第5話:アクアリアの隠れた名物
マルコの宿「湖畔亭」での生活は、エシンにとって非常に快適なものだった。朝はアクアリア湖のきらめきで目覚め、昼間は宿の看板制作に精を出す。マルコはエシンの描くラフスケッチを見るたびに「素晴らしい!」と目を細め、制作に必要な画材や木の板の手配など、全面的に協力してくれた。看板のデザインは、宿の名前「湖畔亭」の文字を中央に、背景にはアクアリア湖の美しい風景と、湖で獲れるという銀鱗魚が跳ねる様子をあしらったものにした。
看板制作の合間には、エシンはアクアリアの街を散策し、スケッチブックを片手に見るもの聞くものすべてを吸収しようと努めた。石畳の小道、家々の窓辺を彩る色とりどりの花、活気ある小さな市場、そして何よりも刻一刻と表情を変える湖の風景。それらは尽きることのない創作意欲を彼に与えてくれた。
ある日の午後、市場で新鮮な果物を買い求めていると、魚屋の威勢の良い親父と、常連客らしき老婆が何やら楽しげに話し込んでいるのが耳に入った。
「ああ、例の『月の雫煮』かい? 今日は特別いい月虹鱒が入ったからね、今夜あたり奥さんに作ってもらおうと思ってるところさ」
「おやまあ、それは羨ましい。うちの亭主もあれが大好物でねぇ。でも、なかなか普通の店じゃお目にかかれないからねぇ」
月の雫煮? 月虹鱒? 聞き慣れない言葉に、エシンの食いしん坊アンテナがぴくりと反応した。どうやら、地元の人々の間で知る人ぞ知る、特別な料理らしい。
「あの、すみません。今お話しされていた『月の雫煮』というのは、どんな料理なんですか?」
エシンは好奇心を抑えきれず、話の輪に割り込んで尋ねてみた。魚屋の親父と老婆は、一瞬きょとんとした顔でエシンを見たが、彼がマルコの宿に滞在している絵描きだと知ると、すぐに表情を和らげた。
「おお、湖畔亭の絵描きさんかい。月の雫煮ってのはな、このアクアリア湖で夜、それも月が綺麗な晩にしか獲れない『月虹鱒』って特別な魚を使った煮込み料理さ。普通の鱒より脂が乗ってて、身がとろけるように美味いんだ」
魚屋の親父が、自慢げに説明してくれた。
「ただ、その月虹鱒ってのがなかなか気難しくてね。普通の漁じゃまず獲れないし、調理法もちょっとコツがいるんだよ。だから、大きな料理屋じゃ扱ってなくて、昔からやってる小さな料理屋か、漁師の家でたまに食べられるくらいのもんだね」
老婆が補足する。
聞けば聞くほど、エシンの興味はそそられた。「幻の魚」「特別な調理法」「地元の人しか知らない」。これほど魅力的なキーワードが揃っていて、食べずにはいられない。
「その月の雫煮、どこか食べられるお店をご存知ないでしょうか?」
エシンが目を輝かせて尋ねると、二人は顔を見合わせ、うーんと唸った。
「そうさなぁ……昔ながらのやり方でやってる店となると、湖の南側にある『サザナミ亭』って小さな飯屋くらいかねぇ。あそこの婆さんなら、もし月虹鱒が手に入ってれば作ってくれるかもしれんが……」
「あそこは少し分かりにくい場所にあるし、いつも開いてるわけじゃないからねぇ」
貴重な情報を得たエシンは、二人にお礼を言い、早速「サザナミ亭」を探してみることにした。看板制作はマルコとの連携もあって順調に進んでおり、少しの間なら作業を中断しても問題なさそうだ。
湖の南側というのは、普段エシンが散策する観光客向けのエリアとは少し離れた、より地元の人々の生活が息づく地区だった。細い路地が入り組み、古い家々が肩を寄せ合うように建ち並んでいる。道行く人に尋ねながら、ようやく目指す「サザナミ亭」を見つけ出すことができた。
それは、蔦の絡まる古びた二階建ての建物で、看板も小さく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいだった。
エシンが緊張しながら引き戸を開けると、薄暗い店内には、使い込まれた木のテーブルが数席と、小さなカウンターがあるだけだった。客は誰もいない。奥の厨房らしき場所から、小柄な老婆がゆっくりと顔を出した。鋭い眼光だが、どこか温かみのある表情をしている。
「……いらっしゃい。うちは見ての通り、大したもんは出せないよ」
