第11話:高峰の街ピクリスへ~天空に最も近い場所~
アルティザンの職人たちに見送られ、エシンは街のはずれにある小高い丘の上に立っていた。次の目的地は、ここから北方に連なる大山脈地帯に位置するという「高峰の街ピクリス」。レンブラントのギルドでその名を聞いた時、天空に手が届きそうなほど高い場所にあると形容され、エシンの絵描き心を強く刺激した街だ。アルティザンでも、ピクリス産の高品質な鉱石が取引されているという話を耳にしていた。
エシンはスケッチブックを開き、アルティザンで手に入れた北部山岳地帯の地図と、旅人から伝え聞いたピクリスの特徴――切り立った崖にへばりつくように築かれた石造りの街、万年雪を抱く高峰に囲まれている、空気が薄く星が驚くほど綺麗に見える――などの情報を頼りに、ピクリスの街並みを想像して描き込んでいく。
高地にあるという点が少し気になった。急激な高度変化は身体に負担がかかるかもしれない。エシンは意識的に、ピクリスの街の少し手前、比較的標高の低い麓の地点にまず転移し、そこからゆっくりと高度を上げて街へ向かうイメージをスケッチに加えた。
(よし、まずはピクリス山脈の麓へ!)
念じると、いつものように視界が揺らぎ、次の瞬間にはアルティザンの喧騒とは全く異なる、静かで涼やかな空気に包まれた。
目を開けると、そこは針葉樹の森の中だった。足元には苔むした岩が転がり、空気はひんやりと澄んでいる。そして、木々の切れ間から見上げる空の先には、天を衝くかのようにそびえ立つ、巨大な雪を抱いた山々が連なっていた。その威容に、エシンは思わず息をのむ。
「うわぁ……これがピクリス山脈か。すごい迫力だ」
目的地のピクリスの街は、あの中腹、あるいはもっと高い場所にあるのだろう。エシンはリュックを背負い直し、山道らしき踏み跡を辿ってゆっくりと登り始めた。
最初は緩やかだった道も、次第に勾配がきつくなっていく。空気も心なしか薄くなってきたように感じる。時折立ち止まっては水分を補給し、周囲の景色をスケッチブックに描き留めながら、無理のないペースで進んでいく。高山植物だろうか、岩肌にへばりつくように咲く可憐な花々や、見たこともない形の鳥たちが、エシンの目を楽しませてくれた。
半日ほど歩いただろうか。森林限界を超え、視界が開けた場所にたどり着いた。そこからは、眼下にこれまで登ってきた道のりと、遥か遠くに広がる緑の大地が見渡せる。そして、目の前には、巨大な岩壁にまるで巣のように築かれた石造りの街が姿を現した。
それが、高峰の街ピクリスだった。
家々は崖に沿うように段々畑状に建てられ、狭い石段の道がそれらを縫うように続いている。建物の壁は厚い石材で組まれ、屋根もまた石板で葺かれているものが多く、厳しい自然環境の中で生き抜いてきた街の力強さを感じさせた。いくつかの煙突からは、細く白い煙が立ち上っている。
「ここが……ピクリス……!」
エシンは、その独特の景観に圧倒され、しばらく言葉もなく見入っていた。まるで天空の要塞だ。こんな場所に、どうやって街を築いたのだろうか。
興奮を抑えきれず、エシンは早速スケッチブックを取り出し、崖と一体化した街の全景を、細部まで丹念に描き始めた。風が強く、肌寒い。しかし、絵筆を握るエシンの心は熱く燃えていた。
スケッチを終え、街の入り口らしき場所へ向かう。そこには、屈強な見張りの男が二人立っていた。彼らはエシンの姿を見ると、鋭い視線を向けた。
「旅の方か? どこから来た?」
声は低く、ぶっきらぼうだが、敵意は感じられない。
「はい、南のアルティザンから来ました。絵を描きながら旅をしています、エシンと申します」
