記憶の輪郭
6月の風は、少しだけ湿っている。
髪の先が首筋にはりつくような、じわりと汗ばむ感覚があった。
午前中に降った雨の名残が、アスファルトの上にまだ残っている。
その日、私はお昼を少し過ぎたころに桃李堂を訪れた。ガラス戸の鈴が、いつものようにやさしく鳴る。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
奥の棚を整理していた律さんが、顔を上げて私を見る。少し乱れた前髪を無造作にかき上げながら、やわらかく笑った。
なんてことない仕草なのに、つい視線を惹きつけられてしまう。
ただの仕草なのに、どうしてか心の奥が少し騒がしい。私はそれをごまかすように言った。
「……今日は、なんというか、ネタ探しに」
「いいですね。言葉の種、転がってるかもしれませんよ」
私がソファに腰をおろすと、律さんはいつものようにコーヒーの準備に取りかかる。もう、どちらから言い出すでもなく、自然な流れになっていた。
豆を挽く優しい音が静かに空間を満たす中、ふと戸の外で人の気配がした。
――カラン。
鈴が再び鳴り、ひとりの女性が入ってきた。ゆったりとした黒いワンピースに、艶のない雨傘。年のころは50代くらいだろうか。顔立ちは上品に整っているのに、どこか影を落としているように見えた。
「……こんにちは。こちらで、古い陶器を……見ていただけると、聞きまして」
律さんは軽く会釈して、すぐに応じた。
「ええ、拝見しますよ。どうぞ、こちらへ」
律さんの声はいつも通り穏やかだけど、どこか、少しだけ張りつめた空気を感じた。
女性は手にした紙袋から、包みをそっと取り出す。古びた紙の乾いた音とともに、包みの中から現れたのは、小さな白磁の碗だった。やや厚手で丸みを帯びた端正な形だ。
あたたかみのある白が、しっとりと光を反射している。
「これは……李朝の白磁ですね。18世紀前半、金沙里窯のものだと思います。良いものですよ」
律さんが小さな白磁の碗を持ち上げ、掌でそっと支えながら見つめる。女性は無言のまま、その様子をじっと見ていた。
その目には、何かをたしかめようとするような、しかし自分でもそれが何なのか分かっていないような、かすかな揺れがあった。
「……これ、父がずっと持っていたもので。亡くなって遺品の整理をしていたら、なぜかこれだけ、丁寧にしまわれていて……」
「なるほど。――思い入れの強い品だったのかもしれませんね」
女性はうなずき、でもすぐにかすかにかぶりを振った。
「実は、父とはあまりうまくいってなくて。……だから、どうしてこれを大事にしていたのか、よく分からないんです。ずっと気になっていて……処分するにしても、気持ちの整理がつかなくて」
言葉はそこまでだったけれど、彼女の目は、律さんに何かを問いかけているようだった。
――この器が、何を抱えていたのか、教えてほしい。そんなふうに見えた。
律さんは、小さな白磁の碗を丁寧に紙の上へと戻しながら、おだやかに言った。
「これは、とても静かな器ですね。華やかさはないけれど、手に持つとしんみり温かいような。……きっと、使っていた方の時間も、そういうものだったんじゃないかと、僕は思います」
女性はしばらく黙っていたが、やがてそっと目を閉じてうなずいた。
まぶたを閉じたまま、何かを飲み込むように深く息を吐く。その表情が、少しだけやわらいだように見えた。
「……もう少しだけ、手元に置いておこうと思います。すみません、変なことを言って」
「いえ。物には、気持ちが映りますから」
彼女は深く頭を下げ、店を後にした。残された空気は、少しだけ重たく、そしてどこかやさしかった。
「……律さん」
「はい」
「さっきの器、律さんが言ったとおり、すごく静かでしたね。……私でも、なんとなくそんな気がしました」
「ええ。李朝の白磁は、静かでしんみりとした趣きが魅力です。とある美術評論家は悲哀の美と表現しました。……手にしていると、まるで白磁に想いが染み込んでいくみたいに感じるんですよね」
きっとそれは、人の心に通じる美しさがなすことなのだろう。
律さんは、コーヒーにそっと湯を落としながら言った。
「今日のコーヒーは、深煎りのマンデリンにしてみました。……雨上がりの余韻に、どうかと思って」
「今日はなんだか詩人みたいなこと、言いますね。私よりそれっぽいかも」
そう言いながらも、私は少し頬がゆるんだ。
彼の言葉が、私の余白に染み込んでくるようだった。なにかを書きたくなる気持ちが胸の奥に灯る。まだ言葉にならない、なにかを。
テーブルに置かれたカップから、湯気がやさしく立ち上っている。
私はそれを両手で包みながら、そっと口をつけた。
◆
午後の陽ざしが、店の奥にまで届いていた。
窓際の木の床には、ゆらゆらとそよ風に揺れる木葉の影が落ちている。
私はまだコーヒーの湯気を眺めながら、ぼんやりしていた。
「……やっぱり、この店ってちょっとずるいですよね」
ぽつりとこぼすと、律さんは顔を上げた。
「ずるい、ですか?」
「うん。空気がやわらかすぎて、気が抜ける。こう、何もかも『まあ、いっか』って気分になるというか……。よく言えば癒やされる、悪く言えば誘惑されてる気分」
