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第3話:初めての街へ

 モルゲン村の朝は、乳白色のもやと、小鳥たちの澄んださえずりとともに始まった。エシンは、集会所の一室で借りた簡素なベッドから身を起こすと、大きく伸びをした。木の窓枠から差し込む柔らかな朝日が、部屋の床に温かな光の模様を描いている。昨夜は久しぶりに屋根のある場所で眠れたおかげか、身体の調子はすこぶる良かった。


「さて、と。まずは朝ごはん、それから出発の準備だな」


 顔を洗い、身支度を整えると、エシンはスケッチブックを手に村の広場へ向かった。そこでは既に、昨日世話になったパン屋の女性、エルマさんが大きな石窯に薪をくべ、パン生地を捏ねているところだった。


「エルマさん、おはようございます。昨日はありがとうございました」

「おや、エシンさん。よく眠れたかい?」

 エルマさんは小麦粉で白くなった手をエプロンで拭いながら、人の好さそうな笑顔を向けた。

「はい、おかげさまで。あの、出発前に、何かお礼ができればと思うんですが……そうだ、もしよろしければ、この村の風景か、エルマさんの似顔絵でも描かせてもらえませんか?」

「まあ、絵を? わざわざそんな、いいのに」

 エルマさんは少し照れたように言ったが、その目は好奇心で輝いていた。村長や他の村人たちも興味深そうに集まってくる。


 エシンは広場の一角に腰を下ろし、スケッチブックを開いた。鉛筆を手に取り、まずは朝日に照らされるモルゲン村の素朴な家並みと、遠くに見える穏やかな丘陵を、流れるような線で描き始めた。次に、エルマさんをモデルに、彼女の優しい笑顔と、働き者の手を丁寧にスケッチしていく。村の子供たちは、エシンの手元から魔法のように現れる絵に釘付けになっていた。


 一時間ほどで数枚のスケッチを仕上げ、エルマさんや村長に手渡すと、彼らは感嘆の声を上げた。

「こりゃあ、すごいもんだ!まるで本物そっくりじゃねえか!」

「私のパン窯まで……嬉しいねえ。家宝にするよ」

 村人たちの純粋な喜びに、エシンも心が温かくなるのを感じた。彼らに丁重に別れを告げ、レンブラントの街への情報を改めて確認する。村長が、羊皮紙に簡単なレンブラントまでの道と、街の門の位置を描いてくれた。


「レンブラントはここから真南に半日ほど歩いたところだ。大きな川の手前にあるから、迷うことはないだろう。門は一つじゃないが、一番賑わっているのは東門だと聞く」

「ありがとうございます。この地図、とても助かります」

 エシンはその地図を元に、スケッチブックの新しいページに、レンブラントの東門とその周辺の賑わいを想像して描き込んだ。今回はかなり具体的な情報があるので、転移の精度も上がるはずだ。


 村はずれまで見送りに来てくれた村人たちに手を振り、エシンは人気のない場所まで少し歩いた。そして、スケッチブックに描いたレンブラント東門の絵に意識を集中する。

(レンブラントの東門前へ!)

 次の瞬間、視界が白く染まり、ふわりとした浮遊感の後、足の裏に固い石畳の感触が伝わった。


「……よし、今度はほぼ完璧だ」


 目を開けると、そこはまさしく活気のある街の門前だった。巨大な石造りの門がそびえ立ち、その下を多くの人々や荷馬車が行き交っている。門の上には、剣と盾を交差させた意匠の旗がはためいていた。モルゲン村とは比較にならない規模と喧騒に、エシンは思わず息をのむ。

 行き交う人々は、様々な服装をしていた。革鎧をまとった屈強な男たち、フード付きのローブを着た怪しげな人物、色鮮やかな民族衣装のようなものを着た集団。中には、尖った耳を持つ者や、小柄で髭もじゃの者も混じっているように見えた。あれが、いわゆるエルフやドワーフという種族なのだろうか。


「すごい……これが異世界の街か」


 エシンは興奮を抑えきれず、早速スケッチブックを取り出して門の様子をスケッチし始めた。周囲の喧騒など気にもならない様子で一心不乱にペンを走らせるエシンの姿は、それ自体が少し珍しい光景だったらしく、何人かの通行人が興味深そうに彼を一瞥していった。


 ひとしきりスケッチを終えると、エシンはまず情報収集と身分証明を得るために、冒険者ギルドを目指すことにした。村長から、街に入って大きな通りをまっすぐ進み、噴水のある広場を右に曲がったところにあると聞いていた。

 石畳の道を歩きながら、周囲の建物や店先を興味深く観察する。看板の文字は読めないものが多かったが、絵や品物で何屋か判断できるものもあった。パン屋からは香ばしい匂いが漂い、鍛冶屋らしき店からは金属を打つ甲高い音が響いてくる。どの店も、地球では見たことのないデザインや品物で溢れていて、エシンの目は輝きっぱなしだった。


 やがて、冒険者ギルドらしき、一際大きく頑丈そうな建物が見えてきた。入り口には大きな木製の看板が掲げられ、そこにも剣と盾の紋章が描かれている。

 エシンが意を決して扉を押すと、中は酒場のような喧騒に満ちていた。木のテーブルと椅子がいくつも並び、屈強そうな男女がジョッキを片手に談笑したり、依頼書らしき羊皮紙を広げて相談したりしている。壁には様々な依頼が張り出され、カウンターの向こうでは数人の職員が忙しそうに働いていた。


