魚であればあるほどいい
私の顔は魚に似ているという。
初めてそのことを知ったのは、忘れもしない、中学3年生のとき。
当時付き合っていた彼氏にフラれたとき、泣いてすがる私にあいつは面倒くさそうにこう言ったのだ。
「だっておまえ、魚みたいだもん」
さかな?
さかなさかなさかな。昔スーパーでそんな曲が流れていた。そのときの私の脳内にもその曲が鳴り響いた。彼氏はそのあと他にも何かを言ったかもしれなかった。でもさかなの曲がうるさくて、それから先のことは何も耳に入らなかった。だからあいつの言葉で最後に覚えてるのは「だっておまえ、魚みたいだもん」という呪いの言葉だけ。そのあとは話すこともなかった。
私は失恋のショックで志望校に落ちた。
そこから私の転落人生が始まった。
私は中学時代はそれなりに成績はよかった。クラスでは常に一桁番台の順位をキープしていた。あの男と付き合うまでは。初めての恋に私は舞い上がった。週末のデートが楽しみで勉強が手につかなくなった。成績はどんどん下降していった。両親からそれを指摘されると私はヒステリーを起こした。うるさいうるさいうるさい! 汚い言葉で彼らを罵った。物を投げたりもした。
そんなことが続くうちに、彼らは私に干渉しなくなった。彼らは聞き分けのない私のことは諦めて、素直な妹に手をかけるようになった。私はせいせいしてデートに出かけた。夜の学校に忍び込んで、彼氏と愛を語らった。警備員につまみ出されたりもしたが、いい思い出になると笑った。でもそれがいい思い出だったのも、付き合っている間だけだった。今となっては消し去りたい思い出になってしまった。
成績が落ちて志望校に落ちた私は、成績の悪い人間が集まる公立高校に進むことになった。そこでは女子はビジュアルが全てだった。彼女たちは学校の成績なんてどうでもいいと思っていた。それよりもどうすればもっと可愛くなれるのか、オシャレになれるのか、男にモテるのか――彼女たちは朝から晩までそのことだけを考えていた。彼氏にフラれて恋の魔法から醒めていた私の目には、彼女たちが何か違う世界の生き物のように映った。
話の合う相手などいるはずもなかった。私は孤立した。私は休み時間も教科書を開いて必死に勉強していたが、自分が何のために勉強しているのかは正直わからなかった。周囲の恋愛至上主義の女の子とは違うということをアピールしたかったのかもしれなかった。自分に言い聞かせたかったのかもしれなかった。でも私のそうした振る舞いは、周囲の女の子たちのお気に召すものではなかった。彼女たちは私に嫌がらせをするようになった。
ある日、休み時間に勉強していた私にテニスボールが飛んできた。それは私の頬を直撃した。投げたのは取り巻きをいっぱい周囲にはべらしたクラスの女王、麗奈だった。テニス部だが、まともに練習している姿を見たことはない。そのユニフォームはもっぱらパパ活のために使われているのではないか、との噂がまことしやかにささやかれていた。私はひりひりする頬を撫でながら、彼女を見た。彼女は私を蔑むような目で見つめて言った。
「あら、ごめんなさいね。避けられると思ったのよ……目が離れてるから、きっと視界が広いんじゃないかと思って」
麗奈がそう言うと、取り巻き連中がどっと笑った。彼女たちは以前から私の容姿について陰口を言っていた。あの子めっちゃ目離れてない? なんか魚っぽいよね……魚人なんじゃないの? アーロンパークから来たんじゃない? ちょっとやめなよー聞こえるって。えー大丈夫だよー魚って別に悪口じゃなくない? あたしマグロとか好きだしーベッドの上じゃ違うけどねー。あははははー。
私は何も言い返せなかった。確かに私は魚に似ていた。彼氏にフラれて泣きながら家に帰って部屋で鏡を見た。涙でぐしゃぐしゃではあったが、確かに私の目はやけに離れており、それは魚を連想させた。私はそのときまで自分が魚に似ているなどということは考えたこともなかった。私は鏡を見るのが怖くなった。そのため化粧などもできなくなった。元々不細工な私はそれを誤魔化すこともできず、ビジュアルでカーストが決まる高校では最底辺をうろつくことになった。
当時、流行っていたアイドルのセンターは目がずいぶんと中心に寄っていた。こういうのが流行りなのだ、と私は思った。こういうのが可愛いということなのだ。ならば私はどうなる。私は目が離れすぎていた。このアイドルとは真逆の存在だった。彼女が活躍すればするほど、私は自分の価値を否定されているように感じた。劣等感に苛まれ、どんどん自信をなくしていった。
だから麗奈にテニスボールをぶつけられたときも、何も言い返せなかった。本当は立ち上がって彼女の綺麗な顔をひっぱたいてやりたかった。「このエンコー女!」と言ってやりたかった。でもできなかった。私はここでは何の価値もない人間だった。いや、人間ですらないのかもしれなかった。私は魚だった。それも、鯛や平目といった上等な魚じゃない。鰯や鯵みたいな下魚……あるいは、光の届かない深海をさまよう深海魚のような存在なのかもしれなかった。
帰り道、私はとぼとぼと田舎道を歩いていた。ふとした瞬間に涙が溢れてきた。それは止めようとしても止められなかった。無性に悲しくて、やるせなかった。人生は理不尽で不条理だった。私は目が離れているというだけで初めての恋を失った。同世代の女の子たちの輪にも入っていけない。彼女たちは学校が終われば連れ立って繁華街で楽しく遊んでいるのだろう。でも私はさみしく家に帰るだけ……家に帰っても何もいいことはない。両親は妹ばかりを可愛がる。妹は私と違って目が離れていないのだ。両親にしてもそうだ。彼らは本当に私の肉親なのだろうか? なぜ私だけがこんなにも魚に似ているのだろう。
