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雨の日の出逢い


 天気予報、信用しなきゃ良かった。

 朝の空はあんなに青かったのに、気づけば重たい雲に覆われて、今は雨まで降ってくる始末。

 これからは折りたたみ傘を持ち歩こう。そう思いながら商店街を半ば駆けるようにして通りすぎ、ふと見つけた軒下へと逃げ込む。


 木造二階建ての小さな店だ。雨に濡れたガラス戸の上には、古めかしい木の看板がかかっていた。


 ――古美術 桃李堂――


 看板には旧紙幣で使われていたような書体で、そう黒々と記されている。


(古美術店……?)


 雨宿りにしては、ちょっと入りづらい。軒下でどうしたものかと迷っていると、ふいにガラス戸の奥から、ガリガリと何かを挽いている音が聞こえてきた。


 たぶん、誰かがコーヒー豆を挽いているんだ。そんな香ばしい予想に背中を押されて、私は思いきって戸に手をかけた。


 ――からん。


 軽やかな鈴の音が鳴る。


「……こんにちは。すみません、少し雨宿りさせてもらってもいいですか?」


 そう声をかけながら入った店内は、たくさんの古道具が無造作に積まれている――のではなかった。思っていたよりも、ずっと落ち着いた雰囲気だ。


 壁にそって配置されたチョコレート色の木棚には皿が何枚も飾られ、片隅のショーケースには硯や茶道具のようなものがところどころに配置されていた。


 どこにもほこりっぽさがない店内は、ただ柔らかな木の香りと香ばしいコーヒーの香りがする。


 ぼんやり店内を眺めていると、棚の奥から背の高い青年が現れた。


 黒のシャツにチャコールグレーのエプロン。スラリとした長身に、涼しげな目元。くしゃっとしたくせ毛を、軽く流すようにセットしている。


 ぱっと見は古美術店というより、日当たりの良いおしゃれなカフェのバリスタと言った方がしっくりくる容姿。それでいて、この空間に不思議と調和していた。


「もちろん。――びしょ濡れですね」


 彼はそう言って、棚の脇から畳まれたタオルを差し出してくれた。声は低く、でも思いのほかやわらかい。


「ありがとうございます……助かります」


 私はそれを受け取って、髪と頬をそっと拭いた。


「ここ、骨董屋さんですよね? でも、コーヒーのいい香りがする」


 彼は少しだけ口元を緩めて言った。


「ええ。桃李堂――古美術の店です。コーヒーは趣味で。いまちょうど、自分用に淹れるところでした」


「すみません、お邪魔しちゃいましたね」


 彼は私の言葉に少し驚いたように目を丸くしてから、すぐに笑った。


「いえいえ、僕が本当にくつろぎたい時は、店を閉めておけばいい話なので。――よろしければ一杯、いかがですか?」


 思いがけない申し出に、私は一瞬言葉を失った。見知らぬ店で、見知らぬ人とコーヒーを飲むなんて、少しだけ物語の中みたいだ。というか、さっきからこのお店も、この人も、なんとなく夢のように現実感が薄い。


 「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。ありがとうございます」


 私の返事に、彼は静かにうなずき、ふっと目元をゆるめた。


 「もちろん。そちらのソファーでお待ちください」


 そう言って彼が指さした店内の一隈には、低めのテーブルとアンティーク調のソファーが置かれていた。

 彼はカウンターの奥へと戻り、手早くドリッパーとポットを準備しはじめる。動きに無駄がなくて、何度も淹れてきたんだろうな、と思わせる手つきだった。


 その間、私は店内をぐるりと見渡す。壁には墨をメインに控えめな色彩で彩られた山水画の掛け軸や額におさめられた油絵が、棚には大小さまざまな皿や、小ぶりな壺なども並んでいる。


