第十六話 人と恐竜が繋がる未来
一
千之が現れた。
全長五十メートルの巨体は頭をもたげた。前脚を岩礁に乗せて、水に隠れていた全身を現す。
亭羅野さんのBIG-ADAが動いた。千之の動きは緩慢で、長い首を抱え込んでいくと千之は首を曲げてゆるゆると抵抗する。千之の体が浮いた。
巨体が回転する。千之についてきた波が岸壁とボクらを濡らす。胴が灯台に当たり根元から折った。一周して、亭羅野さんは海に向かって千之を離す。大波が発生した。ボクは避難すら考えず戦闘を見守った。全身で波しぶきを浴びる。
『千之、帰ってきなさい』
BIG-ADAに備えられたスピーカーから中山教授の声が響いた。海面に横たわっていた千之は起き上がり、巨大なティラノサウルスを見つめる。そして何を思ったのか。
飛んだ。
横腹から出したジェットエンジンを起動させ、千之は逃走した。
納沙布岬の作戦は失敗した。千之は択捉島上空を通り散布山の頂上を一メートルほど削ったらしい。
亭羅野さんは択捉からロシアへ渡ったがヴォストチニでも逃げられた。千之は北朝鮮を跳び越え中国の長江で景観を破壊し、ベトナムのブンタウで観光客を散らした。ベンガル湾を泳いでスリランカの紅茶畑を熱線で焼き、インドのガンジス川で葬儀を邪魔した。すべての場所で亭羅野さんは先回りしたが投げても絞めても呼び掛けても千之は止まることなく次の場所へと移動した。その度に世界各地の観光地は甚大な被害を受けた。
「エネルギーが尽きるのを待つしかない」
追跡を始めて十六時間後、安部利さんが歯を磨きながら言った。
「千之のADAは浸透圧ユニットにより発電しています。海と河川を交互に泳ぐのはそのためでしょう。彼が動き回る限りエネルギーはほぼ無限です」
中山教授が答える。
「ですが航空燃料はいずれ尽きるのでは」
言うなり速報ニュースが入った。
『サウジアラビアの油田が白いアルゼンチノサウルスに襲われています』
画面の中の千之は喉に付けられた精製ユニットで燃料を補給している。
「遅かったか」
安部利さんの尻尾がトラックの床を叩いた。満腹になった千之は油田から飛び立ち、地中海へ向かったらしい。
「しかし、これではっきりわかりました。千之さんは今の自分の状況を理解している」
寝癖を整えぬままボクは言った。いきなり機械の体になって混乱しているというわけではなさそうだ。彼は目的をもって移動している。
「そもそもなぜ千之さんは建造物を破壊しているのでしょう」
ボクは中山教授に問いただした。安部利さんも彼の顔を覗く。
「……彼はいつも嘆いていました。私の体が弱いことを」
中山教授は話し始めた。
「私の体が弱いのは高度に発達しすぎた科学文明のせいだと信じていました。因果関係はないと私は説得しましたが、何分、古い恐竜ですので……」
「彼の敵は、文明そのものということですか」
「我々の生活を原始時代まで後退させるつもりかもしれません。そのようなことを、常々……」
中山教授は沈痛な面持ちで地図に視線を落とす。涙が一滴、海に落ちた。
「説得を続けましょう」
ボクは言った。
アテネでアクロポリスを破壊し、ローマのスペイン広場を踏み荒らし、リヨンでノートルダム大聖堂の屋根を噛み砕き、バルセロナでサッカー場を掘り返した。千之は説得には応じず無言で破壊活動を繰り返している。
「もう無理かもしれません」
中山教授は言った。千之の追跡を始めて四十時間が経過した頃だった。
「千之は覚悟を決めているのでしょう。自分の命が尽きようとも文明を破壊すると」
「しかし」
「私の心の中にあるのです。私の家へ尽くしてくれた千之に、彼の自由にさせてやりたいという思いが。地球を半周してもこれなのですから……」
安部利さんが中山教授の襟首をつかんで、吊り上げた。そして中山教授の目を睨む。
