第一話 君と会う口実のタッパーおかず
一
ティラノサウルスが蕎麦を持ってきた。
「よろしければ、ご家族で召し上がってください」
彼女は牙の並んだ口で丁寧な日本語を話し、小さな前足で蕎麦の箱を掲げる。
留守番がボクだけでよかった。うちの、恐竜が大好きな妹なんかが居たら、大変だっただろう。
「ご丁寧にどうも」
ボクは蕎麦を受け取った。
その日の夕食。
「お隣、亭羅野さんって言うんだって」
母が早速話題に出した。
父は黙ったままだ。
「ティラノサウルス。恐竜最近増えたわよねえ」
「お母さん遅れてる。恐竜市民権が認められてもう十年だよ」
からあげを咀嚼していた妹が口を開いた。
「そうはいってもねえ」
「『怖い』とか『でかい』とかそういう言葉は差別だからね、絶対だめだよ!」
母は黙ってしまった。
「お姉も気を付けてよ!」
妹は不機嫌そうにもう一個からあげを口に入れる。言われたボクは味噌汁を口につけた。
父は黙ったままだ。
「お蕎麦貰ったし、明日にでも食べよう」
ボクはそれだけ言った。
二
数日後。
斜向かいの大橋さんがたずねて来た。
「ごみの分別がされてないんですよ」
「はあ」
ボクは返事をする。
「回覧板に書いておいたんですけどね、入間さんからも言っておいてください?」
「誰に、なにをですか」
大橋さんはあたりをキョロキョロ見回してから声を小さくして言った。
「お隣さんに、骨を燃えないごみに出すなって」
ボクは思わず目を見開く。
「漁ったんですか?」
「まさか、そんな! わたくしカラスじゃありませんから!」
「知ってます」
大橋さんは道路を飛び跳ねて、自分の家へと帰っていった。
「あの」
声がした方を見る。柵の影から亭羅野さんが現れた。庭の手入れをしていたらしい。
「ご迷惑おかけしてます」
亭羅野さんはそう言って頭を下げた。
その日の夕方、ボクはおかずを入れたタッパーを手にお隣をおとずれた。
「これ、肉じゃが余ったので」
「ありがとうございます。あ、今からお茶を淹れるんでよければ」
「いやいやわたしのことなんか気にせず」
ボクは外向きの一人称で言った。
「飲んでいってください」
リビングに上がらせてもらった。調度品は少し大きめだが、何とか座れる。
亭羅野さんは一頭暮らしらしい。
引っ越して来て一週間も経ってないのに、町内会での印象はよくない。
「やっぱり肉食恐竜だからですかね」
亭羅野さんは自分からそう言った。
小さな前足で急須を器用に使い、お茶を淹れる。
「大丈夫ですよ」
ボクはなんの根拠もなく言った。
亭羅野さんが来て二週間が経った。
「寧住さん家のぼっちゃんが行方不明なんですって」
「最近物騒だわ」
母が話しているのを聴いてしまった。
妹はわざわざ家の周りを迂回して通学している。お隣さんの前を通らないように。
帰宅した妹にたずねた。
「挨拶しないのか」
「………」
無視された。
最近は恐竜の話もしなくなった。
父は黙ったままだ。
ボクは時々、冷蔵庫の中のもので適当なおかずを作ってお隣さんに届けに行った。
「これ、大和煮余ったので」
「ありがとうございます。あ、今からお茶を淹れるんでよければ」
リビングに上がらせてもらった。
「妹が恐竜好きなんですよ」
「それはそれは、照れちゃいますね」
亭羅野さんは小さな前足で自分の頬を搔くような仕草をした。届いてはいない。
「実物には会いたくないみたいです」
「なぜですか?」
「それはボクもさっぱり。幻想が壊れるのが嫌なんじゃないですか」
ボクは自分の考えを言った。
「やっぱり肉食恐竜だからですかね」
亭羅野さんは自分からそう言った。
三
町内会の行事で水路清掃に参加した。
完全防備の亭羅野さんは一生懸命、水路にたまった落ち葉を拾っていた。
「あーっ!」
大橋さんが水路に落ちてしまった。
「大丈夫ですか!」
皆が動けなかった中、亭羅野さんだけが頭をつっこむ。大きな口を覆っていたマスクが外れた。
レインコートに牙をひっかけて、大橋さんが救助された。
「お怪我はありませんか?」
「あ、あ、あ、あなた、いま、た、た、た、たべ」
「無事でよかったです」
大橋さんは何かを言おうとしていたが、救急車に載せられて行ってしまった。母が立ちすくんでそれを見守っている。
ボクは缶ジュースを開けて亭羅野さんに渡した。
「お手柄でしたね」
「いえいえ」
牙の間に缶をはさんで、亭羅野さんは一気に飲み干した。
「怖がらせてしまいました」
亭羅野さんは自分からそう言った。
「誰も怖がってなんかいませんよ」
ボクは嘘をついた。
その日の夕方。
ボクはみぞれ煮をタッパーにつめてお隣に持っていった。
亭羅野さんは出てこない。
「留守だろうか」
そう思っていると、二頭の恐竜が庭に入ってきた。片方は亭羅野さんだけど、もう一頭はわからない。細長い頭がボクの顔を覗く。デイノニクスだ。
「うん、誰?」
デイノニクスが言った。長い爪にネイルアートが輝いている。
「こちらお隣の入間さん。入間さん、友達の泥野です」
亭羅野さんは言った。
泥野さんは尻尾をぶんぶん振り回して、ボクに握手を求めた。
「うぃっす、泥野でっす」
「よろしく」
「これからティラとマリカやるけど、入間サンも、ど?」