 やがて、コーヒーを淹れるこぽこぽという柔らかなお湯の音とともに、やさしい香りが届いてきた。


「どうぞ。熱いので、気をつけて」


 彼がそっと差し出したカップは、手にしっくりと馴染む厚みがあった。


 外側は黒く、ところどころに茶色の斑点があり、内側はまるでカスタードクリームのような、やさしい白色。注がれたコーヒーの色との境が、いかにも美味しそうに見える。


「……きれいなカップですね」


「1970年代ごろ、ある民芸作家が焼いたものです。鉄釉の黒と、内側の粉引(こびき)の白――素朴なバランスが、好きで」


 私はそっとカップを唇に運んだ。


 苦みの中に、どこか甘みがあるような、やわらかな味。体の中からじんわりと温まっていく。


「美味しい……カフェにいるみたい」


「よく言われます。でも、うちはあくまで美術商ですよ」


 どこかいたずらっぽく返す彼の言葉に、私もつい笑ってしまった。


「あなたが、店主さんですか?」


「はい。桃李堂主人の律といいます」


「律さん……」


 なんとなく名前を反芻してから、私は自分の名も名乗った。


「私は由梨っていいます。……趣味で、たまに詩を書いてます」


「へえ。じゃあ、言葉で……表現で遊ぶのが好きなんですね」


「はい、でも最近ちょっと詰まってて。気分転換に出かけてみたら、この雨です。……このお店、不思議な感じがしますね。物語の入口みたいな」


 私がそう言うと、律さんはほんの一瞬だけ目を細めた。


「そう思ってもらえるのは、嬉しいですね。――ここにあるものは、どれも持ち主や時代を越えてきたものたちです。なので、いろんな話を背負っていますから」


 その言葉に、胸が少し高鳴った。

 

 雨が降り出したときには、ついてないな、なんて思ったけど、実はついていたのかも。あたたかいカップを両手で包みながら、私は思った。

 この偶然の出会いが、なにか新しいものを連れてきてくれた気がする。

 思えばこんなふうに、誰かとゆっくりとした時間を過ごしたのは久しぶりだった。


「……また、来てもいいですか?」


 そう尋ねると、律さんは今度はまっすぐに目を合わせて、ゆっくりと頷いた。


「ええ。雨が降ってなくても、ぜひ」



           ◆



 翌週の午後、私は再び桃李堂を訪れた。

 空はからりと晴れている。律さんが言ってくれたように、雨が降っていなくても自然と足が向いた。


 商店街を通り抜け、木の看板の下に立つ。前回来たときよりも、少しだけ親しみを覚える。

 ガラス戸を開けると、あの軽やかな鈴の音が耳に心地よく鳴った。


「こんにちは」


「いらっしゃい。……ああ、由梨さん」


 奥から顔を出した律さんが、名前を覚えていてくれたことに、胸の奥が少しあたたかくなる。


「コーヒー、飲みますか? 前と同じもので」


 律さんがそう尋ねる。声は控えめだけど、前回来たときより、どこか親しみを含んでいる気がした。


「はい、ぜひ。あのカップ、好きでした」


 私がそう答えると、律さんは軽くうなずいて、わずかに口元を緩めた。


 律さんは変わらずチャコールグレーのエプロンをして、落ち着いた動きで豆を量り始めた。


 私は前回と同じソファに腰を下ろし、周りの木棚に並べられた小ぶりな壺や皿をなんとなく眺める。ひとつのそば猪口に、目が留まった。


「これ、なんだか不思議な模様ですね。ギザギザした……何をモチーフにしたんだろう」


そば猪口の縁には、筆の腹を押し付けたような文様がぐるりと一周めぐっている。


「それは、雨振り文という文様です。作られたのは江戸時代の中期。なかなか出来の良い古伊万里のそば猪口ですね」


「雨の……文様ですか」


「ええ。器に雨が降ってる、って面白いと思いませんか?」


 そう言って、律さんは笑った。

 私はふと気になって、思わず問いかけた。


「このそば猪口、どんな人が使ってたんでしょうね」


 その質問に、律さんは少しだけ間を置いて、静かに言った。


「正確なことは分かりません。でも、器は人の手にあった時間や、そこにあった空間の雰囲気を記憶している気がします」


「……器がですか?」


「たとえば、そのそば猪口。目立たないけど、縁に小さな傷――僕たち美術商が()()と呼ぶ、米粒より小さな欠けがあります。それは、そのそば猪口が生活の中にあった証拠です。丁寧に扱われつつも、どこか素朴で、親密な空間にあったんじゃないかな。――と、僕は想像しています」


