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第6話:森の中の廃墟と過去の残照

 アクアリアでの日々は、湖面のさざ波のように穏やかに、しかし確実に過ぎていった。エシンが精魂込めて制作していた宿屋「湖畔亭」の看板は、ついに完成の時を迎えた。

 アクアリア湖の澄んだ青と周囲の山々の緑を背景に、銀鱗魚が生き生きと跳ね、その中央には温かみのある書体で「湖畔亭」の文字が踊る。マルコはその出来栄えにいたく感動し、何度もエシンの手を握っては感謝の言葉を繰り返した。看板が宿の軒先に掲げられると、街の人々からも「素晴らしい絵だ」「これなら客足も増えるだろう」と称賛の声が上がり、エシンは照れくさそうに頭を掻いた。


 看板制作という大きな仕事を終え、エシンの心には達成感と共に、そろそろこの美しい街を離れる時が近づいているという予感も芽生え始めていた。マルコとの夕食の席で、そんな思いをそれとなく口にすると、彼は寂しそうな顔をしながらも、エシンの旅を応援すると言ってくれた。


「エシンさんのような素晴らしい絵描き殿が、一つの場所に留まっているのは勿体ない。もっと広い世界を見て、その感動を絵にしてくだされ。……そうだ、もしこの街を離れる前に時間があるなら、少し足を延ばしてみるといい場所がありますぞ」

「いい場所、ですか?」

「ええ。この街の西、森の奥深くに、古い廃墟がありましてな。昔は貴族の別荘だったとか、小さな修道院だったとか、色々な噂がありますが、今ではすっかり忘れ去られて、訪れる者もほとんどいない場所です。しかし、何というか……そこには不思議な静けさと、時間が止まったような空気がありましてな。絵の題材になるかもしれませんぞ」


 廃墟。その言葉に、エシンの好奇心が刺激された。朽ち果てていく建造物には、独特の美しさと物語性が潜んでいる。マルコが言うように、新たなスケッチの題材になるかもしれない。

 翌日、エシンはマルコに簡単な道順を教えてもらい、弁当と水筒、そしてスケッチブックをリュックに詰めて、西の森へと向かった。


 森は深く、昼なお薄暗い場所もあったが、木漏れ日が優しく降り注ぎ、鳥の声が心地よく響いていた。三十分ほど歩いただろうか、マルコの言っていた通り、苔むした石垣と、崩れかけたアーチ状の門が現れた。かつては立派な庭園だったであろう場所は、今では背の高い草木に覆われている。その奥に、蔦に絡まれた石造りの建物が、静かに佇んでいた。二階建てのようだが、屋根の一部は崩落し、窓枠も朽ち果てている。


「ここか……」


 エシンは息をのみ、ゆっくりと敷地内へ足を踏み入れた。人気はなく、聞こえるのは風の音と、時折響く自分の足音だけ。建物の中は、床板が抜け落ちている場所もあり、壁には染みが広がり、天井からは光が差し込んでいる。しかし、不思議と不気味さは感じなかった。むしろ、長い年月を経て自然と一体化したような、荘厳さすら漂っている。


 エシンは、建物の中心らしき、かつては広間だったであろう場所にイーゼルを立てた。残された暖炉の跡、壁に残る微かな壁画の痕跡、床に散らばるタイルの破片。それらを手がかりに、この建物が最も輝いていたであろう頃の姿を想像する。

 どんな人々がここで暮らし、何を思い、どんな日々を送っていたのだろうか。楽しげな会話、暖炉の温かさ、窓から差し込む柔らかな光。

 エシンはスケッチブックに、まず廃墟の現在の姿を克明に描き、次に別のページに、その想像を元にした過去の姿――美しい調度品に彩られ、人々が談笑する暖かな広間――を、夢中で描き始めた。


 集中が高まるにつれ、周囲の音が次第に遠のいていくのを感じた。絵筆の先から生まれる線と色彩が、まるで現実の空間に影響を与えているかのような、不思議な感覚。

 ふと顔を上げると、目の前の廃墟の風景が、ほんの一瞬、淡く揺らいだように見えた。

 そして、スケッチブックに描いた過去の広間の光景が、まるで薄い紗を重ねたように、現実の廃墟の上にぼんやりと浮かび上がったのだ。

 暖炉には赤い炎が揺らめき、壁には鮮やかなタペストリーが飾られ、窓からは陽光が満ちている。そして、そこには数人の人影があった。優雅なドレスをまとった女性、子供たちのはしゃぐ声、遠くで誰かが楽器を奏でる音……。

 それはほんの数秒の出来事だった。幻は蜃気楼のように掻き消え、元の静寂な廃墟の光景に戻る。


「今のは……?」


 エシンは呆然と立ち尽くした。幻覚だったのだろうか。しかし、あまりにも鮮明な光景だった。心臓が早鐘を打っている。

 彼は自分のスケッチブックと、現実の廃墟を交互に見比べた。スケッチの中では、暖炉の右脇に小さな飾り棚が描かれている。しかし、現実のその場所には、崩れた瓦礫が積み重なっているだけだ。


(本当に、あそこに棚があったんだろうか……)


 何かに導かれるように、エシンは瓦礫に近づき、注意深く石や木片を取り除き始めた。すると、瓦礫の下から、腐食しかけた小さな木箱が姿を現した。

 震える手で木箱を開けると、中にはビロードらしき布に丁寧に包まれたものが入っていた。そっと布を解くと、現れたのは一本の銀製の髪飾りだった。細やかな花の透かし彫りが施され、小さな真珠があしらわれている。古びてはいるが、その繊細な美しさは失われていない。そして、髪飾りの下には、色褪せてはいるものの、若い女性の横顔が描かれた小さな手のひらサイズの肖像画が一枚、ひっそりと収められていた。


「これは……」


 エシンは髪飾りと肖像画を手に取り、しばし言葉を失った。高価な宝物というわけではなさそうだ。しかし、そこには間違いなく、かつてこの場所で生きた誰かの、大切な思い出が詰まっているように感じられた。あの幻影の中で見た、優雅なドレスの女性のものだろうか。


 スケッチブックの力が、ただ風景を写し取るだけでなく、失われた時間や人々の記憶の断片に、ほんの少しだけ触れることを可能にしたのかもしれない。エシンはそう思った。それは、少しだけ怖くもあり、そして計り知れない可能性を感じさせる体験だった。


 エシンは、見つけた髪飾りと肖像画を、再び丁寧に木箱に納め、元の場所――瓦礫の下ではなく、暖炉の石の上に、誰かが見つけやすいようにそっと置いた。持ち去るべきではない、と感じたからだ。

 この廃墟で、彼は美しい風景だけでなく、過ぎ去った時間の重みと、そこに生きた人々のささやかな息吹を感じ取った。それは、これまでのスケッチ旅行とは少し異なる、深い感慨をエシンの心に残した。


 太陽が西に傾き始めた頃、エシンは廃墟を後にした。湖畔亭に戻り、マルコに廃墟での出来事を話すと(不思議な幻影のことは胸に秘めて、小さな装飾品を見つけたとだけ伝えた)、マルコは「それはきっと、この土地の精霊がエシンさんに何かを伝えたかったのかもしれませんな」と、穏やかに微笑んだ。


 アクアリアの夜空には、昨日よりも少し欠けた月が浮かんでいた。

 エシンの心には、見つけた髪飾りの持ち主であろう名も知らぬ女性の面影と、スケッチブックが示した新たな可能性が、静かな波紋のように広がっていた。この力は、一体何なのだろう。そして、これから自分をどこへ導いていくのだろうか。

 答えはまだ、風の中にあった。

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