私は橋の上で立ち止まった。昨晩雨が降ったからだろうか、川は増水しており、流れも速かった。私は欄干から水面を覗き込んだ。吸い込まれるような何かを感じた。次の瞬間には、私は身を投げていた。現実感はなかった。私は一瞬、全てから自由になったように感じた。でもその次の瞬間には、猛烈な勢いで水面へと落下していた。衝撃があり、そこで記憶が途切れた。
目覚めたとき、私は誰かに抱きかかえられていた。力強い腕だった。見上げると、それは若い男だった。まるで宝塚の男役のような、綺麗な顔をしていた。だがその顔は赤面していた。私が彼の顔を見つめると、彼は慌てて目を逸らした。ああ、と私は思った。やはり私は魚に似ているのだ。醜くて、目を合わせてもくれないのだ。
私は川から救い出されたようだった。この男性が私を助けてくれたのだろう。別に……よかったのに。あのまま死んでいても。私はそう思ったが、礼儀として、彼に礼を言うことにした。
「ありがとう……ございます」
彼はその言葉にビックリしたようだった。大きな二重の瞳がキョロキョロと忙しなく動いた。私を抱える手に力が込められたようにも感じた。彼は息を吸うと、よく通る低い声で言った。
「光栄です、姫よ」
「ひめ?」
「あなたは伝説の人魚姫でしょう……私の目はごまかせませぬ」
は? 何を言っているのだろう、この男は。まともそうに見えたが、危ない人間なのか。私は思わず周囲を見渡した。いざとなったらすぐに逃げださなくてはならない。だが、私の目に映ったのは、奇妙な光景だった。私の知っている田舎の風景ではない。何か……外国の建物のような部屋だった。世界史の教科書で見た中世ヨーロッパのお城のような……
「こ……ここはどこ?」
「ここはクロムツ王国です、姫よ。私は王子のマカジキといいます」
「い、異世界?」
「そのようですね。≪異界の渦≫から出てこられたのですから」
見れば、部屋の中央に小さな泉のようなものが見える。
周囲には水が飛び散っており、私はあそこから出てきたようだった。
「帰らなきゃ……」
私が反射的にそう呟くと、マカジキは世界の終わりのような顔をした。
「なぜです! どうか、ずっとここにいてください。私は……私は姫に一目ぼれしてしまったのです! どうか私と結婚してこの国の王妃となってください!」
「はあ? ななな、何言ってるのよ」
なんだこれは? ドッキリか? どこかにカメラがあるのか? まさか麗奈たちの仕業か? いや、でも、ここまで大掛かりな悪戯をしかけるだろうか? 私をからかうためにそこまでするだろうか?
「信じていただけないのですか。私は本気です」
「ででで、でも、私……魚に似てるし……」
「そこがいいのです!」
マカジキは食い気味に言って、顔を近づけてきた。吐息が触れるほどの距離だった。ひいい、近い、近いって。マカジキの瞳は真剣な光に輝いている。私の胸が変な鼓動を打った。バクンバクンといううるさい音が私の脳内を占拠してシュプレヒコールを上げていた。
「このクロムツ王国は魚の女神を信奉する王国……女性の美しさの基準はただひとつ、魚に似ていること。目は離れていれば離れているほどよく、魚であればあるほどよいのです。それは常人離れした、神秘的な美しさを備えているということなのですから。ハッキリと申し上げます。あなたほど魚に似た人を私はこれまでに見たことがありません。きっとこれから先も見ることはないでしょう」
「そ、そうなの……」
それは褒めているのだろうか。褒めている……んだよね。だってその、価値観とかが、多分、私のいた世界とは違うわけだから。いや、でも……
すぐには彼の言うことを吞み込めなかった。何もかもが急で、心の整理が追いつかない。元の世界に帰らなきゃ、と頭では思うのだが、マカジキの真剣な顔を見ていると、なんだかそんなことはどうでもいいようにも思えてきた。元の世界に戻って何かいいことがあるのだろうか。マカジキのような男前に熱っぽい視線を向けられることがこの先一度でもあるだろうか。そんな望みはとうに捨てたのではなかったか。
でも、ここでなら――
私は彼の瞳を見つめ、頷く。その瞬間、彼と心が通じ合ったような気がした。マカジキの顔がパッと輝く。私を抱きかかえる腕に力が込められる。私は引き寄せられ、彼に包まれた。筋肉質な彼の肉体は、適度な反発力がありながらもしっかりと私を包み込んだ。それはとても穏やかな、安らぎに充ちた温もりだった。このような温もりに触れたのは生まれて初めてのことだった。
「ねえ、マカジキ」と私は言った。
「なんでしょう、姫よ」
「私……魚に似ててよかった。本当に。実を言うと、これまでずっと嫌だったの。自分が魚に似ていることが。コンプレックスだったのよ。あなたにはわからないかもしれないけど……」
私を包むマカジキの力がいっそう強くなった。
「あなたはきっと、間違った世界にいたのです。ですがもう、心配はいりません。あなたはいま正しい世界にいます。間違った世界のことは全て忘れて、正しい世界のことだけを考えてください。私はずっとあなたの側にいます。何があろうと、あなたを離しはしない」
私は涙を流した。でもこれはいままで間違った世界で流してきたような悲しみの涙ではなかった。それは喜びの涙だった。嬉しい時にも、涙は流れるんだ――正しい世界で私はそのことを知った。涙は温かく、私の心を静かに充たしていった。私の離れた目からは温かな涙が尽きることなく流れていた。