「あの、すみません。冒険者登録をしたいのですが……」

 エシンは一番空いていそうなカウンターへ行き、栗色の髪をポニーテールにした、快活そうな女性職員に声をかけた。


「はい、冒険者登録ですね。こちらの用紙にご記入ください。初めての方ですか?」

 受付嬢はにこやかに応対してくれた。差し出された羊皮紙には、細かい文字が並んでいる。エシンは正直に初めてだと告げた。

「でしたら、私が代筆しましょうか。お名前と年齢、ご出身はどちらです? それから、何か特技はありますか? 戦闘系、探索系、生産系、色々ありますが」

「名前はエシン。年齢は……二十代半ばくらい、ということで。出身は、遠い東の国です。特技は……絵を描くことです。戦闘は、ほとんどできません。今回は、旅をする上での身分証明が欲しくて」

 エシンがそう言うと、受付嬢は少し意外そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。

「絵描きさんですか。珍しいですね。でも、身分証明のためだけの登録も歓迎ですよ。戦闘を強制されることはありませんから、ご安心ください」


 受付嬢はエシンの言葉を羊皮紙にさらさらと書き込んでいく。出身地を「東方の詳細不明な地域」とされたのは少し面白かったが、特に問題はないだろう。登録料として銅貨を数枚支払い、しばらく待つと、手のひらサイズの金属製のプレートを手渡された。ギルドカードだ。表面にはエシンの名前と、「ランクF、特技:絵画」と刻印されている。


「こちらがエシンさんのギルドカードです。これがあれば、身分証明になりますし、一部の宿屋では割引も受けられます。紛失しないように気をつけてくださいね」

「ありがとうございます。助かります」

 エシンはギルドカードを大切に懐にしまった。これで、この世界での第一歩を踏み出せた気がする。


「それと、いくつかお聞きしたいのですが……この街の通貨や物価について、それから旅をする上での注意点などがあれば教えていただけますか?」

「ええ、もちろんです。通貨は、銅貨、銀貨、金貨が基本で、それぞれ100枚で上の単位になります。大雑把に言うと、銅貨一枚で焼きたてのパンが一つ、銀貨一枚で安宿に一泊できるくらいでしょうか。物価は街によって多少変動しますけどね」

 受付嬢は慣れた様子で説明してくれた。他にも、比較的治安の良い地域と、夜は近づかない方がいいスラム街のような場所があること、旅人向けの便利な店の情報、最近出没しているというスリや盗賊団の噂など、貴重な情報を色々と教えてもらうことができた。


「貴重品、特にそのスケッチブックは肌身離さず持っていた方がいいですよ。変わったものですし、狙われやすいかもしれませんから」

 受付嬢がエシンのスケッチブックを見て、最後にそう付け加えた。エシンは頷き、改めて気を引き締めた。


 ギルドを出たエシンは、早速教えてもらった道具屋が並ぶ通りへ向かった。まずは旅の装備を整えなければならない。

 一軒の古びた、しかし品揃えの良さそうな店に入り、店主の無愛想だが実直そうな老人にアドバイスをもらいながら、丈夫な麻布のシャツとズボン、革製の編み上げブーツ、背負いやすい大きめのリュックサック、薄手だが保温性の高い寝袋、木製の食器と水筒などを買い揃えた。女神から転生時に与えられていた僅かな所持金――数枚の金貨と銀貨――が、みるみる減っていく。


「ふぅ、これで一安心かな」

 新しい装備を身につけ、リュックに荷物を詰め終えると、エシンは満足げに息をついた。見た目もすっかり旅人らしくなった気がする。


 時刻は既に昼下がり。空腹を覚えたエシンは、ギルドで教えてもらった安くて美味しいと評判の食堂へ向かった。木の扉を開けると、香辛料の混じった食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。店内は多くの客で賑わっていた。

 メニューは壁に絵付きで書かれていたので、指差しで注文することができた。エシンが頼んだのは、大きなパンの器に、肉と野菜がごろごろ入った濃厚なシチューが盛られたものと、果実を発酵させたらしい赤みがかった色の飲み物だった。


「うまい……!」

 熱々のシチューを木のスプーンで掬い、口に運ぶ。じっくり煮込まれた肉はとろけるように柔らかく、野菜の甘みとスパイスの風味が絶妙に絡み合っている。パンの器もシチューを吸って美味しく、夢中で食べ進めた。飲み物も、ほんのり甘酸っぱくて、歩き疲れた身体に染み渡るようだ。モルゲン村の素朴な食事も美味しかったが、この街の料理もまた格別だった。


 満腹になったエシンは、ギルドカードの割引が使えるという宿屋を探し当てた。少し古びてはいたが、清潔で居心地の良さそうな宿だった。部屋は広くはないが、ベッドと小さなテーブル、蝋燭立てがあり、窓からはレンブラントの街並みの一部が見渡せる。


 ベッドに腰を下ろし、エシンは今日一日を振り返った。初めての街、初めてのギルド、初めての本格的な買い物。全てが新鮮で、刺激的だった。

「どこでもスケッチブックのおかげで、移動は本当に楽だ。でも、こうして街を歩いて、人と話して、物を買うのも、旅の醍醐味だよな」

 手に入れたばかりのギルドカードを眺めながら、エシンは呟いた。このカードが、これから始まる長い旅の相棒の一つになるのだろう。


 窓の外は、夕焼けに染まり始めていた。街の喧騒も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 エシンはスケッチブックを取り出し、今日見たレンブラントの街の風景や、出会った人々の顔を思い出しながら、数枚のクロッキーを描いた。彼の記憶とスケッチブックが、この世界の情報を着実に蓄積していく。


 やがて夜の帳が下り、部屋に灯した蝋燭の炎が優しく揺れる。

 レンブラントの夜は更けていく。エシンの新たな旅の拠点となるこの街で、彼はこれからどんな発見をし、どんな絵を描き、どんな美味しいものに出会うのだろうか。

 今はただ、心地よい疲労感と、明日の探訪への静かな期待を胸に、深い眠りにつくだけだった。

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