第五話 空の魔女:クラウディア
森には再び静寂が訪れた。けれど、それは先ほどまでの不穏な沈黙ではない。蜂の影が消え、今は穏やかな平穏の静けさが、木々の間に広がっていた。
森の奥にはクロとカルネ、ミネ、そして気を失った蜂の魔女――その場に佇む彼らだけが、この新たな静寂を共有していた。
「カルネ、捕縛を頼めるか。また暴れられたら面倒だ。」
「はい。ミネちゃん、ちょっと降ろすね。」
カルネがミネに声をかけると、少女は不安そうに少しだけ口を尖らせたが、やがてこくりと頷き、カルネの腕に身を委ねた。
「フフフ、強い子ね、ミネちゃんは。」
カルネの微笑みが木漏れ日に照らされ、どこか聖母のように映る。その笑顔が、ようやく静まった森にわずかな温かみを加えていた。
カルネはふと気を引き締め、白目をむいた魔女に目を向ける。「さて」とつぶやき、捕縛用の魔法を唱えようとした――そのときだった。
「その必要はございません。」
澄んだ声が森の中に響く。その声の出どころは、気絶した魔女もどきの隣――いや、そこに新たに現れた存在からだった。
「誰だ!?」
クロは即座にミネを背後に庇い、前へ出る。
致命的な反応の遅れの中で、自らを盾にすることが最善であった。
「驚かせてしまい申し訳ありません。」
静かに応じる声とともに、虚空から三人の女たちが姿を現した。いや、正確には――彼女たちはそこに最初から存在していたとしか思えない。それほどまでに自然に…自然であるがゆえに却って不自然に彼女たちはそこにいた。
中央に立つ一人の女――彼女の装いは、目を奪うほどに異質だった。白い短髪、雪のように透き通る肌、そして薄い唇。まるで血の流れを拒んだ彫刻のように冷たく美しい。そして、その首筋には「手紙を加えた梟」の文様が刻まれている。それはまるで命を持つかのように脈打ち、淡い光を放っていた。
――本物の魔女だ。
クロは確信し、無意識に剣を握り直した。
彼の剣はとうに壊れているのに、それを忘れてしまうほど、目の前の存在に圧倒されていた。
「私に敵意はありませんよ、剣鬼殿。」
女が微笑む。その言葉は空気に溶けるように柔らかだったが、どこか別次元の位相から響いているような、不気味な異質さが滲んでいた。
「……カルネ。」
クロは小声で相方の名前を呼ぶ。
「大丈夫、恐らくは味方。あの人は空の魔女、クラウディア様。」
カルネはクロに耳打ちしながら、クラウディアを注視する。その目の奥には、虚無と雲のような不確かさを宿した瞳があった。
「あら、貴女はミランダ...いえ、北の魔女のところの」
クラウディアはカルネに目を向ける。その視線はただ見つめるだけでなく、掴んだかと思えば指の間をすり抜けていく――そんな奇妙な感覚を与えるものだった。
「魔女見習いのカルネです。あの……『必要ない』とは?」
クラウディアは冷たく微笑みながら応じる。
「この御老体をこちらで引き取らせていただけないかしら。今日は東の魔女の遣いなの。」
そう言うと、クラウディアは倒れた老婆をゆっくりと抱き起こした。老婆の顔には砂や小石が付着していたが、彼女は無抵抗で天を仰ぐように膝をついたままだった。クラウディアはそんな彼女を優しく抱き寄せ、「かわいそうに」と囁く。その仕草は冷酷さと慈悲を同時に湛えており、どこか艶めかしさすら漂わせていた。
「…嫌だと言ったら?」
クロが挑発的に問いかける。
「あらあら、困りましたね。」
クラウディアは静かに笑みを浮かべながら、指先で虚空をなぞる。すると次の瞬間――
「うぐっ……あぅ……。」
老婆の首筋に絡みついた糸状の雲が絞め上げ始めた。その力は、ただ見ているだけで凄まじいものだと分かる。老婆は必死にもがくが、雲は掴むたびにすり抜け、首筋には裂傷が増え続けていく。
「……もういい、やめろ。」
クロの静かな声が森に響く。
闘気は薄紅の霞となり、ゆっくりと森に溶けていく。静けさばかりが募っていく。
剣鬼の言葉を聞き、クラウディアがある種、慈しむようなまなざしをクロに向けた。
「剣鬼殿は心優しいのですね。あぁ、なんて可愛らしいの。」
クラウディアが口元を押さえ、くすくすと笑う。その笑い声は、どこかこの世のものではない狂気を帯びていた。
「ミランダさんにも話はついているんだろ?」
クロは柄しか残っていない剣を下ろしながら言葉を投げる。
老婆を抱えたクラウディアの手下たちが、静かに朧気になっていく。そして、最初からいなかったかのように、幻のように消えていった。彼女たちの声だけが辺りに木霊している。月の名残りみたいに、確かにそこにあるはずなのに、やはりどこか遠くに思える。
「お察しの通りです。元奴隷の剣鬼さん。さ、ミネちゃんを連れて村に戻りなさい。もうじき正午の鐘が、、、。」そしてクラウディアの声さえも、段々と幽かなものになっていく。
「……はっ、ホントいつから見てたんだ。」
クロがつぶやく。しかし、その言葉は森の空に溶け、誰にも届かないままだった。
クラウディアはまだ其処にいるのだろうか?意味のない疑問だな。
そこには二つの可能性が――まるで漂う雲のように揺れながら、答えのないまま空に消えていくばかりだった。
クロはやれやれと肩をすくめ、静かに呟いた。
「あぁ、魔女って本当に……。」