エシンがギルドカードを見せると、見張りは少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「絵描きねぇ……こんな何もない辺鄙な場所によく来たもんだ。まあいい、通れ。ただし、この街の掟は守ってもらうぜ。夜間の単独行動は控えろ。道に迷ったら、誰かに尋ねることだ」
「ありがとうございます。気をつけます」
見張りの許可を得て、エシンはピクリスの街へと足を踏み入れた。石畳の道は狭く、急な坂道や階段が多い。両脇には、石造りの家々が密集している。店らしき建物は少なく、ほとんどが住居のようだ。時折すれ違う街の人々は、皆厚手の服をまとい、厳しい表情をしている者が多いが、エシンが挨拶をすると、ぶっきらぼうながらも返してくれた。
街のあちこちから、カンカン、という金属を打つような音が聞こえてくる。鉱山で栄えた街だという話は本当のようだ。
エシンはまず、宿を探すことにした。街の中心部らしき、比較的開けた場所に出ると、一軒だけ「旅人の宿」と書かれた小さな看板を掲げた建物を見つけた。
扉を叩くと、中から出てきたのは、白髪の物静かそうな老婆だった。
「……いらっしゃい。旅の方かね?」
「はい。一晩、泊めていただけますでしょうか?」
「ああ、いいよ。部屋は空いてるからね。ただし、うちは見ての通り、大したもてなしはできないけどね」
老婆はそう言うと、エシンを奥の部屋へと案内してくれた。部屋は狭く、石壁に囲まれてひんやりとしていたが、小さな窓からは遠くの雪山が見え、簡素ながらも清潔な木のベッドと、小さな暖炉が備え付けられていた。
「ありがとうございます。これで十分です」
宿泊料を支払い、荷物を解くと、エシンは老婆に街のことについて尋ねてみた。
「この街は、昔から鉱山で栄えてきたんだよ。今はもう昔ほどの活気はないけどね。ピクリス鉱石って言ってね、丈夫で美しい金属が採れるのさ。遠い都でも重宝されるって話だよ」
老婆は、暖炉に火を入れながら、ゆっくりと語ってくれた。
「食べるものは、山の幸くらいしかないけどね。岩鳥とか、キノコとか、山菜とか。水は、雪解け水を使ってるから、とても綺麗だよ」
その夜、エシンは老婆が作ってくれた素朴な夕食――岩塩で焼いた岩鳥と、数種類のキノコが入った温かいスープ、そして黒パン――を味わった。どれも滋味深く、冷えた身体に染み渡る美味しさだった。
食後、老婆に断って宿の外へ出てみると、空には信じられないほどの数の星が輝いていた。空気が澄み切っているせいか、星の一つ一つがまるで手の届きそうなほど近く、大きく見える。天の川も、くっきりとその流れを見せていた。
「これは……スケッチしておかないと!」
エシンは寒さをこらえながら、急いで宿に戻り、スケッチブックと画材を持って再び外へ出た。街灯りはほとんどなく、星の光だけで周囲がぼんやりと見えるほどだ。
彼は崖の端に腰を下ろし、目の前に広がる壮大な星空を、夢中でスケッチブックに描き始めた。寒さで指がかじかむが、そんなことは気にならない。星々の配置、色の違い、そしてそれらが織りなす宇宙の神秘。その全てを、紙の上に留めようと一心不乱に筆を動かした。
どれほどの時間が経っただろうか。東の空が白み始める頃、エシンはようやく筆を置いた。スケッチブックには、ピクリスの夜空を切り取ったかのような、数枚の美しい星景画が完成していた。
部屋に戻り、暖炉の残り火で身体を温めながら、エシンは深い満足感と共に、心地よい疲労感に包まれてベッドに潜り込んだ。
高峰の街ピクリス。天空に最も近いこの場所で、彼はまだ見ぬ絶景と、新たな出会いを予感していた。この街の厳しい自然と、そこで暮らす人々の生活が、彼のスケッチブックにどのような物語を加えてくれるのだろうか。
今はただ、星々の残照を胸に、深い眠りにつくだけだった。
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