「いえ、忙しいので」
ボクはなんとなく不機嫌になって、ちょっと冷たい態度を取った。
夕食を食べていると亭羅野さんが家をたずねて来た。
「友達がすみません、失礼な態度を取ってしまって」
「そんなことないですよ」
「これ、いつもお世話になってるのでお詫びに受け取ってください」
冷凍のすき焼きセットだ。
「こんな高そうなもの悪いですよ」
「いいんですいいんです。貰ってくれた方が助かります」
「お肉なのに?」
「………」
亭羅野さんは頭を沈めて、申し訳なさそうな声で言った。
「お肉、苦手なんです」
押し負けて受け取ってしまった。
「では、失礼しました」
亭羅野さんは帰っていった。
後ろを振り返ると父がリビングの扉の隙間から覗いていた。
「なに貰った」
「すき焼き」
「そうか」
父は言うと、夕食に戻っていった。
すき焼きセットが溶けないうちに冷凍庫へ入れる。
ボクが席につくと母は深呼吸をして、食事を再開した。
四
恐竜市民権が認められて十年、ボクらは未だにこんな調子だ。
五
ボクは切り干し大根を持ってお隣をたずねた。肉は使ってない。入ってるのは油揚げだ。
「ありがとうございます。お茶を淹れるんでよければ。……」
お決まりになった挨拶の後で、亭羅野さんは何かを考えているようだった。
短い前足で器用に入れたお茶をいただく。
「もう家には来ないでください」
亭羅野さんが言った。
「なぜですか」
「ご迷惑をかけてるので」
「そんなことはありませんよ」
ボクは正直に言った。
「……恐竜差別の感情は他の生物、特に哺乳類には自然なものなんです。身を守るためにある本能を無理に曲げてまでご近所付き合いする必要はありません」
亭羅野さんは自分からそう言った。
「ですが」
「私もつらいんです。怖がられるのは。ただ、静かに暮らしたいだけなのに」
ボクはつい、その言葉を言ってしまった。
「じゃあ恐竜とだけ付き合っていてください」
「………」
それから三日後、亭羅野さんは引っ越していった。
六
一年後。
妹は街の大学に通うため一人暮らしを始めた。差別意識について研究するらしい。高校の友達との通話で、恐竜が家の隣に住んでいたことを誇らしげに喋っていた。
母はカウンセリングに通い始めた。長期間肉食獣が近くに居たことからPTSDを発症したらしい。
父は何も言わなかった。ただ、ボクと妹がいい年して読んでいた、子供向けの恐竜の本をビニールひもでまとめて押し入れにしまった。
ボクは、何も変わってない。
ボクは街へ来ていた。妹に頼まれて荷物持ちをしている。
街ではさまざまな種別の生き物が、バラバラに、自分勝手に歩いている。そこに肉食獣は見かけない。生きとし生けるものの楽園。そうなんだろうか。
ふと、大きな頭が見えた気がした。
バス停の屋根の上に、牙を見せて笑うティラノサウルスがいる気がして振り返った。でもバス停に寄りかかっていたのは草食恐竜で、臼状の歯列を見せて笑っていた。
がっかりしていると、視界が遮られる。妹の手だった。
「なに? 気になる服でもある?」
顔を覗き込む。少し派手になった化粧。
「ううん、わたしの勘違いだった」
ボクは外向きの一人称を使って頷いた。
道路をデイノニクスの群れが走ってきた。
「そこの暴走恐竜! 止まりなさい!」
警察車両が追いかける。
無関心に会話を続ける人。スマホのカメラを向ける人。
「お姉、危ない!」
歩道へ飛び出してきたデイノニクスが、本能に光る目を向けてきた。ボクは逃げるのが遅れた。
「お姉!」
デイノニクスが跳んだ。
それを、大きな尻尾が突き飛ばした。
ティラノサウルスのものだ。
「キミ! 下がって!」
警察官がボクの手を引いた。
太い足が道路を蹴って、鋭い牙の並んだ口が群れを噛み砕く。デイノニクスの体が浮き上がって宙を舞った。ヘルメットのすき間から黒く輝く目が見えた。
亭羅野さんだ。
亭羅野がいる。なんで?
「止まりなさい!」
亭羅野さんの声だ。
デイノニクスが人間の警察官に襲いかかる。それを亭羅野さんが体当たりで散らす。尻尾を振り回して、注意を引いている。咆哮を上げて大きな口で投げ飛ばす。
警察官になったんだ。じゃなくて、なんでこんなところで、なんで、何も変わってないボクなんかが、あんなことを言ったボクなんかが、亭羅野さんに助けられてるんだ?
なんで。
「止まりなさい!」
亭羅野さんは暴走するデイノニクスと戦い続けた。
ボクはあとから来た救急車で搬送された。膝を擦りむいていただけで、大したケガはなかった。
その時にようやく気付いた。
ボクは出会った時から、彼女が好きだったんだ。
七
ボクは一人暮らしを始めた。いくつかの会社の募集にエントリーした。
今時、なんの取り柄もないホモサピエンスなんて需要はないだろうけど、バイトでもしながら挑戦しようと思う。
賃貸マンションの三階。生活に必要な荷物をだいたいほどいたので、お隣に蕎麦を持っていった。
チャイムを鳴らす。
「隣に引っ越してきた入間です。お近付きの印に……」
言い終わるか否か、ドスンバタンと物音がして、しばらくの静寂のあとゆっくりドアが開いた。
ボクは、その顔を見上げた。
「亭羅野です」
唖然とした後、どちらからともなく笑った。