第9話:失われた技術のヒントと絵に残された記憶
アルティザンの朝は、夜明けと共に始まる工房の槌音と、焼き物の窯から立ち上る煙の匂いで幕を開ける。エシンは、昨日ガラス工房で見た「七彩ガラス」の不思議な輝きと、親方の寂しげな言葉が頭から離れず、朝食もそこそこに再び工房へと足を向けた。
もし、自分の絵が何か少しでも役に立てるのなら――そんな思いが、彼を突き動かしていた。
ガラス工房に到着すると、既に若い職人たちが黙々と作業の準備を始めていた。親方の姿はまだ見えない。エシンは、昨日言葉を交わした若い職人――名をリオというらしい――に声をかけた。
「リオさん、おはようございます。親方はいらっしゃいますか?」
「エシンさん。親方なら奥の部屋で、また古い資料とにらめっこですよ。朝一番からずっと……」
リオは少し困ったような、それでいて心配そうな表情で答えた。
「古い資料、というと……もしかして、七彩ガラスの?」
「ええ。昨日あなたが見た、あのガラス玉の……。本当に、親方はあれに生涯を捧げているようなものですから」
リオに案内されて奥の部屋へ行くと、そこには無数の羊皮紙や古びた木の板に描かれた図面のようなものが散乱し、その中で親方が眉間に深い皺を寄せ、一枚の黄ばんだ羊皮紙を睨みつけていた。エシンの気配に気づくと、親方は少し疲れた顔を上げた。
「おお、絵描きの若者か。どうした、また何か面白いものでも見つかったか?」
「いえ……昨夜、食堂で『七彩ガラス』の噂を聞きまして。それと、親方がおっしゃっていた『失われた技術』のことが気になって。もし、僕に何かお見せいただける資料があれば、と……その、絵の参考になるかと思いまして」
エシンは少し遠慮がちに切り出した。
「ふん、物好きだな、あんたも。こんなガラクタ同然のものを参考にしたいとは」
親方はぶっきらぼうに言ったが、その口調に拒絶の色はない。彼は、机の上に広げられていた数枚の羊皮紙を指差した。
「これが、先々代が残したとされる『七彩ガラス』の設計図の一部だ。……と言っても、見ての通り、虫食いだらけで、何が描いてあるのか判読不能な部分も多い。それに、先々代は独特の記号や言い回しを使う人でな。解読もままならんのだ」
エシンは息をのんで、それらの羊皮紙を覗き込んだ。確かに、親方の言う通り、インクは滲み、所々は破れて欠損し、見たこともない記号のようなものが書き込まれている。しかし、断片的に残された線や図形からは、何か非常に複雑で精密な構造が示唆されているようにも見えた。
「親方、もしよろしければ、これらの資料と、昨日見せていただいたあのガラス玉を、もう一度じっくりと観察させていただけませんか? 何か、気づくことがあるかもしれません」
「……好きにしろ。だが、期待はするなよ。何十年も、この街の誰にも解けなかった謎だ」
親方はそう言うと、再び別の資料に目を落とした。
エシンは、ガラス玉と設計図の断片を、光のよく入る窓際の作業台に並べた。そして、スケッチブックを取り出し、まずはガラス玉そのものを、様々な角度から丹念にスケッチし始めた。光の当たり方で微妙に変化する内部の模様、ガラスの厚み、球体のわずかな歪み。全ての情報を、指先と目を通して紙の上に写し取っていく。
次に、設計図の断片を一つ一つ手に取り、ガラス玉の構造と照らし合わせながら、欠損した部分や判読不能な記号の意味を推測し、スケッチブックに補完するように描き込んでいく。それはまるで、バラバラになったパズルのピースを、想像力と観察力を頼りに組み上げていくような作業だった。
あの森の中の廃墟で、過去の光景がぼんやりと浮かび上がった時の感覚が、エシンの脳裏をかすめた。あの時は、無意識のうちに何かが繋がったような感覚だったが、今回は違う。意識的に、論理的に、そして直感的に、失われた情報を紡ぎ出そうとしている。
彼の集中力は極限まで高まり、周囲の音は完全に遮断された。ただ、目の前のガラス玉と設計図、そしてスケッチブックの上の鉛筆の音だけが、彼にとっての現実だった。
ガラスの内部に封じ込められた複雑な模様は、単なる装飾ではない。それは、光を屈折させ、分光させ、そして再び合成させるための、微細な構造の集合体なのではないか。設計図の断片に残された奇妙な曲線や角度は、そのための計算式や、製造工程の特殊な手順を示しているのかもしれない。
どれほどの時間が経っただろうか。エシンが顔を上げると、工房の窓から差し込む光は、既に西に傾き始めていた。彼のスケッチブックには、数ページにわたって、ガラス玉の精密な断面図や、設計図を復元・再構成したと思われる図面、そして、それらを元に彼なりに解釈した製造工程のフロー図のようなものが描き込まれていた。それは、もはや単なるスケッチではなく、一種の技術論文の挿絵のようでもあった。
「……できた」
エシンは、かすれた声で呟いた。全身が心地よい疲労感に包まれている。
その声に、親方と、いつの間にかエシンの背後に集まっていたリオたち若い職人たちが、息をのんでスケッチブックを覗き込んだ。
「こ、これは……」
最初に声を上げたのはリオだった。
「この部分の構造……そうか、こうなっていたのか! だから、あの奇妙な光の反射が……!」
「この記号は、もしかしたら、ガラスを冷却する際の特定の温度変化のパターンを示しているのかもしれないぞ!」
「こっちの図は、特殊な金属粉末を混入させるタイミングか……? 先々代の日記に、それらしき記述があったような気がする!」
職人たちは、エシンの描いたスケッチを食い入るように見つめ、口々に意見を交わし始めた。これまでバラバラだった知識や推測が、エシンの絵を触媒として、次々と結びついていくようだった。親方も、最初は懐疑的な目で見ていたが、やがてその表情は驚きと興奮へと変わっていった。
「……若者よ。あんたは、一体何者だ? これは……これは、我々が何十年も見つけられなかった、七彩ガラスの核心に迫るものかもしれんぞ……!」
親方の声は、感動で震えていた。
エシンは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「僕はただの絵描きです。皆さんの知識と技術があってこそ、これらの絵も意味を持つのだと思います。僕には、ガラスを作ることはできませんから」
彼は、自分の役割を理解していた。自分は、失われた技術の「記憶の断片」を絵という形で可視化し、職人たちの持つ知識と経験を繋ぎ合わせるための、ほんの少しのきっかけを与えたに過ぎない。
その夜、ガラス工房は遅くまで灯りが消えることはなかった。親方と職人たちは、エシンのスケッチを元に、早速七彩ガラスの試作に取り掛かる相談を熱心に続けていた。彼らの顔には、長年の閉塞感を打ち破るかのような、新たな希望と活力が満ち溢れていた。
エシンは、工房の喧騒を背に、静かにその場を辞した。彼が直接ガラスを作るわけではない。しかし、自分の絵が、この街の伝統と未来を繋ぐ一助となれたのかもしれないという事実は、彼の胸を温かい達成感で満たした。
アルティザンの空には、無数の星が輝いていた。それはまるで、これから生み出されるであろう七彩ガラスの輝きを予感させるかのようだった。
エシンのスケッチブックには、また一つ、誰かの未来を照らすかもしれない「絵の記憶」が、深く刻まれた。この街での滞在も、そろそろ新たな局面を迎えようとしていた。
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