「悪く言ってませんよね、それ」
「自覚あります?」
私の問いかけに、律さんはくすっと笑った。その笑い声すら、なんとなく温度がある。
「言ってしまえば、うちも客商売ですから。気が張るより、気がゆるむくらいがちょうどいいんですよ。……でも、そんなこと言うってことは、まだ筆が進んでないんですね?」
「う……。正解」
私は肩をすくめてみせる。正直に言えば、“まだ”どころか、このところ全く筆をとっていなかった。
ふいに、さっきの女性のことが脳裏にうかんだ。
「物には気持ちが映る、って言ってましたよね。あれ、なんかいいなって思いました」
「ありがとうございます。でも、ありきたりかもしれませんよ」
「いいんです。言葉って、特別じゃなくても届くことあるじゃないですか」
律さんは、コーヒーのポットを静かに置いた。その仕草ひとつとっても、やっぱりどこか丁寧だなぁと思う。
「……由梨さんは、どうなんですか」
「え、なにが?」
「書くとき、自分の気持ちってどれくらい入ってるものなんですか」
唐突な問いに少し驚きながら、私はカップを見つめた。
答えにくいけど、答えてみたい。そんな気持ちになったのは、きっとこの場所のせいだ。
「正直に言うと……うまくいってるときほど、自分が透明になったみたいに思えます。逆に、気持ちがうるさくなりすぎると、書けなくなるんですよね。……皮肉なことに」
「それ、僕もわかる気がします」
律さんは、棚の上にあるガラス瓶を軽く指ではじいた。カラン、と小さな音がした。
「僕の場合、器を見ているときですが。精巧に作られたものほど、それを使っていた人の姿が、気配が曖昧になっていくんです。……言葉も似てますよね、きっと」
私の中で言葉にならずにいるなにかに、うっすら輪郭がついたような気がした。
私はカップを持ち上げ、深煎りのコーヒーの香りを鼻に通す。
「……こういう遠回りする時間もいいですね」
「遠回りですか?」
「うん。直接的じゃないけど、こうしてると、ふいに何かが見えてくる気がするんです」
律さんは、小さくうなずいた。まるで、その言葉をあらかじめ知っていたように。
「遠回り、悪くないですよ。桃李堂は、そういう場所かもしれませんね」
窓の向こうで、風がふたたび緑の木葉を揺らした。
◆
律さんが棚の整理に戻ったあと、私はひとり、まだカップのぬくもりが残るテーブルに向かっていた。何かを書こうとしていたわけでもない。まだしばらく、この時間が止まったような静けさにただ身を委ねていたかったのだ。
あの白磁の碗。
あの女性の、少し迷いのあるまなざし。
私は思い返していた。彼女は、あの器を持って帰る決断をした。処分するのをためらったのか、もう一度、父親のことを考えてみたくなったのかもしれない。
そう思ったとき、ふと視界の隅に何かが入った。
机の上に、文庫本が一冊置かれていた。
柔らかなクリーム色のカバーが陽の光を淡く反射している。『星の王子さま』――背表紙には、そう書かれていた。
私はそっと手に取り、栞がはさまれていたページを見る。そこには、こんな一節があった。
“心で見なければ、ものごとはよく見えないってことさ。大切なものは、目に見えないんだ”
その言葉が、胸にすとんと落ちる音がした。
――目に見えないもの。
あの女性にとって、白磁の器にはたしかに何かが宿っていた。
それが父との確執なのか、それともその向こう側にあった別の記憶なのか、私にはわからない。
でも、たしかに彼女はそれを感じ取った。言葉にはならなくても、心のどこかで、なにかを見ていたのだと思う。
「……律さん、この本、読ませるために置いてました?」
私が声をかけると、奥から小さく返事がした。
「ええ。たまに、誰かが読んでくれたらいいなと思って。僕の好きな一節なんです」
「……律さん、ずるいことするなぁ、ほんと」
「また言われました」
くすっと笑う律さんの声に、こちらもつられて笑ってしまう。
窓の外を見れば、路地に射す陽ざしが乾きかけたアスファルトを淡く照らしていた。
午前中の雨の気配は、もうすっかり薄れている。
私はもう一度『星の王子さま』のページを開き、指先で紙の質感を確かめた。
見えないものを、見ようとする気持ち。
書くことも、きっとそれに近い。
私は静かにカバンを手に取る。
「今日は、なんだかいい種が拾えた気がします」
「そうですか。それはよかった」
律さんの言葉は、淡々としているようで、それでもやっぱり、どこか温度を持っている。
私は深く息を吸って、ドアのほうへと歩き出す。
ガラス戸を開けたとき、鈴がいつものように優しく鳴った。
柔らかな陽ざしが、街をやさしく包んでいる。
私は一歩、また一歩と歩きながら、ちらりと振り返った。
そこに佇む桃李堂は、街の日常のなかに埋もれていくようでいて、ほんの少しだけ別の時間が流れている場所のように思える。
――物には気持ちが映る。
きっと今頃、あの女性は小さな白磁の碗と一緒に、父との記憶をもう一度見つめなおそうとしているのだろう。
目に見える器というものを通して、目に見えないものごとを心で見る。それが、とても尊いことのように思えた。