44、恨んでほしい
ルーナディアが訪ねた日から数日後。この日も、特に変わらない1日だった。ほとんどの時間は無言で過ごし、必要なことを話すのみで、多くの時間は静寂が部屋を支配していた。
そんな中、オクルスが部屋に戻ろうとしたとき、どん、と背中に衝撃があった。
ヴァランがオクルスの背に抱きついている。人の、体温。日だまりの中にいるような温かさ。すっと息を呑んだ。喉の方からじわじわと温かい感覚が目の方へと熱い感覚が移る。
あ、泣きそう。久しぶりの人の体温のあまりの心地よさに、そんなことを考えた。それを必死に飲み下す。加害者の自分が身勝手に泣く権利などない。
掠れそうなヴァランの声が、背を撫でるような感覚と共に響く。
「僕が、何かしましたか? 大魔法使い様の気に障ることを」
落ち着いた口調。しかし、その声色に含まれる切実さはしっかりと届いてしまった。
「……」
喉が締め付けられたかのように声が出ない。無理矢理声を出そうとしたが、それは空気となってこぼれ落ちた。
ついに、聞かれた。いや、今まで聞かれなかったのがおかしいくらいだ。彼にとって疑問に思って当たり前なのだから。
どのように言えば、彼は納得するか。いや、納得させる必要なんてない。オクルスが、理不尽で適当な人間だということが伝わればいいのだから。
「……なに、も」
「それじゃあ、なんで?」
塞がったような喉から、どうにかして言葉を滑り落とした。そうやって伝えたオクルスの否定に、被せるように問いかけられ、黙り込んだ。
どくり、どくり、と自身の心臓の音がうるさい。なんて答えるのが良いのか。思わず自分のポケットに触れた。そこに入っていたのは一本のリボン。ヴァランからもらったそれは、使うことはないものの、こっそりと持ち歩いていた。
それに触れたことで少し冷静になった。今、この場で説明できるなんてできるはずがない。
オクルスは、嫌われる。その決意を揺らがせては、駄目。
「何もない。本当に」
先ほどのように声を震えさせるような失態は起こさなかった。できる限り、冷めた声色で言い放つ。
そして、ヴァランが自身の腰に回していた手をやんわりと外す。自由の身となったオクルスは、そのまま前へと歩みを進めた。
「大魔法使い様!」
「私のことは、放っておいて」
後ろから、ヴァランが呼んでいた。しかし、オクルスは、彼の顔を見ることはできなかった。自分の声が震えていたが、それを隠すように足音を立てて歩き、自室の扉をしっかりと閉める。
荒くなりそうな呼吸を、必死に宥めた。全速力で走った後のように心臓がうるさい。
はっきりと、オクルスはヴァランのことを拒絶した。
ふう、と息を吐く。それは部屋の中に静かに消え失せた。そのままふらふらと歩き、寝台へと向かう。清潔にしているはずの寝台へと寝転がり、天井を見上げた。
ぐしゃり、と三つ編みが崩れる感覚がしたが、それを気にせずに上だけを見る。
「……ヴァラン」
彼の名前を呟く。それは、ふわりと舞い、すーっと消えた。はあ、とため息をついて顔を覆う。
さきほど、ヴァランはどんな顔をしていたのか。何を思ってオクルスに抱きついてきたのだろか。
今は冷たい寝具が背にあたっている。先ほどまではあんなに温かかったのに、すでにひんやりと冷めた感覚。
また息を吐いたオクルスは呟いた。
「ヴァラン。そろそろ、私のことを嫌いになってきたかな?」
毎日同じような態度を繰り返しているのだ。少しなら、違和感だけで終わるだろう。しかし、それが日が進むごとに積み上がっているのだ。
きっと、嫌気がさしている。それで今日、理由を尋ねる気になったのだろう。
確実に。ヴァランの心境に変化が生じている。今までは黙って受け入れていたヴァランが問うてきたのだ。
彼がオクルスへの見切りをつけるきっかけの1つになっただろうか。
目元にかかっていた前髪をかき上げたオクルスは独りごちた。
「ヴァラン。私を、恨んで。憎んで。そうして、その感情を生きる活力にして」
彼がオクルスがいなくなってからも平気で生きてくれれば、それでいい。間違っても、オクルスの死後に国を滅ぼし、世界をも滅亡の危機にさらすなんて駄目だ。
オクルスへの怒り。それを原動力に、今後も生きてくれることをオクルスは強く願っている。