 律さんの言葉は、ただの知識ではなくて、まるで器の声を代弁しているみたいだった。

 私はそば猪口を手にとり、その肌をそっと指でなぞった。ひんやりとした冷たさの中に、どこかやわらかいものを感じる。


「由梨さんは、詩を書く時、物から発想することもありますか?」


「まぁ、たまには。とくに、何気ないものに惹かれます。……律さんが言ったような、器に残った暮らしの痕とか、そういうの、言葉のきっかけになる気がして」


「それなら、桃李堂はちょうどいい場所かもしれませんね。ここには“語りたがり”がたくさんある」


「……語りたがり」


 律さんは少しだけ笑って、言葉を足した。


「目立ちたがり屋じゃなくて、静かに、でも強く語りかけてくるような物たち。……耳を澄ませば、けっこう騒がしいと思いますよ」


 その言葉に、私はつい笑ってしまった。


 ほどなくして、律さんがコーヒーを差し出してくれる。前と同じカップに注がれたそれは、今日もやさしく香っていた。


「……ありがとうございます」


「いえいえ。ここでは、お客さんも、道具たちの()()()なんです」


「じゃあ、今日も聞き役をしますね」


 カップに口をつけながら、私は心の中でそっとメモをとる。

 このお店で出会う器たち、律さんの言葉、漂う空気。すべてが言葉の種になる気がしていた。


 ――もしかしたら、私自身も、誰かの語りたがりなのかもしれない。ふと、そう思った。



           ◆



 カップを手に、私はふう、とひと息ついた。


「……やっぱり、律さんのコーヒー、美味しいです」


「よかった。自分用のつもりが、いつの間にか誰かと飲む前提で淹れるようになってきたかもしれません」


 律さんはそう言って、少しだけ目元を細める。


「もともと、お店に来る人とは、あまり話さないんですか?」


「まあ、ゆっくりお話する常連の方もいますが、大概の場合はそうですね。古美術が好きな人はもの静かな方も多いので。あとは、買うものだけ見てすぐ帰られる方も多いですし」


「……じゃあ、私みたいなのは珍しいんだ」


 少し照れくさくなって、カップの縁をなぞる。


「珍しいけど、歓迎していますよ。由梨さんは、話を引き出してくれるから。店にあるものたちも、きっと喜んでる」


「うーん、それって、話し好きな物たちに囲まれてるってことですよね。……おしゃべりすぎて、うるさい夜とかないですか?」


 私が冗談っぽく言うと、律さんは吹き出した。


「たまに、ありますね。ちょっと物の気配が強すぎるような夜も。……まあ、僕の想像力が強いんでしょう」


「詩人志望の私ですら、まだそこまではないですよ?」


「いずれ、僕みたいになるかもしれませんよ」


 そんな他愛のないやりとりの中にも、あたたかい空気が流れているのを感じる。私と律さんの間にある、まだ名もない距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。


 コーヒーを飲み終えるころには、外の陽射しがすっかり傾いていた。ガラス戸越しに見る空は、柔らかな金色に染まっている。


「そろそろ、帰らないと」


 立ち上がると、律さんも穏やかに頷いた。


「お気をつけて。……また、ふらっと寄ってください」


「はい。また()()()()()の話、聞かせてくださいね」


 そう言って笑うと、律さんはふっと微笑み返した。


 ガラス戸を開けると、外の空気が頬に涼しく触れた。


 商店街には夕飯の支度を思わせる香りが混じっている。それは、なんでもない日常のにおいだ。


 そんな街の中、私の中にいままで無かった小さな余白ができていることに気づいて、ふと立ち止まる。

 きっとこれは、桃李堂を訪れたことでうまれた余白だ。これまで触れてこなかった世界での新しい出会いがもたらしたものかもしれない。


 その余白に、いつか言葉を置けるような気がして、私はまたゆっくりと歩き出した。

      


読んでくださりありがとうございます。

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