
そう口にした瞬間、胸の奥がふわりと揺れたような気がして、自分でも少し戸惑う。
律さんは笑って、展示棚の奥へ歩いていった。
低い位置にあった木箱から、あの雨降り文のそば猪口をそっと取り出して、私の前に差し出す。
「ちゃんと、待っててくれましたよ」
テーブルの上に置かれた器は、前よりも少しだけ親しげに見えた。不思議だ。先週と変わらないはずのそば猪口が、まるで私の来訪を待っていたかのように思えるのは、傲慢だろうか。
「なんだか……ほっとします」
私は静かに腰を下ろし、そば猪口に指先を添える。しっとりと柔らかな質感に冷たさはなく、むしろほんのりとしたぬくもりすら感じた。
「あれからずっと、気になっていたんです。なぜかわからないけど、忘れられなくて」
「ありますよ、そういう器」
律さんの声も、先週と同じように穏やかだった。
でも、今日は少しだけ、私の中の風景が違う。
「……連れて帰っても、いいですか?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。
「もちろん。よかったら、箱も合わせてご用意します」
律さんは、微笑んで立ち上がり、帳場の奥から木箱を取り出してきた。柔らかな布が敷かれた箱の中に、雨降り文のそば猪口が丁寧に収められる。
私は、それを見つめながら、ふと訊きたくなった。
「律さんは……器を、手放すとき、寂しくなったりしませんか?」
彼は少しだけ驚いたように目を見開いて、それからゆっくりと首を横に振った。
「不思議なものですよね。寂しくなるどころか、むしろ安心するんです。――たぶん、それが器にとっての縁だから。きっと、行くべきところに行くんだろうなって。……まあ、僕のコレクションは商品と別にしてるから、かもしれませんが……」
それは、まるで人と人との関係みたいだと思った。
出会って、惹かれて、やがて一緒になる。器もまた、そんなふうに人と縁を結んでいくのかもしれない。
手提げの中に、木箱をそっと収めてもらう。持ち上げたときに感じる、たしかな重み。その感触に、私はひとつの器を手に入れたのだと実感する。
「器といい時間を、一緒に過ごしてもらえたら嬉しいです」
「ありがとう、ございます」
自然と頭が下がった。
律さんは静かに笑って、深くうなずく。
引き戸を開けると、遠くから蝉の声がゆるやかに響いてきた。季節はどんどん夏らしくなってきている。
――このそば猪口と一緒に、これからいくつもの季節を過ごしていくんだ。
今までとは少しだけ違う日常が今日から始まる。私は胸の奥にそんな温かな予感を抱きしめ、そっと、でも確かな足取りで一歩を踏み出した。