「千周でも万周でも付き合っていただきますよ」
本気の目だった。
二
事態が動いた。千之がモロッコからアフリカ大陸へ入り、ヴィクトリア湖へ向かう途中だった。最初はサハラ砂漠から巻き上がった砂が彼の可動部に入ったことによるエラーかと思われた。
先回りをしていた最中の亭羅野さんの前に、ジェットを動かしながら千之が着陸する。
『もうよい……』
音声はそう聴こえた。
亭羅野さんは中山教授の声を再生する。
『千之、帰ってきなさい』
『うるさい』
千之は吠えた。
『お前の言葉で話せ。それは聴き飽きた』
亭羅野さんはその言葉に答えて、マイクをオンにする。
『私は、亭羅野です。日本へ戻りましょう、千之さん。教授が待っています』
『なぜだ』
『あなたの家族だからです。ずっと一緒だったんでしょう』
『義雄は我を自由にすると言った』
教授の名前を呼んで千之は首をかしげる。
『結果与えられたのが、この身体だ。我は義雄の望み通り、自由になった』
『それは……』
『我はもう帰りたくない。あの家にはな』
中山教授との決別の言葉だった。
『恐竜と人間が暮らして楽しいのは、人間だけだ』
『そんなことはありません!』
亭羅野さんは叫ぶ。増幅された音が地面を揺らす。
『人間と共にいることで、恐竜だって変われるんです!』
『なにを変わる必要がある。恐竜は完成された生物だ』
『ちがう、ちがいます! 誰かのために戦うことで、優しくなれるんです、あなたも!』
『あなたも? お前は自分が優しいとでも思っているのか?』
千之の言葉には嘲笑が含まれていた。
『物言わぬ恐竜を投げ飛ばし、文明の破壊を手助けしていたお前が』
『あ……』
そう言われて、亭羅野さんはBIG-ADAのカメラを周囲へ向けた。砂漠にすむ少数民族たちが心配そうに二頭の巨大恐竜を見つめている。
『ここでもやってみるか。我を投げ飛ばし、あの集落を……』
『やめて!』
『……お前は恐竜ではない。未熟だからな』
千之はジェットエンジンを起動し、去っていった。
追跡を始めて四十四時間。
「………」
亭羅野さんは消耗していた。一度、休憩を取らせることにした。
「こうしている間にも彼は文明を破壊しています。休むわけには」
「俺たちは何も巨大ロボのプロレスが見たい訳ではない」
安部利さんが厳しい言葉をかける。ヘッドギアを外した亭羅野さんはしょんぼりと肩を落とす。
BIG-ADAはサハラ砂漠の無人地帯に放置されている。
「私では、彼の心を動かせない……」
たしかに限界だった。その巨体で周囲の物を破壊する限り、千之の目的に加担してしまう。恐竜の時代が来た。真・恐竜協会の街宣車の声が聴こえて、遠ざかっていく。恐慌状態の全世界は同じ気持ちを抱いているだろう。神出鬼没の恐竜に、恐怖に支配されていく。
ここで文明は、人類は終わってしまうのだろうか。
「教授」
声を発したのは一人の学生だった。中山教授の教え子、名は山田と言った。
「BIG-AHAを起動しては」
「BIG-AHAを……」
沈んでいた中山教授の表情が変わった。
「しかし、あれはまだ倫理チェックも通ってない」
「教授自身が《《入る》》なら問題ありません。最終調整は五分で終わります」
山田青年はヘッドギアを教授に渡す。
三
教授はヘッドギアを装着し、操縦室へ乗り込んだ。
「ユングシステム作動。テスト、OK。搭乗者バイタルサイン、OK」
ヘッドセットを装着した学生たちは端末を叩きながら一つ一つ状況をチェックしていく。モニターに映し出されたのは山田の母校、京都恐竜大学である。グラウンドが割れ地下実験場から白色の巨人がせり上がってくる。
巨大オーグメンテッド・ヒューマン・アーキタイプ、コードネーム『BIG-AHA』がその姿を現した。
国際絶滅研究所でアルバイトをしている叔父を思い出し、山田はスイッチを入れた。




