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第7話:旅立ちと森の小さな友達

 アクアリアでの最後の朝は、湖面を渡る清々しい風と共に訪れた。エシンは、マルコが心を込めて用意してくれた温かい朝食を囲みながら、これまでの感謝の言葉を伝えた。


「マルコさん、本当にお世話になりました。この街で過ごした日々は、僕にとって宝物です」

「いやいや、エシンさん。こちらこそ、あの素晴らしい看板を描いていただき、感謝の言葉もありません。寂しくなりますな……」

 マルコは皺の刻まれた目元を一層深くして、寂しそうに微笑んだ。


 朝食後、エシンは街の人々へ挨拶回りをすることにした。まずは、いつも威勢のいい声を響かせていた魚屋の親父の元へ。「湖畔亭の看板、大したもんだぜ! あんたのおかげで、あの宿もますます賑わうだろうよ!」と豪快に背中を叩かれた。次に、幻の「月の雫煮」を振る舞ってくれた「サザナミ亭」の老婆を訪ねると、相変わらずぶっきらぼうながらも、「次に来る時までに、また月虹鱒、仕入れておいてやるさ」と、少しだけ口元を緩めてくれた。

 街の子供たちは、エシンが描いたアクアリア湖のスケッチの模写を手に、「エシン兄ちゃん、また遊びに来てね!」と別れを惜しんでくれた。エシンの絵は、彼らにとっても新鮮な驚きと喜びを与えたようだった。


 昼過ぎ、湖畔亭の前に立つと、マルコが旅の餞別だと言って、手作りの干し肉と、水筒いっぱいのハーブティー、そして小さな革袋に入った銀貨を差し出した。

「これはほんの気持ちです。エシンさんのこれからの旅が、実り多いものになりますように」

「マルコさん……本当にありがとうございます」

 エシンは胸がいっぱいになりながら、それらを受け取った。


 見送りに来てくれたマルコや数人の街の人々に手を振り、エシンはアクアリアの街を後にした。振り返ると、自分が描いた「湖畔亭」の看板が、誇らしげに陽光を浴びているのが見えた。あの看板が、これからも多くの旅人を迎え入れるのだろう。


 次の目的地は、レンブラントのギルドでその名を聞き、マルコからも「職人の街」として名高いと教えられた「アルティザン」だ。様々な工房が軒を連ね、優れた工芸品が生み出されるというその街は、エシンの創作意欲を強く刺激していた。

 アクアリアから少し離れた、人気のない森の入り口で、エシンはスケッチブックを開いた。レンブラントで手に入れた地図と、マルコから聞いたアルティザンの特徴――例えば、街の中央には大きな時計塔があり、多くの工房の煙突から煙が立ち上っているといった情報――を元に、アルティザンの街並みを想像して描き込む。


(職人の街、アルティザンへ!)


 集中して念じると、いつものように視界がぐにゃりと歪み始めた。しかし、今回はいつもと少し様子が違った。一瞬、目の前に全く知らない、赤茶けた岩山の風景がフラッシュバックのように差し込まれ、軽い衝撃と共に身体が揺さぶられる感覚があった。

 そして、転移が完了したと思った瞬間、エシンが立っていたのは、活気ある街中ではなく、鬱蒼とした深い森の中だった。


「あれ……? ここはどこだ?」


 周囲を見渡しても、工房の煙突も時計塔も見当たらない。どうやら転移に失敗し、予定とは違う場所に出てしまったらしい。先ほどの一瞬の揺らぎが原因だろうか。

 ため息をつきながら、正確な位置を把握しようとスケッチブックで広域地図を描き出そうとしたその時、エシンの耳に、か細い鳴き声が届いた。


「キュウ……キュウ……」


 声のする方へ近づくと、木の根元に仕掛けられた古い罠にかかり、小さな動物がもがいているのが見えた。それは、リスと兎を合わせたような姿をした、見たことのない小動物だった。大きな丸い耳、ふさふさとした灰色の尻尾、そして濡れたように黒く潤んだ瞳が、恐怖と苦痛に歪んでいる。片方の後ろ足が、錆びた金属の罠に挟まれていた。