老婆はぶっきらぼうに言った。
「あの、『月の雫煮』という料理をいただけると聞いて来たのですが……」
エシンがおずおずと尋ねると、老婆は少し驚いたように目を見開いた。
「月の雫煮を? あんた、どこでそんな料理を知ったんだい。最近じゃ、注文する客もめっきり減ったっていうのに」
「市場で噂を聞きまして。ぜひ一度、味わってみたくて」
「ふぅん……。運がいいね、あんた。昨夜、孫がたまたま月虹鱒を何匹か獲ってきてね。ちょうど今夜のまかないにでもしようかと思ってたところさ」
老婆はそう言うと、少しだけ口元を緩めた。
「少し時間はかかるけど、それでもいいなら作ってやるよ。ただし、うちのは昔ながらのやり方だから、よそ行きの味じゃあないよ」
「はい!ぜひお願いします!」
エシンは喜びを隠しきれない様子で力強く頷いた。
待つこと一時間ほど。その間、エシンは店内の素朴な雰囲気や、窓から見えるアクアリア湖の夕暮れをスケッチブックに描き留めていた。やがて、厨房から何とも言えない芳醇な香りが漂ってきた。甘辛い醤油のような、それでいて魚介の濃厚な出汁の匂い。そして、ほんのり香る柑橘系の爽やかな香り。
ついに、老婆が土鍋のような器をエシンの前に運んできた。蓋を開けると、湯気と共に、琥珀色に輝く煮汁の中で、ふっくらと煮込まれた魚の切り身が現れた。月虹鱒だ。その表面は艶やかで、箸を入れるのがためらわれるほど美しい。
「さあ、熱いうちに食べな。冷めたら味が落ちるからね」
老婆に促され、エシンは恭しく箸を取った。
まずは一口、煮汁をすする。……美味い。濃厚な魚の旨味が凝縮され、ほんのりとした甘さと、後から追いかけてくる深みのある醤油の風味。そして、隠し味に使われているのだろうか、爽やかな酸味と香りが全体の味を引き締めている。
次に、月虹鱒の身を一切れ。箸で持ち上げると、ほろりと崩れるほど柔らかい。口に入れると、予想を遥かに超える衝撃がエシンを襲った。
とろける。
文字通り、舌の上でとろけるような食感。上質な脂がじゅわっと広がり、鱒特有の繊細な旨味が口の中いっぱいに満ちていく。皮は香ばしく煮付けられ、身とのコントラストがまた素晴らしい。噛むほどに旨味が溢れ出し、飲み込むのが惜しいほどだった。
「こ、これは……!」
エシンは言葉を失い、ただひたすら夢中で月虹鱒を味わった。一緒に煮込まれている、この土地で採れるのだろうか、少し苦味のある葉野菜や、味の染みた根菜も絶品だった。レンブラントで食べたシチューも美味しかったが、この「月の雫煮」は、また次元の違う、滋味深く、そしてどこか懐かしいような、心に染み入る味わいだ。
あっという間に土鍋は空になった。エシンは満ち足りた溜息をつき、老婆に心からの感謝を伝えた。
「本当に、本当に美味しかったです! こんなに美味しい魚料理は初めて食べました!」
「そうかい。そんなに喜んでもらえると、作った甲斐があったってもんさ」
老婆はぶっきらぼうな口調は変えなかったが、その目元は優しく微笑んでいるように見えた。
勘定を済ませ、店を出ると、空には大きな満月が昇っていた。月虹鱒の名前の由来は、この月明かりの下で漁をするからだろうか、それともその身が虹色に輝くからだろうか。
エシンは湖畔亭への帰り道、先ほどの感動を反芻しながら、スケッチブックを取り出した。あの美味しさを、どうにか絵で表現できないだろうか。湯気の立ち上る様、煮汁の照り、月虹鱒の身のふっくらとした質感。そして、それを食べた時の、自分の満ち足りた表情。
食べ物を描くのは、風景や人物とはまた違う難しさがあったが、エシンは夢中でペンを走らせた。あの感動を、少しでも紙の上に留めておきたかった。
アクアリアの隠れた名物、「月の雫煮」。それはエシンの異世界グルメ探訪に、忘れられない一ページを加えてくれた。そして、彼のスケッチブックには、また一つ、大切な思い出が描き込まれたのだった。
湖畔亭の看板も、もうすぐ完成しそうだ。あの美しい湖と、美味しい料理の街を離れる日も、そう遠くないのかもしれない。
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