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第10話:旅の心得、エシンの流儀

 アルティザンのガラス工房は、エシンが描いたスケッチによって息を吹き返したかのようだった。親方もリオたち若い職人も、昼夜を問わず七彩ガラスの再現に没頭し、工房はかつてないほどの熱気に包まれていた。エシンも時折顔を出しては、彼らの試行錯誤の様子をスケッチブックに描き留めたが、自分が直接手を貸せることはもうないと悟っていた。あの複雑な構造を理解し、ガラスという気まぐれな素材で形にするのは、専門の職人にしかできない領域だ。


「あとは、彼らの長年の経験と情熱が、きっと道を切り開いてくれるはずだ」


 宿屋の簡素な部屋で、エシンは窓から見えるアルティザンの夜景――工房の炉の赤い光がそこかしこで点滅している――を眺めながら呟いた。この街に来て、一週間が経とうとしている。自分の絵が誰かの役に立てたという確かな手応えは、大きな喜びだった。しかし、同時に、いつまでもこの場所に留まっているわけにはいかないという気持ちも強くなっていた。彼の旅は、まだ始まったばかりなのだ。


 ベッドに腰掛け、エシンは愛用の「どこでもスケッチブック」をゆっくりと開いた。最初のページから順にめくっていく。

 女神からこのスケッチブックを授かった、あの真っ白な空間。

 初めて異世界で目にした、モルゲン村の素朴な風景と、エルマさんの焼いてくれた温かいパン。

 レンブラントの街の喧騒と、ギルドで手に入れた冒険者カード。

 アクアリア湖の息をのむような美しさと、マルコさんの優しさ、そして幻の「月の雫煮」の忘れがたい味。

 森の奥の廃墟で感じた、時間の重みと過去の残照。

 予期せぬ森の中で出会った、小さな友達ミミリの愛らしい姿。

 そして、このアルティザンでの、職人たちの熱意と、失われた技術への挑戦。


 ページをめくるたびに、その時々の光景、匂い、音、そして感情までもが鮮やかに蘇ってくる。スケッチブックは、単なる絵の記録媒体ではなく、エシンの旅の記憶そのものを保存する魔法の道具だった。


「最初は、ただ綺麗な景色を描いて、美味しいものを食べられれば、それで満足だと思ってたけど……」


 エシンは、アクアリアで描いた「湖畔亭」の看板のスケッチのページで手を止めた。マルコの喜んでくれた顔を思い出す。そして、アルティザンのガラス工房の職人たちの、希望に満ちた眼差し。

 自分の絵が、誰かの役に立ち、誰かを笑顔にできる。その事実は、エシンにとって予想外の、しかし何よりも大きな喜びをもたらしてくれた。それは、前世でデザインの仕事をしていた時の、クライアントの要望に応えるというのとは少し違う、もっと純粋で、温かい手応えだった。


「僕の絵は、僕だけのものじゃないのかもしれないな」


 かといって、誰かのために絵を描くことを義務にするつもりは毛頭なかった。あくまで、自分の描きたいものを描き、食べたいものを食べる。その「ついで」に、もし誰かの困りごとを解決できるなら、それに越したことはない。そんな、ゆるやかな関わり方が、自分には合っているように思えた。


 スケッチブックの能力についても、改めて考える。描いた場所に転移できるというだけでもチート級だが、森の廃墟での体験や、ミミリを助けるために木の枝や布を描き出したこと、そしてアルティザンで設計図の欠損部分を補完できたことを思うと、この能力にはまだ底知れない可能性が秘められているような気がした。

 しかし、それは同時に、使い方を誤れば危険なことにもなりかねない。今のところ、この力を悪用しようなどという考えは微塵もないが、いつ何時、予期せぬ事態に巻き込まれないとも限らない。


「やっぱり、面倒事はなるべく避けたいなぁ……」


 エシンは苦笑した。平和主義で、基本的にマイペース。それが自分の性分だ。

 危険な場所には近づかない。手に負えない問題には深入りしない。でも、目の前で困っている人がいたら、自分にできる範囲で手を差し伸べる。

 そして何よりも、自分の好奇心に正直でいること。美しいもの、美味しいもの、面白いものを見つけたら、迷わず飛び込んでいく。


「うん、これが僕の流儀、かな」


 エシンは、すとんと腑に落ちるような感覚を覚えた。気ままな旅であることに変わりはない。ただ、その旅の中で、自分なりの軸のようなものが見えてきた気がした。

 この「どこでもスケッチブック」は、まさにそんな自分にぴったりの力だ。描けば飛べる。描けば記録できる。そして、描けば、時には誰かの心に触れることさえできる。


 次の目的地は、まだ具体的には決めていない。レンブラントのギルドで聞いた噂では、ここから北へ行くと広大な山岳地帯が広がっているというし、南へ下れば大きな港町があるとも聞いた。どちらも、絵心をくすぐる風景や、未知の食材との出会いが待っていそうだ。

 エシンはスケッチブックの最後のページに、これまでの旅で出会った人々の笑顔を、思いつくままに小さく描き込んだ。モルゲン村の子供たち、マルコさん、サザナミ亭の老婆、そしてアルティザンの職人たち。彼らの顔は、エシンの旅が孤独なものではないことを示していた。


 翌朝、エシンは荷物をまとめ、ガラス工房へ別れの挨拶に向かった。工房は相変わらず活気に満ちており、親方もリオも、目の下にうっすらと隈を作りながらも、その表情は明るかった。

「若者よ、世話になったな。あんたの絵のおかげで、我々は大きな一歩を踏み出せた。この恩は忘れん」

 親方は、エシンの手を力強く握った。

「七彩ガラスが完成したら、一番に知らせてくれ。……まあ、あんたがどこにいるか分からんがな」

 そう言って、悪戯っぽく笑った。

「ええ、いつかきっと、完成した七彩ガラスを見に戻ってきます」

 エシンも笑顔で応えた。本当に完成を見届けたい気持ちは山々だが、今は自分の旅を進める時だ。


 アルティザンの街門まで、リオが見送りに来てくれた。

「エシンさん、本当にありがとう。あなたの絵は、俺たちに希望をくれた。もし、またこの街に来ることがあったら、必ず工房に顔を出してください。その時までには、きっと……」

「ええ、楽しみにしています。リオさんも、素晴らしいガラス職人になってください」

 二人は固い握手を交わした。


 アルティザンの喧騒を背に、エシンは人気のない森の中へと歩を進めた。

 振り返ると、職人の街の空には、今日も変わらず工房の煙が立ち上っている。あの煙の中に、未来の七彩ガラスの輝きが宿っているような気がした。

 エシンは深く息を吸い込み、スケッチブックを取り出した。白紙のページを開き、ペンを握る。

 さあ、次はどんな景色を描こうか。どんな味に出会えるだろうか。

 彼が紡ぐ旅の物語は、まだ始まったばかり。ペン先から広がる無限の可能性を胸に、エシンは新たな一歩を踏み出すのだった。

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