「大変だ! 大丈夫かい?」


 エシンは慌てて駆け寄った。小動物はエシンの姿に驚き、さらに激しく暴れようとするが、罠が食い込んで余計に苦しそうだ。

 エシンはまず、落ち着かせようと優しい声で話しかけながら、そっと罠の構造を観察した。単純なバネ式の罠のようだが、素手で開くのは難しそうだ。

 彼はスケッチブックから丈夫な木の枝を数本「描き出し」、それをテコの原理で罠の隙間に差し込んで、少しずつ開いていく。戦闘能力はないが、こういう細かな作業や、道具の仕組みを理解するのは得意だった。


「よし、もう少し……!」


 じわりと汗が滲む。数分間の格闘の末、パキン、という音と共に罠が開き、小動物の足が解放された。

 小動物は自由になった途端、エシンから距離を取ろうとしたが、傷ついた足ではうまく動けないようだ。その場にうずくまり、小さく震えている。足からは血が滲んでいた。


「大丈夫、もう痛くないよ。少し手当てさせてくれないか?」

 エシンは、スケッチブックから清潔な白い布と、水筒の水を少量「描き出し」、そっと傷口を清め、布で優しく包帯のように巻いてやった。幸い、骨は折れていないようだ。

 手当ての間、小動物は最初は警戒していたものの、エシンの穏やかな手つきと声に、次第に抵抗しなくなっていった。


 手当てが終わると、エシンはリュックから干し肉を少しちぎり、小動物の前にそっと置いた。

「お腹、すいただろう?」

 小動物はしばらくためらっていたが、やがておそるおそる干し肉に鼻を近づけ、小さな口で食べ始めた。


 その日から数日間、エシンとその小動物――エシンは勝手に「ミミリ」と名付けた――の奇妙な共同生活が始まった。ミミリは傷が癒えるまで、エシンの傍を離れようとしなかったのだ。夜はエシンの寝袋の隅で丸くなって眠り、昼間はエシンがスケッチをする傍らで、木の実を探したり、ちょこちょことエシンの足元を駆け回ったりした。

 エシンはミミリの愛らしい仕草をスケッチしたり、森の中で見つけた食べられそうな木の実を分け合ったりしながら、穏やかな時間を過ごした。ミミリの存在は、予期せぬ森の中での足止めを、心温まるひとときに変えてくれた。


 数日後、ミミリの足の傷もすっかり癒え、元気に森を走り回れるようになった。エシンも、改めてアルティザンへの転移を試みる準備を整えた。今度は、レンブラントで手に入れたより詳細な地図情報を元に、慎重にスケッチを行った。

 旅立ちの朝、エシンがリュックを背負うと、ミミリは何かを察したように、エシンの足元にすり寄ってきた。そして、どこからか咥えてきた、艶やかな赤い木の実を、エシンのブーツのそばにことりと置いた。


「これは……くれるのかい?」

 ミミリは「キュウ!」と短く鳴き、エシンの顔を見上げた。まるで、感謝の印だと言っているかのようだ。

 エシンは胸が熱くなるのを感じ、その赤い木の実を大切に拾い上げた。

「ありがとう、ミミリ。元気でな」

 エシンがミミリの頭を優しく撫でると、森の奥から、ミミリと同じような姿の数匹の仲間たちが現れた。ミミリは一度エシンを振り返り、そして仲間たちと共に森の奥へと駆け去っていった。


 小さな友達との別れに少し寂しさを感じながらも、エシンはスケッチブックを構えた。

(今度こそ、アルティザンへ!)

 念じると、今度はスムーズに視界が切り替わった。


 次に目を開けた時、エシンの目の前には、石畳の広場と、そこかしこから立ち上る煙突の煙、そしてカンカン、ゴトンゴトンというリズミカルな金属音や木工の音が響く、活気に満ちた街並みが広がっていた。街の中央には、噂に違わぬ大きな時計塔がそびえ立っている。空気には、鉄を焼く匂いや、磨かれた木の香り、そして何かの薬品のような独特の匂いが混じり合っていた。


「ここが……職人の街、アルティザンか」


 エシンはごくりと唾を飲んだ。アクアリアとは全く異なる、力強く、そして創造的なエネルギーに満ちた街の空気に、彼の胸は高鳴っていた。

 ミミリとの出会いが心に灯した温かな光と、この街への期待を胸に、エシンはアルティザンでの新たな一歩を踏み出した。どんな技術が、どんな芸術が、そしてどんな人々が彼を待っているのだろうか。

 彼のスケッチブックが、また新たな物語で満たされる予感がした。

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